5.ふきでもの

 不意に、身体がぐい押さえ付けられるような感覚がして、ヒューズの意識は眠りの底から引きずり出された。
 しかし、日々の訓練にぐったりと疲れきった身体はすぐに目覚めようとはせず、瞼もうまく上がらないのに、意識ばかりが先に鮮明になっていく。
(もしかして、これが噂の金縛りとかいうやつか?)
 恐怖心よりも興味の勝る思考は、起き切らない身体を叱咤して、ようやくゆるゆると瞼を上げさせることに成功した。
 寮の部屋は完全な闇には落ちない。廊下に点在する灯火は光量こそわずかだが夜の間中つきっぱなしだし、寮監が懐中電灯を手に、定期的に巡回していたりもする。廊下と部屋とを区切る扉は年代物で、おかげさまでその光を部屋の中にまでこぼしていた。窓には一応カーテンが引かれているものの、窓の向こうに広がる校庭にも、やはり常夜灯が点在していて、夜中の大胆な脱走者を暴くのに役立っている。
 つまり、いくら夜中で、ヒューズの目がいくらか悪かったところで、その闇ともいえない闇に目がなれるのにはそれほど時間はかからなかった。
 何度かまばたきするうちに、自分にのしかかる影が見えてきた。
(うわ、これ、もしかして本当に金縛り?!)
 さすがに慌てて、起き上がろうとしたが、思った以上にヒューズの身体はベッドに押さえ込まれていて、うまく身動きができなかった。
 焦りながらも目を凝らせば、あやふやだった輪郭もはっきりしだし、その呼吸も耳に捕らえることができた。
(…呼吸…?)
 思った途端、ヒューズはそれが何かを悟った。
「ロ…! ロイ、何する気だ!」
 大きくなりかけた声を慌てておさえ、ヒューズどういうわけか自分に馬乗りになっているルームメイトの名を呼んだ。
 ヒューズが目覚めたことに小さく舌打ちして、名を呼ばれた影は小声で返事を返してきた。
「何って、おまえ、昼間にやらせてくれなかったから」
「やらせてっ…て、おまえそんな切羽つまってんのかよ?!」
 ヒューズは驚愕に目を見開いて、暗さのせいで表情の定かでないロイを見つめ返した。
 だが、ヒューズの驚愕振りが腑に落ちなかったようで、ロイ(の影)は小さく首をかしげる。
「は? 何の話だ」
「襲う前に言えよ! いや、確かにそれでも昼間ってのはいろいろ支障があるけど…。いやまあどうにかなるか?」
「何の話だといっている」
「そりゃ、ロイが襲う側をやってみたい気持ちもわからなくもないけど、だけどさ、やっぱりオレ、合意は必要だと思うんだよな。強姦はやめよう、強姦は」
 早口でまくしたてるヒューズに、辛うじて間の手をいれていたロイは、そこまでいたってやっと、ヒューズがどんなことを考えていたのかに思い至った。
「馬鹿者! そんなことをするわけがないだろう!」
 声の大きさをおさえることはさすがに忘れなかったが、その声が羞恥に微かに震えてしまうのはおさえ切れなかった。
「だったらなんの話だよ」
 それを敏感に察知したヒューズが、自分の肩を押さえつけているロイの腕に視線を向けて、言外に「それならこの腕はなんだ」といいながら、ロイに説明を促す。
 闇に慣れてきたヒューズの瞳は、ぼんやりとだがロイの表情も確認できるようになってきていた。目を細め、それをさらに確かめようと覗き込むと、ロイが拗ねたように横を向くのがわかった。
「だから、昼間、自分でやるのがいやなら潰してやるといったのに、後生大事にしているから…」
「は? 潰す……?」
 すぐに合点がいかないヒューズに、ロイは顔を戻すと睨み付けてきた。闇のなかとはいえ、いや、だからこそそういう気配は敏感に伝わる。
 視線にせかされるようにして、ヒューズは日中の出来事を思い返し、そして、やっと、それらしい話題を思い出した。
「…えと、あの、にきびの話?」
「それ以外の何がある!」
「いや…、その…」
 半分は闇討ちのような行動がみつかってしまった恥ずかしさのせいなのだろうが、明らかに怒りまじりの声に、ヒューズは口籠って苦笑し、それから大きな溜め息をついた。
 数日前から、ヒューズの顎にはにきびがひとつ、ぽつんとできあがり、赤くなったそこは、今にも膿を吹き出しそうになっている。
 ヒューズは痕が残るのがいやで、それを潰さないように注意して扱っているのだが、ロイにはどうもそれが女々しく映っているらしい。
 朝の身支度のとき、いつもより時間のかかるヒューズにロイが文句を言い、そこから、諸悪の根源であるにきびを、「潰せ」「潰さない」の軽い口論になったのだ。
 あのときは時間ぎれで、ヒューズの勝ち逃げのような形で、言い合いに終止符を打った。それが悔しかったのかもしれないが、しかし、だからといって寝込みを襲ってまで潰したいものなんだろうか。
