9.汗染み
明日は早朝から移動だからと、早めに自分のテントに引き上げて作戦の再確認をしていたロイは、ふと人の気配を感じてテントの入り口に目をやった。
国家錬金術師のテントにそう気安く近付く人間はいない。作戦になんらかの変更があったのか、それとも…。
考える前にテントの入り口が無造作に捲り上げられ、見慣れた顔がひょっこりとあらわれる。
「わりい、ちょっと、寝かして…」
しかし、ヒューズはそれだけ言うと、ばたりとその場に倒れ込んだ。
驚いて手にしていた書類を放り投げて駆け寄れば、彼はすでに眠りに落ちていた。くかあ、と長閑な寝息をたて、なんの敷物もない赤土の上に躊躇もなく横たわって。ざっと見渡したところ汚れてはいるものの怪我はなく、本当に眠る場所を求めてここまで来ただけなのだと理解して、ロイは小さく溜め息をついた。それから、断わりもなく佐官…しかも国家錬金術師のテントに転がり込んだ上官に、仕方なくだろうついてきた軍曹が、おろおろとしながらもロイに敬礼を寄越すのに目で頷いた。
「あ、あの失礼いたします、その…」
けれど説明を求められたのだと思った軍曹が、緊張した面持ちで顛末を語ろうとするので、ロイはそれを軽く制した。
「ああ、いい。彼は友人だ」
「そ、そうでありますか…」
軍曹の明らかにほっとした様子にロイは軽く苦笑を覚える。自分がただの佐官であれば、彼もこれほど緊張を強いられたりはしなかっただろう。
「そうだな、30分。30分たったら叩き起こすから、そのころ迎えにきてくれないか」
「はい、あの…」
それでも、ヒューズをひとりにすることがためらわれたらしい。この戦場で「国家錬金術師」に意見しようと口を開くのだから、ヒューズは慕われているのか、それとも、教育ができていないのか。
「なんだね?」
「国家錬金術師」らしい冷めた視線で問い返せば、名も知らぬ彼は、おびえたようにしばらく逡巡していたが、やがて弱々しい声で答えた。
「…いえ。では30分後に」
「ああ」
それからの彼の行動はすばやかった。くるりと踵を返すと、逃げるような足取りでテントから離れる。ロイが見送るなか、慌てたような背中が闇の向こうに消えるまでにそうは時間はかからなかった。
「……ち」
小さな舌打ちにロイは足下に転がったヒューズに視線を落とした。
どうせ半分は狸寝入りだろうと思ってはいたが、ヒューズは自分だけでなく、半分は自分の部下を試すつもりもあったらしい。
だが、ヒューズがどんなことを期待していたにせよ、ヒューズの望むようなものは示されなかったということだろう。
ロイは、捲り上げたままだったテントの入り口を閉じると、行き倒れのようにその場に寝転がったままの男を軽く足先で蹴った。
「寝てるんだオレは。蹴るなよ」
寝ているはずの男は、目を開けもせず、けれどはっきりとした声で呟く。
「何が蹴るな、だ。詐欺師」
もう一度、今度はもう少し本気で蹴ってやろうかと足を引いたところで、気配を察したのだろう、ヒューズはぴょこりと飛び起きた。
「だっておまえんとこ来たかったんだもんよー」
「子供か、おまえは」
にへらと笑って口にする言い種に呆れ、ロイは溜め息をつくと散らしてしまった作戦書類を拾い集めた。
「ロイさんが遊んでくれるなら子供でいい〜」
それを手伝うでもなくみつめて、ロイが定位置にした場所に座り込むと、その傍らへとヒューズはひょいと腰を降ろす。
「戦場だぞ、馬鹿もの」
「戦場だからこそ顔が見たいんじゃねえか」
間近で睨み付ければ、心外だといわんばかりの勢いで、真面目に言い返されて、ロイはまた溜め息をついた。
ヒューズと口で戦うには気力と体力がいる。明日の作戦を考えればここで無駄な体力を使うのはよろしくなかった。言いたいことはほかにもあったが、とりあえずその件については矛先を収め、かわりに目に付いた格好に眉を寄せた。
「…ずいぶん汚い格好だな」
戦場、しかも前線に近く実戦部隊の一員であるからには、小奇麗にしているほうがおかしいのだが、それにしてもヒューズの汚れ具合は普通ではなかった。
一体何をしてきたのだと目で問えば、彼は頭を掻いてから、視線をあらぬ方に向け、それから言い訳するように小声で呟いた。
「んー、ちょっと斥候してきた」
「はあ? それはおまえの管轄ではないだろう?!」
ヒューズは、ロイにとって直属の副官や部下ではないものの、かなり近い場所にいる人間だった。そんな人間が直接斥候に出ることはまずありえない。確かに斥候は重要な任務ではあるが、まだ若いとはいえ優秀な将官候補を気安く投入できるほど軍に人材の余裕はない。
「うん、いや、そうなんだけど。どうもな、入る情報と現状とに落差があるからさ」
「内通者か?」
むしろヒューズの担当としてはそちらの方が正しい。正しいとはいえ、あまり聞きたくない現状にロイは眉を寄せた。
しかし緊張するロイをよそに、ヒューズは軽く手を振って苦笑した。
「いや、そこまではいってねえよ。なんつか、…そうだな、シロートなのよ」
「は?」
「報告の仕方がなってねえっていうか、何を報告すればいいのかわかんねえやつが斥候に出てる。だから、オレが行って、自分で見て、何をどう報告すりゃあいいのかちょっと見本をな」
「……それこそおまえの職分を越えているぞ?!」
