10.ぺんだこ

 ヒューズという男は、成績は良いものの、いつも、誰にでもへらへらしていて、正直私はあまり好きではなかった。いや、むしろいけすかない部類に入っていたと思う。
 しかし、教官推薦で同室に割り当てられてしまっては、私も体面上そうそう不平を言うわけにもいかず、とりあえず何ごとにも沈黙することで距離を保ち、その距離でなんとか心の平安を確保していた。
 それなのに、ヒューズはいつでもずかずかと遠慮なくその距離を縮めてきた。
 それはまだ、同室になって数日のころの話だ。

「おまえって、フツーに努力家なのな」
 不意に声がしたかと思うと、彼は机に向かっていた私の背後から首を伸ばし、私が綴るノートを覗き込んだ。別に見られて困るようなものではないが、不意打ちと知らない間に背後を取られた悔しさに、思わずそれを片手で覆いながら背後を振り返る。
「どういう意味だ?」
 眉間に皺を寄せて問い返せば、彼はひょいと手を伸ばして、なんのためらいもなくノートを覆う私の片手をとった。
「なに…!」
 をするんだ、とみなまで言う前に、彼は私の中指の内側をするりと撫でる。
 その妙に優しい手付きにぎょっとして目を剥けば、彼は、しかし、にこりと笑って私が想像もしなかった言葉を吐いた。
「これってぺんだこだろ? それってつまり、そのくらい真面目にやってるってことだ」
 面喰らって言葉を失い、それから呆れ、
「…………私を、なんだと思っていたんだ?」
 呟く途中で我に返って、手を振り払った。自由を取り戻した手に安堵し、掴まれていた場所を確かめるよう軽く撫でてから睨み付ける。
 ヒューズは、私の所作に少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの笑みを取り戻した。
「錬金術師だってきいてたし、成績もだんとつだって。だからさ、ほら、たまーにいるだろ? なんてのかな、思わずこっちがごめんなさいって叫んで逃げ出したくなるような飛び抜けた天才って。そんなんだったらどーしようって思ってた」
「私がそうでなかったからどうだというんだ」
 自分が飛び抜けた天才などではないというのははなから承知だが、こう面と向かっていわれても腹がたつ。天才ではないが才能はそれなりにあると自負しているし、成績に関しては、これでもそれなりのプライドがある。思わず不機嫌になってそう言えば、ヒューズは少し困ったような顔になって肩を竦めた。
「ん、いや、だから、それなら大丈夫かなーって」
「何が大丈夫なんだ?」
「いろいろ」
「…わけがわからん!」
 本当にわけがわからないと思った。まったくなんでこんな男と同室になんかさせられてしまったのだろう。
 彼の意味不明の言動も、そのくせ妙に余裕があるように見える様子も、すべてが腹立たしく苛立たしくて、私は彼をきつい瞳で睨み付けると、軽蔑がわかるようなそぶりで背中を向けた。
 彼の小さな溜め息など、気付かないふりで。


                *


 そのころの私には、本当に余裕がなかったのだと今ならわかる。
 孤立している自覚はあったが、それを成績で埋めようと必死だった。
 互いを甘やかすだけの友人などつくるだけ無駄だと思っていたし、高みばかりみつめていて、足下を確かめようという気もなかった。
 今ならきっと、「肩の力を抜けよ、まわりを見ろよ」と言ってやれるのだろうが、言われた当の私はきっと、肩に置いた手を振り払って、ぎろりと睨むだけだろう。
 わかるだけに苦笑しか浮かばない。


