Stigma
「ロイ・マスタング少佐って、どんな人ですか?」
突然そう問われて、マース・ヒューズ大尉は、ぱちくりと目を瞬いた。
何か、ひどく今更な質問をされたような顔をして、まだ年若い軍曹は、かえってきょとんとしたものだ。しばらく、二人ともきょとんとしている妙な見つめあいをしていたが、ヒューズのほうが、ああ、と、思い立ったように手を打った。
「そうか、お前は、知らないんだったなあ」
イシュヴァールの夜営テントの中、それといった楽しい話題は現在進行形ではなくなっていて、昔話やら故郷の話やらでみんな盛り上がっている。酒なんかも支給されるが、こんなところで酒をうまく飲む方法は限られている。女も、いることにはいるが、ここで女を作れば後が辛いとわかっている奴と、どうしてもあぶれてしまう奴は、男同士でバカ話でもしているしかない。
ヒューズは、戦場で女を作ることを避けて通っていて、年若い軍曹はあぶれてしまう奴だった。二人で粉っぽいコーヒーをすすりながら、就寝までの時間取り留めのない話をしていて、先ほどの問いかけは、何気なく軍曹が口にした問いかけだった。最近前線に投入された国家錬金術師は、イヤでも判りやすい共通の話題だった。組織の末端である、軍曹が知っているくらいに。
イシュヴァール人を殲滅するために前線に投入されているのが、軍人ではなく、科学者たる錬金術師というのが、昔気質の軍人どもには癇に障ってしょうがないだろうし、功を上げようとしていた連中にも邪魔で仕方がないに違いない。錬金術は、使いようによっては、銃や砲弾よりも簡単に人を駆逐できた。しかも、少数で実に効率よくだ。こちらのリスクも格段に少なくなる。前線に投入するのは錬金術師と、それの随行護衛ぐらいだ。護衛だって、いざとなれば引っ込む。特にその中でも、突出して『成績』を上げていたのは、焔の錬金術師こと、ロイ・マスタング少佐だった。
軍人で、国家錬金術師はそう珍しい代物でもない。ただ、マスタング少佐の錬金術は、その戦術においての汎用性が高く、また、殺傷能力も高い。多少味方に犠牲を出すやり方をしたとしても、差し引きで行けば『成績』はトップだった。上層部はそれを評価しているし、マスタング少佐自身も、自分に対する上昇部の評価を正確に受け止めていて、その他周囲の冷たい視線には、何も感じていない風だ。
それが余計に浮いている結果になり、口さがない連中が、あることないこと言いふらすようになる。士官学校を同期で卒業して、それなりに親交があるヒューズに対しても、下らないうわさを囁く輩がいる。自分以外の人間が聞くうわさは、その5割り増しといったところか。本人は知らん顔をしているが、周囲とうまくやっていくには多少に妥協も必要だろう。特に、年若くして少佐になったなら、それなりに気を遣い、せめて悪目立ちはしないようにするべきではないだろうかと、ヒューズは考えていたりする。
まあ、そんな理屈は通用しない相手だったよなあ…。
ロイは、ひどい童顔で、ともすればどこかの将軍クラスのつれてるお稚児さんのようにも見られてしまいそうな可愛らしげな容貌だが、気性は苛烈で、口は悪く、気難しい。最低限の愛想は振り撒くフリをしても決しておもねることはない。
どうせだから、おもねってるフリもできりゃあいいのに、と、ヒューズは苦々しく思うこともあったりするのだが、実際おもねることがないロイに、安心していたりもする。性根からは、腐ることがないのだ、と。
「ヒューズ大尉?」
ぼんやりとした思考を、軍曹の声が遮った。
ヒューズは、あ?と、顔を上げると、軍曹の不思議そうな顔が、こちらに向けられているのに気付いて、ようやく自分が考え込んでいたことに気付いた。少々ばつが悪そうに、眉を下げた情けない笑いをすると、「なんでもない」といった。軍曹は、不思議そうな顔をしていたが、特に取り沙汰はせずに、ヒューズの言葉を待っているようだった。彼は、女からはあぶれるタイプだが、素直な犬のような所があって、ヒューズは、そういうところは嫌いではなかった。
「や、あいつはなあ。気難しくて、口が悪くて、気性が荒っぽくて、頭は悪くないけど要領悪くて、自信家で、尊大で、そのくせ女にもてる。ま、俺は…」
