8.鼻毛
ロイは傍らで平和そうに眠る男を、ベッドのなか、腹ばいになって頬杖をつきながら、しげしげと見下ろした。
よほど疲れていたらしく(それならさらに疲れることなどしなければいいのに、とちらりと思う)、今にもよだれをこぼしそうな様子で大口をあけ、かすかに鼾もかいている。
そんな彼の上にトレードマークの眼鏡はなく、冴えた知性を宿す瞳も瞼のむこうで見えないとなると、なぜかその輪郭はあいまいになり、それなりに見慣れたつもりでいたその顔も、どういうわけか見知らぬ他人のもののような気がしてくる。
不思議だ、とロイはしみじみと思う。この男も。この男と陥った関係も。
奇妙なバランスのうえになりたつそれは、他人に言わせればきっと、思春期にありがちな一過性の疑似恋愛の延長線上にあって、考えようによっては、逃避的で自己陶酔的な錯誤なのかもしれない。そんなふうに、冷静に考えてみることはできる。だが、それを感情が納得するかといえば、それはまた別の話だ。
ヒューズは遊び疲れた子供のような顔で眠っている。安堵と満足と、それから幸福をあたりまえにあらわして、無防備な姿で。
大きな子供だ、と思うと思わず苦笑が浮かんだ。
大らかで寂しがりでおせっかいでロマンチスト。かと思えば緻密な策略を張り巡らしてみたり、他人に愛情をふりまくふりで途方も無くわがままにもなる。つきあいが深くなるほどに扱いの難しさが増し、詐欺だと叫びだしたくさえなる。うるさいとも邪魔だとも思うことが多いけれど、そのくせ、傍らにいなければ足りない気がするときもある。関係も同じことだ。ひどく単純だと思うこともあれば、複雑に絡みあった紐のように、あちこちにいらぬ結び目ができてしまって、簡単にはほどけないと思うこともある。
明確な思考にはしないまま、男の顔を見ながらつらつらとそんな物思いに耽っていると、ふと、くだんの男の片方の鼻の穴から糸のようなものがのびているのに気付いた。それは、呼吸とともにひよひよと揺れる。
伊達男を気取るだけに、身だしなみには気を付けているはずなのに。毎朝鏡を睨み付けながら髪型やら髭あとやらチェックして、ときにはひとのことまであれこれ口出ししてくるような男なのだから。それなのに、これはいったいどういうことなのだろう。
今日は朝から顔をつきあわせていたし、朝のチェック漏れとは思えない。一日を過ごすどこかで、それは存在を主張しはじめたのだろう。
考えてみれば、このたぐいは、ある日突然気付くことはあっても、その成長の逐一を把握していることなどない。ただ発見し、自覚するだけだ。
関係や感情も同じなのかもしれない。存在を知ってはいても、その大きさをきちんと自覚するのは、見苦しいほど成長してしまってからなのだ。
成長を意志で止めることはできず、人間はただ「発見」と「自覚」を繰り返すだけなのかもしれない。
ロイが(自ら言うところの)哲学的な命題について思索に耽っている間に、ヒューズの表情は微妙に歪み、やがて、おずおずと瞼が上げられた。
「…ロイさんたら、そんな熱烈にみつめなくても…。マース、照れちゃう!」
「あほか」
頬を染めわざとらしく体をひねってみせたヒューズに、ロイは冷たい一瞥を与えた。
「ええ〜? じゃあなんでそんな熱心に見てたんだよ。眠っていてもいい男ぶりに惚れ直した?」
万が一そうであったとしても、素直に頷くわけはないと知っていながら、ヒューズはわざわざそんなふうに言う。それが結局ロイに本音を吐かせる最も簡単な方法だということに、最近はロイ自身も気付きはじめていた。しかし、それには目を瞑り、ロイはヒューズの思惑に半分だけ乗ることにした。
「私とおまえは鼻毛のような関係だなあと考えていたんだ」
「はな…げ?」