               *  *


 そんなささやかなやりとりなど、記憶の彼方に飛び去ったある日。
 ヒューズは自分の右手を誇らし気に私の前に差し出した。
 数字の5を示すように、指をぴんと張って開き、その隙間から「どう?」と問いた気な瞳が覗く。
 意味がわからなくて無言のまま眉を寄せれば、彼はちょっとだけがっかりしたような顔になる。けれどすぐに気を取り直して弾むような声で言った。
「ほら、おそろい!」
「は?」
「だから、たこだよ、ぺんだこ!」
 不審もあらわな私の前で、彼は自分の中指の内側を指差して示す。確かにそこにはゆるやかな盛り上がりがあって、形の良い彼の手のバランスを微妙に壊していた。しかし、それでも私は意味がわからずに、彼と彼の示すものを交互に見遣った。
 彼は今度は少し寂しそうな顔になって、私の良心をとがめさせたが、けれどまた簡単に復活して明るい声を上げる。
「覚えてないかなあ、前に言ったじゃないか。ぺんだこがあるなら大丈夫だって」
「ヒューズ、悪いがよく意味がわからない。…その、ぺんだこの話は思い出したんだが」
 思い出したと言ったそれだけで、彼の表情はぱっと明るくなった。意味も理由もわからないが、それだけで私は少し安堵する。
「ええと、その、言葉にすると難しいなあ…。あのさあ、おまえがさあ、ぜんっぜん届かないくらい高いとこにいたら、おれだってここまで頑張ろうとは思わなかったけどさ。だからさ、その、最初にいったろ? 大丈夫だって」
 ヒューズ自身が言うように、言葉はまったく意味不明だった。けれど、そのとき私は不意に悟ったのだ。
 ヒューズはずっと、私と付かず離れずの成績を保っている。ときには、私を上回る。それは、同じ場所、同じ高さにいて、同じ物を見ようとしてくれているのだと。自分が孤独な場所にぽつんといるのではないのだと知ってほしいと思っているのだと。
 同じだけの努力をして、同じ場所にたって、…だからその証拠に、同じぺんだこができただろうと。
 それは明確な言葉になったわけではない。けれど、彼の示すぺんだこが、私のためのものなのだと、理解できたのだ。
 最初に訪れた感情は、呆れ。次に驚き。それから…、身を捩りたくなるような嬉しさに、私は思わず唇を不機嫌に曲げた。
「…ロマンチストだな」
「ええ? そういう?」
 私のつれない言い種に、ヒューズは眉を曲げて悄気る。
「そうだろう? おそろいなんて少女趣味だ」
 ぷいと横を向いて言い張れば、ヒューズは唇を尖らせて文句を言った。
「ひっでえ! 男の純情を」
「そもそも、ぺんだこなんて、この世の何人とおそろいなんだ?」
 腹立ちまぎれのように呟けば、ヒューズは驚いたように目を瞬き、それから突然相好を崩した。
「オレのとおそろいなのはおまえさんのだけだよ」
「どうだか…」
 覗き見るようにしてみたヒューズの表情は、なんだかとてもしあわせそうで、私は、自分の不機嫌を維持するのにとても苦労した。


               *  *  *


「おまえのぺんだこ、最近少し小さくなってねえ?」
 ヒューズは、その場所に軽く歯をたてながら上目づかいに問いかけてきた。情事のはざまの穏やかにたゆたうような時間。ヒューズは私の指先に戯れていることが多い。たくさんの命を燃やした指を、ヒューズはいつも壊れ物を扱うかのように、丁寧にゆっくりと愛撫する。
「デスクワークがないわけではないが、おまえほどではないからな」
 私はそう返して彼の汗で少し濡れた髪を撫でてやり、そのまま首筋から背筋にそって腰骨までを辿って、それから肩先に戻ってそこを抱いて唇を落とす。
 そこにはまだ汗の味も臭いも残っていて、安堵と興奮を一緒にもたらす。
「そういうおまえは、ぺんだこはでかくなってるし、ナイフだこも一向に消える気配はないな」
 ベッドになだれ込む前に、さんざん目で、舌で確かめたことをぽつりと言えば、ヒューズが苦笑する気配が届いた。
「なあ、昔、おそろいって言ったの覚えてるか?」
「覚えているぞ。馬鹿なやつだと思ったからな」
 私の答えに彼は声をたてて笑い、それから私をしっかりと抱きしめた。
「ロイ」
「…なんだ」
「オレはおまえとのおそろいをなくすつもりはねえんだ。だからおまえも消すなよ?」
「…上官に命令か?」
「嘆願です、閣下」
 まぜっかえした私の言葉尻に乗って、彼はそんなふうに返す。そう返しておいて、自分でおかしくなって勝手に一人で笑っている。
 まったく、どうしてたかがぺんだこに、おまえはそうやって重い意味をとりつけるのだろう。
 そんなふうに簡単に私を、縛り付けてしまうのだろう。
「………努力はする」
 溜め息混じりで答えた私に、彼は嬉しそうに顔を上げ、約束だといわんばかりに唇を重ねた。