「誰が、尊大だって?」
不意に割り込んできた声に、ヒューズの立て板に流れる水のような言葉が途切れた。ヒューズのいいように、笑いながらきいていた軍曹の表情が強張り、直立不動の姿勢をとる。ヒューズが、まるでばねの切れた人形のようのように振り返ると、満面の笑みを浮かべた焔の錬金術師が、テントの入り口に佇んでいた。
「お疲れ様です、マスタング少佐!」
青褪めて敬礼する軍曹に、うわさの的本人は、実に鷹揚な笑みを浮かべて楽にしなさい、と、手をふって見せた。胡散臭い笑顔は、ものすごいご機嫌斜めの時によく浮かべていたものだ。知り尽くしているヒューズは、のろのろと椅子から腰を上げると、参ったなというように、後ろ頭を掻いた。ロイは、そんなヒューズの様子を、ふんと鼻先で追っ払い、敬礼を解いてもなお、緊張の残る軍曹に向かって、尋ねた。
「ペンのインクと、消毒用のアルコールはあるかね?」
「なんだよ、お前怪我してんのか?」
消毒用のアルコールという言葉に反応したヒューズの問い掛けに、ロイは、まるで過保護な父親にでも言われたような顔をした。
「ちょっとしたかすり傷だ」
でなきゃ、衛生兵のところにいくと、面倒そうに答えた。
「大体、錬金術師が酷い怪我なんかするわけないだろう。特に、わたしは」
確かに、ロイの言うことは本当だろう。ロイの錬金術は、相手の弾が届かない距離でも発動は可能で、大した負傷をすることもない。よっぽどのポカでもしない限りは、だ。ヒューズは、そのポカを恐れているのだが、ロイは、心配性のヒューズの顔を無視して、軍曹から注文の品を受け取ると、とっととテントを出ていった。
「おい!」
あまり踏み込んできて欲しくなさそうな態度は、ヒューズにもわかった。だから、ヒューズの顔をろくすっぽ見ないで必要な品だけ受け取ってとっとと出ていったのだ。普段なら、そんな気持ちもあるだろうと、適度な距離感をもって接するところだが、どうも、様子がおかしい。ヒューズは、ロイが出て行ったのを、あわてて追いかけていった。
つかつかと、自分に割り当てられたテントへと向かうロイの歩調は、普段と変わりない。取り立てて何かがおかしいというわけでもないが、こればかりは、勘としか言いようがない。
追いついたヒューズが、ロイの腕を掴む直前、ロイは、勢いよく手を振り払った。
思わず、ヒューズが足を止めてしまうくらいに、勢いよく。
怒りとか当惑よりも、驚きの方が大きく、早かった。ぽかんとして佇むヒューズに、ロイは、本当にばつが悪そうな顔をした。
「すまない……」
ごにょごにょと、謝罪らしきものを口にしたロイは、ヒューズを振り切るようにして自分のテントの中に入っていった。ヒューズは、ほんのしばらくそこに佇んでいたが、はっと思い立ったように、ロイの後へとついていく。中にいる人間の了承も得ずに入れば、ひどい仏頂面がお出迎えをしてくれた。
「まだ、何か用か」
つっけんどんな問いかけに、ヒューズは軽く肩を竦めた。
「別に。用もなくお前さんと口を利いちゃいけないかね」
ひらりとかわすような言葉に、ロイはあからさまに嫌そうな顔をしながら、先ほど受け取ったものを、簡易デスクの上に置いて、ロイは、ヒューズへと体ごと向き直った。
「わたしはこれから用事がある。ヒューズ大尉、退出したまえ」
「こんな時でもなきゃ吹かせられない上官風なら、やめとけよ、みっともねえ」
わざわざ階級を口に出して、上官命令を匂わせるロイに、ヒューズは呆れたような顔をして見せる。普段、階級は一つ違うといっても、どちらかといえば士官学校時代からの腐れ縁的親友としてのスタンスが強く、どんなに階級が上がっても、お互い、公式の場以外では、親友として変わらず振舞っている。ヒューズはいつまでたってもロイをファーストネームで呼ぶし、ロイも、ヒューズをめったに部下扱いはしない。階級や、立ち位置は違えど、ロイはヒューズを尊重しているし、ヒューズがロイに対して卑屈になることもなかった。
ロイは、ヒューズの言葉に、きかん気の強い子供のように唇を真一文字に引き結んで、口を噤んだ。普段だったら噛みついてくるような言葉にも乗ってこない。ヒューズ相手だとつい、緩んでぶちまけてしまう言葉を、無理に飲み込んでいるようだ。これは、よほどいいたくないことがあるのに違いないと、ヒューズは当りをつける