たとえば未来に、ヒューズが士官学校の教官となって学生に教えるのなら、彼は優秀な教官になるだろうとロイは思う。けれど、どれほど優秀であろうがヒューズにはまだ絶対的な経験が少なく、おいそれと誰かに何かを教えることはできないはずだった。今自分たちがいる場所は模擬戦の現場でもなんでもなく、簡単に命を落とす可能性のある本物の戦場なのだ。ヒューズこそがそれを一番よく理解しているはずだった。しかし。
「そんなん言ってたら、命がねえ」
軽く睨むようにして言われ、ロイは言葉を失った。
それほどまでに、現在の斥候のレベルは低いといういことで、それは結局「人間兵器」に対する軍のありかたをそのまま示すものであった。
作戦の失敗を斥候の報告のせいにすれば、「軍人」としての能力の低さを叩き、成功すれば、「兵器」として役立つことを認めるが、だからこそ逆にそれなら過度な護衛は不必要だろうと、まわりの兵士のレベルを下げる。そして、どこかで行き過ぎがあれば、それもまた「軍」ではなく「人間兵器」個人の個性としてその責は負わされるのだ。どう転んだところで「人間兵器」の扱いを高めるつもりはなく、軍はただ「国家錬金術師」と「イシュヴァール」という最高の実験材料と実験場所で、自分勝手な実験を繰り返しているだけなのだ。
腹立たしいことだとは思うが、ロイはそれも含んだ上で、今もまだ戦場に立っている。
ヒューズはそれも理解しているはずなのに、時折、自分のいらだたしさをぶつける先をみつけ、そこが危険だとわかっているのにその場所へと駆け出してしまうことがあった。
「…上にたつべき人間が規律を犯したら軍は崩壊するぞ?」
単純に暴走を諌めても無駄だと知っているロイは、あえて遠い場所からヒューズを責める。けれどまた、ヒューズもそれはわかっていて、小さく苦笑を浮かべると、穏やかな瞳でロイを見返した。
「そのへんの責を負うつもりはあるよ。でも、それもこれも、生きててこそ、だからな」
「……あまり、むちゃをするな」
「それ、そのまんま、おまえさんに返すよ」
静かな瞳のままそう返されて、ロイは唇を噛んだ。
無理をしているつもりなどない。けれど、ヒューズにはそう見えるのだろうか。そう見えるから、彼はひとりで走り出してしまうのだろうか。
ヒューズは、じっとみつめるロイの傍らで、はばかりもせずに大きなあくびをした。それは、いつもの彼らしいおおらかな動作ではあったけれど、ロイはその中に滲んだ疲れを感じ取った。眠りたくてここまで来たのは、嘘ではないのだろう。
「ヒューズ」
「んん?」
問う声に答えながらも、ヒューズはまた、眠たそうにあくびを噛み殺す。
「ちゃんと叩き起こしてやるから、少し眠れ」
そう呟けば、ヒューズは嬉しそうに目を細めてその場にごろりと横になった。
「そうだな。焔の錬金術師殿のそばほど安全な場所はねえしな。んじゃ、遠慮なく」
「って、おい! なんで…」
ヒューズは、片膝を立てて座っていたロイの片足をぐいと倒すと、なんの遠慮もなくその上に自分の頭を乗せた。
脚を奪われた勢いにバランスを失ったロイは、慌てて片手をついて身体を支えた。怒ろうと思って膝を占領した男の顔を覗き込めば、しかし、ヒューズは今度は本当に眠りに落ちていた。
呆れて、器用だなと思う反面、それが戦場に慣れた結果だと思うと、溜め息が落ちた。
間近に見る彼の髪は、汗と埃にまみれ、捩れ絡まってロイの良く知る整ったそれではなかった。軍服も同じように汚れ切って、脇の下にも背中にも、大きな汗染みができあがっていた。本来の彼なら許すはずもないそれらが、嘲笑うように彼の上で存在を主張している。
時と場所が違えば、ただ眉をひそめるだけの存在だというのに。
今は、彼が、生きて活動しているあかし。
額に浮かぶ、汚れて黒くさえみえる汗も、そうやって生まれ、流れていくことに安堵する。
汗ばんだ彼の髪から、ロイの膝へとしっとりとしたものが染み込んでいくのがわかった。放っておけばきっと、そこには彼の汗のあとが残るだろう。
「…汚いぞ、ヒューズ」
小さく呟いて、ロイは子供のようにすとんと眠りに落ちてしまった男の髪を撫でた。
けれど、まともに梳くこともできないほどに、彼の髪は汚れ、固まってしまっていた。あまりのひどさに、ロイは小さく苦笑を浮べる。
「本当に、汚いぞ?」
呟いて、それから、ロイは思った。
汗も埃も汚いと、あたりまえに叫べる場所へ、早く、帰ろう。ヒューズがえらそうに朝の支度に口を出すような、そんな平和な場所へ。
願いがかなわないはずはない。そのために今ふたりは、よごれるのも構わずに、突き進んでいるのだから。
ロイは、懐をさぐると、愛用の懐中時計を取り出した。
そして、堅い音を立てて蓋を開け、今の時刻を確かめる。文字盤の上では、細く黒い針が重なりあおうとしていた。
蓋を開けると、穏やかな寝息の狭間に時計のぜんまいが奏でる微かな音が混じる。しばらくの間、その規則正しい音とヒューズの寝顔にだけ意識を向け、それから、ロイは溜め息をついて時計の蓋を閉じた。
ささやかな休息は、あと15分ほどは確保できるはずだった。
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