何故に中国語のポップスなのだろう(01.10.03)
ぼくが中華ポップスを意識して聴き出したのは1995年くらいからだから、洋楽とかに較べたらそんなに長いわけではない。しかし、出会ってから今もなお、新譜が出る度チェックしてずっと聴き続けている音楽というのは、自分としては珍しいことかもしれない。
あくまで頻度という意味で、ジャズを聴きあさってた頃とか、ラグタイムが好きだった頃とか、ケルト音楽を集中して聴いていた時期というのが確かにあった。
そういう風に一度好きになった音楽は、あとから聴いてもそれは好きな音楽なのだけど、やはり波のようなものはあったと思う。
考えてみたら、不思議な出会いである。もとはと言えば、コクトー・ツインズ繋がりだったのだから。
もうひとつ自分でも不思議だったのは、中華ポップスがいいなと思い始めてから、その言葉の意味がわかるようになりたいと思ったこと。フレンチ・ポップスが好きだからといって、ボサ・ノバが好きだからといって、フランス語を習いたいとか、ポルトガル語を習いたいと思ったことは一度もないからである。
『イパネマの娘』を聴いていい曲だなーと思っても、声は旋律を奏でる楽器の如く、心地よく音として聴くだけで充分満足だったのである。
これは一体どうしたことなのだろう。
中華ポップスといっても、単に中国語で歌われているポップスという意味なので、別に特定のジャンルを差しているわけではない。でも、その土地特有の空気みたいなのがどこの音楽にもあって、特に台湾、シンガポール、マレーシアあたりの中華ポップスは、誠実で柔らかな曲が多いように思う。そこに一番ハマったのだと思う。
もうひとつは、同じ漢字を使う国民として、言葉に興味が沸いたのだと思う。中国語を学べば学ぶほど日本語は中国語 −それも北方だったり南方だったり− からかなりの言葉を取り入れていることが今更ながら実感してきて、近くてなんだか遠く感じていた国が、にわかに身近に感じられてきたのである。

これが一応ふと最近思ったことであるが、字にするとなんだか固くて、今更ながらな感じだな。
どうもすいません。

back