ヒューズは、やれやれと、もう一度肩を竦めようとして、自分がステンレスのマグカップを握り締めたままであることに気がついた。中の、ただでさえ粉っぽいコーヒーは、砂がたっぷりと入り込んで、コーヒーの匂いのする泥水になってしまっている。随分と慌てていたものだと、ヒューズは苦笑して、マグカップを簡易デスクの上に置こうとした時、ふと、何気なくデスクの上のものを眺めた。
ペンに使うインク、蝋燭、ランタン、消毒用のアルコールと脱脂綿、そして、真っ黒な針。
ヒューズは頭が切れるほうだが、デスクの上に雑然と散らばるものと、先程のロイの態度とをひょいと結びつけることができたのは、偶然という方が近いかもしれない。
ヒューズは、咄嗟に、ロイの腕を掴んだ。
ロイは、先程のように反射的に逃れることができず、まんまとヒューズに腕を掴まれる。
ぴくん、と、ロイの腕がはねて、眉が歪んだ。
ぱっと見では、ヒューズが乱暴に腕を掴んだせいにも見えるが、そんなことではないことに、ヒューズはすぐに気がついた。
掴んだ腕を強引に引き寄せて、ロイが抵抗するよりも早く、袖口のボタンを外して袖を乱暴に捲り上げた。
「…っつ」
抗議めいたロイのうめきを無視して、袖の下から現れたものに、ヒューズは、息を呑んだ。
ロイの、些か生白い腕一面に、黒いミミズのような文字がのたくっていた。文字の周りが腫れ上がっていて、その文字が、ただ書き込んだだけではなく、針を使って彫ったものだとわかる。文字の向きとやたらと汚い字体で、ロイ自身で彫り上げたと知れた。
「なんだ…これは」
あまりに異様な光景に、ヒューズは、怒鳴り散らすことも忘れて唸るように呟いた。
ロイは、ヒューズの腕を振り払いもせずに、口の端に自嘲交じりの笑みを浮かべている。見られてしまったなら、隠す必要もないと言う態度だ。
「先日の作戦で、わたしが殺した兵士の名だ」
「……護衛の連中か」
「そうだ。認識票も残さず吹き飛ばしてしまったから、こうやって書きとめた」
ロイは、デスクの上を顎でさして、そこにある道具を使ったとしめした。先ほど目に映った道具に、ヒューズはもう一度目を向ける。蝋燭で針を焼いて、ペンのインクで代用して、消毒用のアルコールで消毒したあとを彫ったのだ。
「認識票ぐらい…後から回収できるだろ」
なんだか、適当な言葉も浮かばなくて、われながら間抜けなことを言うと思うヒューズに、ロイは、ゆるく首を振った。
「あの地区は、閉鎖された。誰も立ち入ることはできない。わたしでも、だ」
軍の殲滅作戦に投入された錬金術師の成果は、一部を除いて極秘扱いだ。作戦行動の済んだ地区に遺体の回収にすら、誰も立ち入ることは許されない。当然、軍に犠牲者がでても、認識票の回収もされることはない。
「伝令がうまくいかなかったのか、わたしが早すぎたのか、彼らがまごついていたからなのかは判らない。ただ、結果として彼らは逃げ遅れ、わたしは、彼らを焼き殺した」
ロイは、もう片方の手で、腕に刻まれた文字に触れた。まだ、腫れていて痛むのだろう。指先がぴくりとつられるように動いた。
腕には、多数の名前が刻まれている。
まるで、ロイの罪悪感そのものをあらわすかのように。
ヒューズは、それをじっと見つめていたが、やおら顔を上げると、片方の眉を吊り上げて、こういった。
「ばっかじゃねーの?」
遠慮もない声で、ヒューズはあきれ返った調子も隠さない。
ロイが、きょとんとしていると、その額を指先ではじいた。
「下らねえ、自傷と自虐はやめろよな。ガキじゃねえんだから」
「誰が、ガキだと?!」
「ごめんなさいがいえない代わりに、自分を疵付けて罰した気分になって済んじまうような気がする奴は、ガキだ」
ガキ呼ばわりされれば、さすがに黙っていられずに、噛み付いてくるロイに、ヒューズはきっぱりと断言した。
「それに、こんな衛生条件の悪い戦場で、しかも、ペンのインクを使って入墨の真似事なんて、後先考えないガキがしでかしたんじゃなけりゃ、ただの馬鹿だぞ」
