この地平の果て










***


「見ての通り、禁忌ってやつだ」
言ったとたん、ヒューズの奥歯がぎり、と鳴る音を聞いた。

なまぐさい部屋の空気に、ヒューズの持ってきた甘ったるい焼きたてのチェリーパイのさも幸福そうな匂いが立ち込めて、ロイは胸が悪くなった。
バスケットの白い布をめくったら、きっと子供の細い手足が入っている、それが焼き菓子の匂いを放っている、幸福な、油や小麦粉や砂糖やチェリーの匂い、かすかに混じる砂漠の砂のざらつき、子供も女も男も老人もいちようにおびえた目をしていた日干し煉瓦の黄色の町並み、自分の指から放たれる赤い、昏い焔の色、蜂蜜色の髪をしたそのパイを焼いた女の姿、髪を、皮膚を黒くくすぶらせる光熱、すべてが絶望的な比重でロイを押しつぶそうとした。
胃の辺りが変に痙攣を起こして、横隔膜が引き攣れる。咽喉の奥がぐうと鳴った。競り上がる胃液の、からだの内側に持っている濃い酸の味が舌の奥のほうでみずからを溶かすような違和感があって、口に手を当てて飲み下す。額に冷たい汗をかいているのが解る。何も見たくなくて手の甲が目を押さえる。目を閉じた向こうで自分の放つ炎の赤い色が見えた。

耳がいっしゅん、全世界の音を拒絶して、それと同じに目の前が暗くなった。何も聞こえない、脳が光と音を認識しない暗闇と静寂の中で、自分の鼓動が鮮明に響き渡り、ああ、このままでは倒れると思ったら唐突に光が戻ってきた。
息がうまくできない。



は、は、は、と、小刻みな呼吸を繰り返す、だんだんそのスパンを長くしていく、訓練で覚えた呼吸法が、やがてロイの体内にただしいやり方で酸素をとりこんでゆく。
視界の端に、さっきヒューズが目で示した銃が転がっていた。
意識的に呼吸をおこなうと、こわばっていた筋肉をなんとか自分の意思で動かせるようになる。ロイは大きく息をついた。
どこからかあたらしい冷たい空気が入り込んで、息を吸った肺を充たした。清浄な空気がよどんでロイを苛んでいた臭気を押し流し、額の汗を撫ぜる。顔を上げると、ヒューズがガタガタと窓枠を鳴らしながら換気をしていた。
外は強い風が吹いているらしかった。一陣の風が、部屋の中に散らされた、錬成陣だの数式だの、そのほかののたくったような走り書きだのの描かれた紙をばらばらに舞い上げて、そのうちの数枚を窓の外に持ち去った。
あ、と思ってロイは窓に駆け寄るが、紙片は強風にあおられて、いくつかはもう視認もできないような場所へ運ばれてしまった。辛うじて見つかったものも、行く先の知れないどこかへと飛ばされてゆく。
「深呼吸」
それだけ言って、ヒューズは窓から身を乗り出したロイの背に手を置いた。
ヒューズが親指の付け根で背骨の脇をやさしく叩くとそれだけで、詰まっていた呼吸が楽になる。
「あ、―――、」
「まずは落ち着け」
何事か言おうとしたロイの言葉の出るのをさえぎって、ヒューズは背をさすった。シャツの布越し、ヒューズのあたたかさが伝わってきた。やわらかな温度は、先ほどの極彩色の幸福のイメージでも恐れのイメージでもなく、染みとおるようだ。マース・ヒューズのやさしさはそんなふうに、押し付けがましくないという特徴がある。
ロイはその手だすけを受けながら、呼吸に神経を集中した。





***


で、じつのところ、とヒューズは言った。
秋も半ばに差し掛かって寒いから、窓は半分ほどまで閉められて、吹き込んでくる風が笛のように鳴っている。
マースの腰掛けている椅子は、座面に数式が殴り書きされていた。ロイはそれを見つめ、間違っているな、と思う。必死すぎて笑えるほど汚い字だ。そう思うと少し落ち着ける気がした。
「で、実のところ、生き返ると思ったのかよ、これ、」
スクエアの独特の形をした眼鏡の奥で、もう怒っているというよりはあきれたという調子で、だからといってぶっきらぼうにはならない程度の動きで深紅の気味の悪い液体が入った容器を示した。
どう答えたものか、とロイは思う。
たくさん死んだしたくさん殺した、喪われたいのちを、まさかこの程度で取り戻せるわけはないのだ。だいいち喪われた肉体の情報がない。人種だけでは足りない、肌の色や目の色や爪のかたち、声色でも髪の質がわかったとしても足りない、そのひとがそのひととしてすごしてきた蓄積された時間の情報がない。魂の要素もない。
ろくろく顔も知らないような生き物の錬成を、一体誰ができるというのだろう。
ロイはそのことを知っていた。知らないわけはなかった。
錬金術師であるなら息をすることよりも当たり前に知っている。


