朝日のようにさわやかに

 運命の日の天気を覚えてる奴って、そういないと思う。
 たとえば結婚式とか予めわかってるイベントじゃなくて、そういえばあの日は人生の節目だったなって日。節目ってなんだか年寄り臭い?その日には意識してないんだけど、後から思えば、あの日に大きく人生が動いたなあって思う日。

 おれはとてもよく覚えてる。
 その日の空を、がたがた揺れる荷車の上で仰向けになって眺めてた。車を引く驢馬の乾いた蹄音。手綱を引くのは親父だ。素晴らしい晴天。雲もおれもゆっくりと動く。
 ようやく夏の暑さが去りはじめて、夜には虫が鳴き出した頃。空がいちばん高い季節。収穫前のシーズン、畑仕事はキリなくある。それでも朝からずいぶん頑張ったから、日の高いうちに今日の分は終わった。おれは澄み渡った空を見上げて、荷車に積んだ藁へひっくりかえってた。空を眺めて十一歳のガキの考えることといったら、今日はこの後なにして遊ぼうだとか、この前作った筏はどうして壊れちゃったんだろうとか、最近赴任してきた先生がおれのノートを覗き込むときのいい匂いだとか、実にとりとめのないことだ。つまりは馬鹿の盛り、でも何の根拠もなく、自分は何にだってなれるし何処までだって行けると思っていた頃。神様に与えられた特別な恩寵が、きっと自分のどこかに隠れてると信じていた頃のある一日。

 見上げる空の左右にはプラタナスの枝がはりだし、木漏れ日と葉影がゆらゆらと手をつないで踊っている。荷車が行く田舎道の両側には、金色の小麦畑が地平線まで続く。親父がふかす煙草の匂いが流れてきて、藁の匂いと混じりあう。

「父さん」
「……何だ」

 振り返りもせず面倒そうに親父が返事をした。“親父”なんてガキ同士で話すときは偉そうに呼ぶけど、本人に向かっては言わない。拳骨の制裁が怖い。

「父さんはどうして母さんと結婚したの」

 いかにもガキらしい質問だ。親父は「つまんねえこと訊くんじゃねえ」と馬鹿馬鹿しそうに答えて肩を竦めたけれど、ほどほどに退屈していたのか耳を掻いて話し出した。

「本をな」
「へ?」
「本を読んでたのよ。俺の家の畑と隣の境にデカい樹があんだろ?母さんはいつも、あの下で本を読んでた」

 そんなのが理由?親父はもう話すのをやめて、また煙草を咥えた。暖かい陽射しが白く映るシャツ、その背中がすこし丸くなって照れてる。話しはじめたけど、やっぱり恥ずかしくなったのかな。黙りこくる後ろ姿は何だか可愛かった。親父はあまり本を読まないから、母さんが静かに頁をめくる姿に目を引かれたんだろう。おれもそんな娘を好きになるんだろうか?マリア、ジェシカ、サラ。青い空にぽかんと思い浮かべる顔。この村の女の子たちは、本より花冠やなわとびの方が好きだ。

「お前が本を読むのも、母さんに似たんかな」

 家にはいつも本があって、物心つく頃から母さんが童話を読んでくれてた。はっきりと気持ちを込めて読むのよ、と教えられて、自然に口が達者になった。お前の話は面白いなーなんて言われて、けっこう友達に恵まれてるのも、たぶんその教えの賜物。

「学校の本はみんな読んじまったんだろ?」

 学校の図書室は、子供の背丈の書架がたったの二十。セントラルへ行けば、学校より大きい図書館があるって聞く。おれは高い高い空へ、仰向けのまま手を伸ばした。別に本が読みたいわけじゃない。でもいつか、セントラルへ行ってみたい。知らないことがどんどん押し寄せて、自分がどう変わるのかをみてやりたい。いろんな奴に会って、いろんなところへ行く。そしてじーさんになったら…いや親父が畑をやれなくなる前に、またこの村に戻ってくる。おれは大雑把にたてた人生計画にいたく満足し、もうほとんど成し遂げた気分で上機嫌になった。ガキってのは本当に単純だ。


「よぉ、お帰り。お疲れさん」

 親父がだれかに声をかけた。藁山の上に身体を起こすと、向こうから灰色の馬を引いてベッカーさんがやってくるのが見えた。この村で唯一の本屋と文具屋を開いているベッカーさんは、髪も髭ももう真っ白だけど、たったひとりで店をきりもりしてる。馬の背には隣町でいつも仕入れてくる本がどっさり積んである。ベッカーさんは親父へ帽子を脱いで挨拶してから、おれを見て丸い眼鏡の奥を微笑ませた。

「マース。今日の仕事はもう終わりかね」
「終わりだとおもうよ。ね、父さん」
「ああ。行って来ていいぞ」

 おれは勢いよく立ち上がって、膝や背中の藁をざっと払うと荷車から飛び下りた。ベッカーさんが仕入れてきた新しい本の棚卸しを手伝うと、美味しいクッキーと紅茶がついてくる。花びらがリーフに混ざった不思議な香りの紅茶。シンからの輸入品らしいそのお茶は、他じゃ飲めないふしぎな味がする。それに店の本も自由に読める。小遣いを握って通ううちに仲良くなって、ときどき留守番も頼まれるようになった。壁に貼られた革の地図や、古い仕掛け時計。整然と並ぶ背表紙の金文字。魔法の薬でも入ってそうな妖しい色のインク瓶。留守居の静寂につつまれ、机に座って店のなかを見渡すと、いろんな物が語りかけてくるのが楽しい。


 ベッカーさんの代わりに馬の手綱を引き、土埃が舞い上がる道を歩いていく。荷物が崩れかけ、馬を止めて括り直していると、本人曰く“煙管の吸いすぎで嗄れた”声がした。

「お前さん、わしの後を継いでみんかね」
「ええー?おれ、さっき人生計画バッチリ決めちゃったとこなんだけど」
「なんだね、それは。計画通りの人生なんぞつまらんだろう」


 ベッカーさんは髭をしごきながらそう言って笑った。
 そう。人生は計画通りにいかない。
 おれの人生で最大の番狂わせ的出会いが、その日、その本屋であろうとは。





(2005.10.24)