ヒューズにいわせれば、ロイのしていることは随分と半端だった。実際、認識票など回収できずに死んでいく兵士が何人いると思っているのだろう。ロイの腕になんか書き込めるわけがない。もし、全員の名前が書きたかったら、ロイを素っ裸にして股座にまで書き込まなければならなくなるだろう。片腕だけに書き込める人数を彫ったところで、一体何%になるというのか。
ロイは、ぐっと言葉に詰まったように下唇を噛んでいる。
ロイ自身もわかっているのだろう。自分のしていることは、酷く半端なことだということくらい。ただ、やりきれなかったのだろう。気持ちは判らないでもないが、こんなことをされて、体調でも崩されては困る。軍全体の士気にかかわるし、個人的にも心配だ。
実際、ヒューズの掴んでいるロイの腕は、少し熱い。もしかしたら、発熱しているかもしれない。こんなことを、休息の時間ずっとやっていたのではないか。そして、ペンのインクを落とさないために、彫った後をきちんと洗っていないのではないか。
「…馬鹿だ馬鹿だと思ってたけどなあ…」
いくらなんでもひでえなあと、呟くヒューズに、ロイはむっつりとしている。ヒューズのいうことはもっともだと判っている様子だ。だからこそ、こっそりとやっていたのだろうが。
「……あまり馬鹿馬鹿言うな」
ロイは、ぼそりと抗議した。ヒューズの言葉は至極もっともで、自分自身に対するヤツアタリだと自覚してしまえば、いっそ気恥ずかしくさえあるから、普段のように尊大に相手に噛みつくこともできない。せいぜい、小さく「馬鹿」以外の単語を要求するくらいだ。
ヒューズは、ロイの抗議を、鼻先で追払った。
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。ヤツアタリがしたきゃ、俺にでも当っとけよ」
さらりと流れた言葉に、ロイは、ぱちくりと目を瞬いた。ロイの、意外と言いたそうな顔に、ヒューズは、器用に片方の眉を吊り上げた。
「なんだよ?」
「いや…、随分と優しいことを言うな…と」
「俺は、いつだって優しいだろうが。どんな馬鹿をやっても、お前さんは俺のダチだから、ヤツアタリと、自棄酒ぐらいなら付き合ってやるさ」
ぽんと、少し低い位置にあるロイの頭をなでてやる。ロイは、少しぽかんとした表情になっていて、それが元々の童顔を酷く幼く見せていた。こんな顔を見られるのは、友人の特権という奴だろう。
ロイは、ヒューズの前でだけ、子供のような顔をすることがある。
気難しくて、口が悪くて、気性が荒っぽくて、頭は悪くないけど要領悪くて、自信家で、尊大で、そのくせ女にもてる、非常に友人として付き合いづらいタイプのロイ・マスタングを、ヒューズは、決して見放さない。どんなに馬鹿をやっても、人間兵器と蔑まれようと、ヒューズにとって、ロイは大切な親友であることに変わりはない。
たとえ、彼が一瞬で大量の人間を殺害したとしても、ヒューズの命が危険にさらされたとしても決して揺るぐことは、ない。
「真顔で言うな、恥ずかしい」
ロイの頬が少し赤いのは、発熱のせいなのか、照れ臭いのか。多分、両方なのだろうと、ヒューズは思う。気恥ずかしさを隠すように、ロイが、手を振り払おうとするが、ヒューズは、掴んだまま手を離さなかった。
「まだ何かあるのか!」
苛立った声を上げるロイに、ヒューズは涼しげな顔で答えた。
「腕、洗えばまだ落ちるだろ。今から洗っちまおう」
ヒューズは、ちょいと、指で腕に刻まれた文字をつつく。そこに刻まれた黒い文字は、ペンのインクをつかっている。水を使えば落とせるものだから、刻まれてはいるが、こすれば落ちるだろう。ただ、大量の水を使うだろうし、こんなことをしていると知れたら面倒だから、夜のうちに人目を忍んでやってしまおうという提案だった。
ロイにも、ヒューズのいわんとしていることは判るし、元々、ろくでもないヤツアタリの産物なのだから、洗い落としてしまうことに対して特に反対はない。だが、妙に渋い顔をする。
何か問題があるのかと、目顔で尋ねるヒューズに、ロイは、実に言い難そうに答える。
「……痛いだろうなあ」
「自業自得」
