3.無精髭

 部署は違うというのに、いつもならうるさいくらいに視界に入ってくる姿が、ここ数日見受けられない。
 急な出張に引っぱり出されたにしろ、わざわざなんらかの連絡を寄越すような奴だというのに。
 それとも、自分は彼の妻でも家族でもないと、口を酸っぱくして言い続けたのがやっと効を奏したのだろうか? あるいは、連絡もできないほど仕事に忙殺されている…? 確かにどちらもありそうなことではあった。士官学校を卒業して三カ月、やっとそれなりに仕事も覚え、士官らしい雰囲気も保てるようになってきたところだ。彼女ができてこちらとの付き合いが薄くなったということもありえるだろうし、一端の軍人として、抱える仕事の重さに学生っぽい付き合いを控えようと言う気になってもおかしくはない。
 しかし、過去の経験からいえば、彼は今までの習慣を変えるとき、無駄に宣言してから実行に移していたし、忙しさを理由に連絡を滞らせることもなかった。
 それともそれすらも、取り止めることにしたのだろうか?
 好奇心と、わずかばかりの不安を押さえ切れずに、書類を届ける振りで彼の部署へ出向いたのは今日の午後。休日を挟んでおよそ一週間、彼の姿を見かけなくなってからだった。
 ……驚いた。


「世の中には晴天の霹靂というのはあるのだな。まあ、そんな言葉があるくらいだから、そういう可能性というのはいつだってあるんだろうけれど」
 私は腕を組んで、しみじみと呟いた。
 ヒューズはそんな私の傍らで、けほけほとわざとらしい咳をしてみせた。
「おまえ、オレをなんだと思ってるんだよ。そんなに珍しいか?」
「珍しいに決まっているだろう。私はいまだかつて、病に臥せっているおまえなどみたことがないぞ? 今年は異常気象が確定だな」
「……ひでえな。見舞いにきたんじゃねえのかよ」
「それだけ口数があるなら大丈夫なんだろう?」
 私は目を瞬いて彼を見遣った。
「…まあな」
 そう言うとヒューズは、無精髭の濃くなった頬を幾分困惑したように小さく掻いた。
 実際、ヒューズが寝込むことなど過去に例がなかった。体調を崩すことはあっても、三日以上もベッドから起きられない事態に陥るなど想像の外だ。
 だから、彼の部署で風邪で休んでいると聞いたときには耳を疑った。
 素直にそれを信じきれず、こうやって部屋を訪ねて確認するまで、ズル休みという可能性を捨て切れなかったくらいだ。
 今年の風邪はよほどヒューズが気にいったのか、あるいは…、案外奴もストレスを溜め込んでいたのかもしれない。

 今は軽口を叩くくらいには回復しているが、彼がそうとうにひどい目にあったのは簡単に知れた。
 明らかにやつれているし、肌に張りがない。なにより伊達を気取る彼の頬から顎にかけてを、彼らしくもない無精髭が覆っていてどこかに幽閉されていた囚人のように見せていた。

「ずいぶん伸びたな」
 主語を抜いた呟きは、病み上がりの彼には少しばかり会話だったらしい。
「ああ?」
 問い返されて、私は自分の顎をなぞりながら苦笑した。
「鬚」
「…ああ、そうか?」
 つられたように同じ動きをして、それから彼は少し首をひねる。
 高熱にうなされて時間感覚が少しおかしくなっていた彼は、眠り続けた間の日付けが飛んでいる。そのせいか、いまひとつもっさりとした自分の鬚が自覚できないようだった。
「少し剃ってやろうか?」
 ふと思い付いて呟けば、とろんとしていた目が急に焦点を結んだ。そしておびえるような顔でこちらを見遣り、ぷるぷると盛大に首を振る。
 しかも、振った勢いでめまいを起こしかけてふらついてみせるのだから呆れる。
「そんなに信用がないか」
 さすがに腹立たしくなって文句を言えば、しかし、彼もまたストレートに返す。
「ないね」
「ひどいもんだ」
「まあ、オレとしちゃ傷の二つや三つや四つや五つや…」
「おい」
 どこまで数を増やす気だ、この男は!
「六つや七つくらいは覚悟はするが、おまえがつけたキズだって、喧伝するぜ? 俺は」
 怒りを通り越して、呆れた。
 こいつは私をおどしているんだろうか? それともからかっているんだろうか。本気でときどきわからなくなる。
 けれど、彼がどういうつもりであろうとも、私の不器用さを宣伝されるのも困るので、肩を竦めるだけでささやかな慈善事業は諦めた。
 私が簡単に諦めてしまうと、彼はむしろつまらなくなったようで、唇を子供のように尖らせてみせたが、それもすぐにやめて、代案を口にした。
「悪いが鬚剃り一式、枕元までもってきてくれるか? さすがにあの寒い洗面所にたつ勇気はまだない」

 彼のために、水を張った洗面器やら、鬚そりやら鏡やらを洗面所から寝室に持ち込んで、まだベッドに入ったままの彼が鬚を剃れるように一通りセッティングしてやると、彼は久しぶりに見た自分の顔に眉をひそめ、それからゆっくりと鬚をあたりはじめた。
 力強さはさすがに失せているものの、彼の器用な手は肌に傷ひとつつけず、的確にに鬚をあたっていく。
 音を立てて彼から鬚がそげ落ちていくたびに、彼は本来の彼らしさを取り戻していくように見えた。

「…なんだ」
「んあ?」
 顎の付け根の裏側あたりを鏡で確かめていた彼は、そんな返事ともいえないような声をあげ、あとは目線だけで私の言葉の先を促す。
「ずいぶん顔色が悪いと思っていたんだが、おまえの髭が大部分だったんだな?」
 私が言うと、彼は危うくシェイバーを手からとり落としそうになった。それをお手玉するような形でなんとか押しとどめて、改めてこちらを見る。
「おいおいおいおい、いくらなんでもそりゃねえだろ! 全部鬚のせいかよ!」
「そうは言っていないだろう。無精髭があると全体が黒ずんで見えるんだな」
「本当か? おい、じゃあ、鬚面は全部顔色が悪いのかよ」
「そう突っ込むなよ。あくまで私の印象だ」
「……そうかあ?」
「他意はない」
 きっぱりと言い切れば、ヒューズは口のなかでぶつぶつ言いながらも某かの納得は得たようだった。

 彼が鬚をたくわえるようになっても、無精髭をことさら嫌ったのは、案外こんなところに理由があるのかもしれない。