笑っていいのか、困っていいのかわからないような表情で、ヒューズはロイの言葉を繰り返し、それから上目遣いにみつめあげる。
「ああ」
その反応に満足して頷けば、ヒューズは大仰に首を傾げながら呟いた。
「ええとその、異物の侵入を防ぎ、…たまにはくそまみれ?」
「…おまえはそう思っていたわけか?」
もう少し違う何かを期待していたロイの気持ちを、見事に裏切ってみせたヒューズに、返す言葉も態度も自然と冷たくなる。
「いやまさかそんな滅相もない」
地雷を踏んだことに気付いたヒューズが大慌てで首と手を振って否定したが、一度下降に向かったロイの気持ちを上向かせるには全く足らなかった。
「どうだかな」
冷ややかに言い捨てて背中を向けると、ヒューズは苦笑混じりでそれを引き戻して、改めて腕に抱きこもうとする。もし、そんなことで機嫌が直ると思っているのだったら安く見られたものだなとロイは頭の隅で思った。だから、身体を捩って抗って、目の前の現実を指摘する。
「鼻から鼻毛をひよひよさせているような奴の話など聞かない!」
ヒューズはその指摘に文字どおり絶句したあと、意味もなく鼻のあたりを手の甲でぐいぐいと擦り、それから、憤然として言い張った。
「鼻から脛毛じゃねえんだからいいだろ!」
あまりの言い種に、ロイは偉そうに言い張る男をしばしあっけにとられて見つめあげた。そして、我にかえると呆れ返った声で言い返した。
「馬鹿者! 鼻にはえているから鼻毛というんだ! 脛毛が鼻から生えてたまるか! おまえがそこまで馬鹿だとは思わなかったぞ!!」
「どうせ、鼻毛な関係なんだろう?! 鼻毛も脛毛も大した差はない!」
「あるわ、馬鹿者!」
それからしばらく、事物の呼称と由来、相関関係について馬鹿らしい言い合いが続いた。
ロイが正論でせめれば、ヒューズが詭弁を駆使し、ロイが少しでも言い淀めばここぞとばかりに畳み掛ける。
すでに内容やきっかけがどうこうではなく、いかに自分の主張が正しいかを相手に納得させるかが論旨になっており、弁論にかけてはロイはいささかヒューズに劣る分劣勢に追い込まれた。いや、劣るというよりも、ヒューズほど飛躍的な論理(別の名を「卑怯な手」)を使わなかったというだけのことかもしれない。
気が付けば論理どころか身体までヒューズの下に追い込まれ、ロイは悔しさに最終手段をとった。
ものの発端であった鼻を片手で思いきりつまむと、不意を突かれた相手がふがふがいっている間に枕元にある愛用の手袋を確認。鼻をつかんだ手をぐいと上に押しやって、敵がひるんだすきに身体を伸ばして手袋を手に。慣れたそれを手に通すなど一瞬で済む。
ヒューズの顔が「しまった」という形をつくり、ロイは片頬に笑みを浮べた。
慌てて身体を引き剥がす敵のすぐそばで、ロイは発火布を擦り合わせて炎をつくった。
室内の、ましてそれほど距離のない相手だけに、火花は極力小さく押さえられてはいたが、そもそもの原因であるヒューズの鼻毛を燃やしつくすには十分だった。
「あち、あちちち!」
鼻を押さえ、ベッドの上でのたうちまわる男をロイは半眼で見遣り、重大な宣告でもするかのように厳かに言い放った。
「争いの原因を排除してやったんだ。ありがたく思え」
しかし、赤くなった鼻を押さえ、ヒューズがは軍属にあるまじき暴言を吐く。
「戦争反対!」
「軍人が言うな、馬鹿め」
呆れたロイは肩を落とし、それから耐え切れなくなって笑い出した。
鼻毛のような関係なら、見苦しくなったところで切り落とせばいい。頭の隅に思い浮かんだことを、しかし、ロイは口には出せず、笑いはいつのまにか苦笑に変わっていた。
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