痛みを想像したのか、できるだけなら避けて通りたいとでも言いたげなロイの言葉を、ヒューズは、ぴしゃりと撥ね付けた。痛いのが嫌ならば、ハナからこんな馬鹿なことをしなければいいだけだ。こればっかりは、ロイも返す言葉もなく沈黙している。
沈黙を了承と受け取ったヒューズは、逃げられないように、腕をがっちり掴むと、ロイを、引きずるようにして給水所へと引張っていった。まるで人攫いのような光景だが、ヒューズ大尉の日頃の行いと、マスタング少佐との付き合いがわかっているほかの連中は、触れぬが吉と、見てみぬフリを決め込んでいる。男同士、手をつないで歩く様は異様なものだが、ヒューズはそんな細かいことは気にしないし、ロイは、これから起こるだろう地獄のひと時について考え込んでいて、それどころではない。
給水所に行く途中、何気なくヒューズは、ロイに問いかけた。
「そういや、俺が死んでも、お前って、ここに俺の名前を彫ったのか?」
少々悪趣味な質問ではあるような気がするが、ヒューズの声は、実にさらりとしたものだった。まるで、明日の天気はどうかな、とでも言うような。
ロイは、しばらく考え込んでいたが、やがて、にやりと唇の端を上げると、ヒューズに掴まれていない方の手を自分の胸元に添えた。
「お前が死んだら、ここに、お前の名前を彫ってやる。特等席だ」
ロイの示すのは、ちょうど心臓の上辺り。確かに、そこは特等席だ。誰の目にも触れず、そして、心臓の真上にあるというのは、特別な意味合いを持っているように見えるだろう。
ヒューズは、なんだか苦いものでも飲み込んだような顔をして、そんな様子にロイは、してやったりと目を細めた。本気で、こんなところにヒューズの名前なんて彫る気はない。単に、これから散々痛い目に合わされるだろうヒューズに対する、ちょっとした嫌がらせの心算だった。男友達に、こんなところに名前を彫ってやるなんて宣告されたって、普通嬉しくもなんともないだろう。
それに、どうせ、ヒューズは、殺したって死にやしない。
口にこそ出してはいるが、ロイは、ヒューズが死ぬ可能性などこれっぽっちもないと、はなから信じているのだ。
少しは嫌な思いをすればいいと、内心で舌を出すロイに、ヒューズは望みどおりに顔を歪めていたが、足を止めて振り返ると、ちょい、と、ロイの腕を掴んでいないほうの手で、ロイの手の平を指差した。
「どうせなら、こっちにしろよ」
いきなり手の平を指定され、きょとんと足を止めるロイに、ヒューズは、先程の歪んだ顔を引っ込めて朗らかに微笑みかけた。
ロイの脳裏にいやな予感が、ちらりと掠めたが、そこで逃げるのは負けたような気がすると、手を振り払いたい衝動をこらえた。
「お前さんが、そんな場所に綺麗に文字が彫れるだなんて思わないし、何より」
意味深げに言葉を切ると、ヒューズは、わざと音を立ててロイの手の平に口付けを落とした。
いきなりの行為に、硬直するロイに、ヒューズは甘く囁いた。
「ここなら、こんな風にキスできるだろ?」
俺の名前に、毎日キスしてくれよ。と、まるで、恋人にでも囁くような声に、今度はロイが、目を丸くする番だった。ヒューズは、目を丸くしているロイを上目遣いで見上げて、にんまりと笑い、そこで、ロイは、ようやくヒューズの意図を察して、怒りのあまり声が出ないというように、耳まで赤くなって口をパクパクさせて抗議している。
俺に勝とうなんざ、10年早い。
声にならない抗議なら、聞こえないフリをしてやるといわんばかりに無視すると、ヒューズは、楽しそうに再びロイの腕を引張って、歩き始めた。
空に星が瞬き、夜明けはまだ遠く、砂漠地帯を渡る風はやたらと冷たかったが、つないだ手は、酷く暖かかった。
後に、ロイの腕には、微かな傷跡だけが残った。
痛い思いをしてインクをこそげ落としたおかげで、黒い跡はほとんど残っていない。そして、
イシュヴァールの内乱から、階級を二つ上げたロイ・マスタングが、手の平に口付けることを習慣にする日がくることを、ヒューズは、生涯知ることはなかった。
こりも坂田くんから頂きました。ありがとうございました!星空の写真素材を必死で探したけど見当たらないよ…!ていうか、こんなとこに寄贈してないで、サイトやっておくれよ。本当お願いしますよ。(2004.10.22)