 ロイの行動原理を探るのは、本当に難しいなと思いながら、ヒューズはしかし、どこか楽しい気持ちになって闇討ちの相手に押し倒されたまま小さく笑った。
「そんなにイヤか? あ! もしかして思われにきびだから妬いてる?」
「馬鹿か。そんな俗言など信じてはいない。とにかく、そのふきでものは見ていて不愉快なんだ」
 軽くまぜっかえせば、真面目な敵はすぐに予想通りの反応を返す。反応はわかりやすいのに、行動に至るきっかけがよくつかめない。全く、不思議な人間だ。
「せめて『にきび』っていってくれよ…。大体にきびはなあ、青春の象徴とまでいわれるやつなんだぞ。なんでそんなにおまえに責められなきゃなんねえんだよ。……あれ? そういえばロイくんにはないねえ。毛も全般に薄いしねえ…?」
「うるさい! とにかくうっとうしいんだ」
 言いながら、ロイは再びヒューズにのしかかってきた。そして、手を伸ばして顎を掴もうとする。その手を必死で避けながら、もしかしたらロイ自身も、むきになる理由などわかっていないのかもしれないとヒューズは思った。大体自分だって、ロイに構おうとする自分の心理などよく理解してはいない。
 例えば数学なら、論理的な思考の果てに正解を手に入れることができるけれど、感情とか心理とか、もとから数値にならないものを論理で推したところで破綻が目立つだけだ。だったら下手な解釈などしないで、本能のまま、感情のままのほうがまだましなのではないだろうか。
「だからやめろって、こういうのは下手に潰すと痕になんだぞ」
「男がにきび痕のひとつやふたつでぐだぐだいうな」
「あのなあ、もてようと思ったらそれなりの努力もいるんだぞ?! それをおまえが、なんにもしないでへらへらもてているやつが、勝手に潰すな!」
 単純な力比べなら体格に勝るヒューズの方に分があるのだが、なにしろ今回は最初から押さえ込まれていると言うハンデ付きだ。しかも、まわりを起こすわけにはいかないので、得意の弁説で丸め込もうにも、小声では迫力にも説得力にも欠ける。一生懸命迫り来る魔の手からにきびを守っているのだが、ヒューズの劣勢は明らかだった。
 そんな最中、ロイは憤然とした口調で囁いた。
「たかがにきびあとのひとつくらいでおまえの評価を下げるようなやつ、こっちから振ってしまえ! おまえはそんなつまらない女にもてたいわけではないだろう!」
「簡単にいうけどな…て、…え? あれ?」
 ロイの台詞が意図的ではないのは確かだった。ヒューズがその言葉の裏側にある意味に気付いて惚けた瞬間、ロイも驚いたように動きを止めたのだから。
「とにかく、つぶす!」
 しかし、先に我に返ったのはロイだった。
「おい、待てって…!」
 ヒューズが止めるのもきかず、ロイの手はヒューズの顎にのび、爪の先がそれに触れた瞬間、
「うわ、中身が出た!」
 小さな悲鳴を上げてロイは手を引っ込め、
「だれのせいだよ! 畜生、痕が残ったらおまえのせいだからな!」
 小さな痛みと、ごくごくささやかな矜持が破られた悔しさにヒューズは怒声を上げ、しかし、そんなことより吹き出したものが自分の手についたことが気に入らないロイは、それをヒューズのパジャマになすりつけると、仕事は終わったとばかるにさっさと自分のベッドに戻ってしまった。
 後に残されたヒューズが、怒りと悔しさと嬉しさとおかしさとで、とても奇妙に複雑な表情をしていたことに、気付きもせずに。



 ヒューズの顎鬚のすきまをよくよく観察すると、小さなふきでものの痕が残っている。
 同じベッドに潜り込んでいたロイは、それをみつけて手入れが悪いせいだと鼻先で笑いながら断罪したのだが、結果として思い出したくもないそんな記憶をひきずりだされて不愉快だったのだろう。表情を歪めるとさっさと背中を向けて狸寝入りを決め込んでしまった。
 ヒューズに掛かっていた毛布まで横取りして、猫のように丸まったロイの背中に、ヒューズは笑いながら呟く。
「そもそも、おまえさ、フツー、そんな鬚のすきまからのぞく小さな痕なんて気付かないんだよ。それこそキスでもかわすような間近ででも、じっくり眺めない限り。だから、そういう指摘自体が、おまえの気持ちだとオレは勝手に思うことにしてるんだ」
「思うのは勝手だな。それが正しいかどうかは別にして」
 答えないだろうと思ったのに、ロイは丸まったまま小さくそう答えて、少しだけヒューズを驚かせた。
「なんだよ、ロイ。最近、おまえの反応おもしろくねえな」
 からかう声は、しかし嬉しそうで、そんなヒューズにはロイは言葉を返さない。
 毛布ごと腕の中に抱き込みながら、ヒューズは笑いの残る声でロイの耳元で囁いた。
「にきびってのは、まったく青春の象徴だな!」