7.足の爪

「あちゃー、いてえと思ったらなんじゃこりゃ」
 ベッドの端に腰掛け、靴を脱ぎ、足の爪を切ろうとしていたヒューズの声に、ロイは興味をそそられて読みかけの本をデスクにおいた。それからとことこと歩いて、騒ぐヒューズの足下を覗き込んだ。
「…巻き爪になりかかってるな」
「巻き爪っていうのか?」
 ルームメイトの冷静なひとことに、右足を抱えたままヒューズが顔を向ける。その顔に頷いて、ロイは簡潔に答えた。
「御婦人方がそう言っているのを聞いた」
 御婦人の足の爪について語る機会というのはいったいどんな状況なのだとヒューズは思う。しかも「方」というからには複数形だ。
「おまえの情報源っていつも微妙な」
 深くは追求せずに、しかしどうにも釈然としないままぽつりといえば、すぐさまロイは声のトーンを落とす。
「失礼だな、私にも御婦人方にも」
「そりゃ、失礼」
 すぐに謝ったのは面倒をさけるためだ。案の定ロイはそれだけで機嫌を直した。
「まったくだ。…これは、爪の切り方が悪いんだそうだ。あと、靴のサイズがあってないとか足を怪我したとか…」
 ロイの指摘に、ヒューズは膝を打つ勢いで声をあげる。
「ああ、そうか。しばらく前に棚の隅に足の指ぶつけて、変なふうに爪を折ったっけ。あのせいか!」
「…スクエアに切るといいらしいぞ」
 ぶちぶちとそのときの状況を呟くヒューズの傍らで、ロイはおまけのようにアドバイスを渡す。しかし。
「スクエアといやあ四角なんだろうけど…」
 あいにくと、女性の爪の切り方にまではまだ情報網を張っていなかったヒューズはすがるような瞳でロイを見上げた。
「紙に…いや面倒だ。私が切ってやろう」
「ええ?」
 確かにロイは絵心がある方ではないし、妙な解説つきで話を聞くよりも実際にやってもらった方が早いのはわかる。
 だが、ロイに絵心がないのと同じくらいに、いや、それ以上に不器用なのはヒューズのよく知るところだった。
「不満か?」
 反論にむっとしたロイに、ヒューズは顔をゆがめる。
 機嫌を損ねるのは得策ではない。それに…、考えてみればロイに爪を切ってもらうなんて、一生に一度あるかないかの奇跡みたいなもんじゃないだろうか。
「いや、その、深爪だけはかんべんな」
 結局、無事な足と不機嫌なロイという組み合わせより、奇跡の状況と深爪の可能性という組み合わせの方に好奇心は負け、ヒューズはロイに片足を委ねた。



 ロイはヒューズの右側に腰をおろすと、その左足を膝にかかえた。
 場所が狭いので、ヒューズがベッドに乗り上げ、ロイを両足で挟み込むような形になったが、ロイに片足を押さえられたヒューズは両手を後ろについて安定悪そうにしていた。
 それを確かめてからロイはあらためてヒューズの足に視線を向けた。
 踵のざらりとかたい感触が少し痛い。脛毛はあるし、太い骨格と大きなくるぶしは男のものだが洒落者らしく手入れはいい方だろう。
 触りたくないような皮膚病もないようだし、顔をそむけたくなるほど不快な匂いもない。大きな足なのに、小指の爪は消えそうなほど小さくてどこか微笑ましい気がした。
 ロイは爪切りを手にすると確認するようにヒューズを見遣った。
 覚悟を決めたヒューズは、体勢は悪いものの、むしろリラックスしているように見えた。ロイと視線が出会うと苦笑のように少し笑う。
 ロイは、改めてヒューズの足の爪、問題の親指の爪をみつめた。
 ほかの指に比べて厚ぼったいそれは、外側の方がとくに丸くなって幾分肉を食んでいる。そこが赤くなって膨らんでいた。
 そこに触れるとヒューズは痛がって足を引こうとするので、爪切りがそこにあたらないように注意しながら慎重に爪を落とす。
 ぱちん、と気持ちのいい音がして、ヒューズの爪は少しだけ短くなった。
「ヒューズ」
「んん?」
「ここ、化膿しているかもしれないから、あとで医務室で消毒してもらうといいぞ」
「そんなんなってる?」
「たぶん」
 言いながら、ロイはまた少しだけ爪を爪切りで挟んだ。しかし、それは深すぎるような気がして、慌ててそれをやめる。
 切ってはいないが、何か痛みでも感じたのか、ヒューズの足が揺れ、ロイは不安になってまたヒューズを見遣った。
「痛かったか?」
「いや、そうじゃなくてさ」
「なんだ」
「なんつーか、今踏み込まれたら誤解されんだろうなと思って」
「何が」
「誤解でもねえか?」
 言いながらヒューズは、掴まれていないほうの足を器用に伸ばして、ロイの屈んだ背を「つ」、となぞった。
 確かにヒューズとの関係は、常識からみれば逸脱した部分はあるとロイも思う。だが、今はその状況ではないだろう。
「勇気があるな、ヒューズ」
 不敵な笑みで言い放てば、ヒューズも負けてはいなかった。
「いつも命がけだぜ?」
「ほほう?」
 言い種に目を細め、それからロイは勢い良くヒューズの足を引っ張って手元に引き寄せると、ろくに見定めもしないまま思いきり爪切りを敢行した。
「うぎゃ!」
 ぱちんという音すらしない状況が、どのような結果を引き起こしたかを如実にあらわしている。
 蹴るようにしてロイから自分の足を取り戻したヒューズは、涙目で「オレの爪〜〜!」と叫び、その様子に「ふん」と鼻をならしたロイは、さっさと自分のデスクに戻って読書を再開した。
 そのあと盛大な言い合いになったが、それよりも足の痛みに負け、結局ヒューズは、半泣きになりながら片足飛びで医務室に飛び込み、医者の正式な治療を受けるはめに陥った。


 だから。
 ヒューズの足の爪が歪んでいるのは、少なくともぶつけたせいばかりではないのだが。
 しかし、その理由を知っているのは、本人と、その原因をつくった犯人だけで、彼らが口を割らない以上、それは誰も知らない秘密ではあった。