新たに創り出すものは、作り出す前のものと等価でなくてはならない。


だから、厳密にはロイはたぶん、人間を錬成しようとしたのではなかったのだ。
それでも、単なる感傷にもならない程度に深くはないけれども逼迫した理由。
たとえば戦場の人間が、間近に迫る銃撃をしのぐための薄い土嚢の裏側で、反撃のタイミングを探りながらも恐怖に我を手放さないように必死で家族や恋人の名前とかなにがしかの詩篇を口にするような、傍から見たら子供じみた逃避のような、けれど当事者にとっては最後の頼みの呪文であるそれは、本質はだいぶん異なるけれど祈りにもよく似ている。
厳密には祈りではない。
さいごに自分を奮い立たせる為のとりでのようなもの、だ。
人体錬成をえらんだのは、それがまだ成されていないことだからだ。そしてもっとも困難とされていることでもあるからだ。
過去の文献に、錬成に成功した事例はない。
喪われた人々を取り戻そうとすることではなく、錬成のための数式に没頭することをロイは求めていた。錬成の成功すら、ロイの目的ではなかった。逃避のために使えそうな要素が、あの砂漠の際の戦場の記憶にもっとも近しい場所だっただけのことだ。
黙り込んだロイの横顔を見ていたヒューズが、ロイが答えかねた質問だと判断したのか、小さく息をついて、
「俺にはわかんねぇけどな、」
と、その場の沈黙をのがれるように言った。



それはそうなのだ。
マース・ヒューズにはけっしてわからない。
なぜならマース・ヒューズはロイと違うものであるからだ。
それと同じに、ロイもヒューズのことは理解できない。
ひとはひとを永遠に知り尽くすことはないだろう。そういう生き物なのだ。
たとえ、おなじ経験をしておなじ行動をとって、本当に同じ人のように振舞ったとして、ロイとヒューズがそれでおなじ何かになることはない。





***


「死にたいなら俺がやってやる」

そう言ってヒューズの取り上げた銃が、机の上に置き放されていた。
支給品の銃を、戦場では使うことがなかった。よくよく内側を観察してみたら、螺旋がほんの少しだけゆがんでいた。ロイが使うことはないだろうと、そう見られていたのかもしれない。
ロイ・マスタングは指先を鳴らすだけで町ひとつを軽く壊滅できるのだ。良質な銃は、そんな化け物でない一般の兵士に支給されてしかるべき、という考え方を、ロイは理解できる。しかし出来損ないの銃では、しぬことはできないのだ、ともロイは思う。
焔は扱いを間違えれば死に及ぶことがあるかもしれないが、ロイのみを燃やし尽くすようなことは出来ない。ロイがそうしようとしたならば、きっと周りをおおきく巻き込んでのことになるだろう。自分に照準を定めるのは、簡単だけれど、本当は難しいことだ。ひととはがんらい、生きぎたないものであるのだから。
だからヒューズの言葉は、ロイにはとても甘かった。
ヒューズの手になら、きっとロイは静かに目を閉じることが出来る。
それは他愛無くも魅力的な想像だった。
「ヒューズ、おまえが?」
ほんの少し目をみひらいて、ロイは繰り返した。
信じられないプレゼントに頬をつねるみたいな、そんな心で。
「ヒューズ、」
ヒューズは無言でうなずく。
「おまえが?」
そんな想像が許されるのだろうか。ロイは思わず破顔した。
引き攣っていた頬が、緩やかに緩やかに、安堵の方向に弛緩した。




「何だおまえ、信じてないな」
「信じるさ」
「…信じろよ」
ヒューズはロイの笑みにつられるように、彼がよくする困ったような笑顔をロイに向ける。額の、濃い整った眉の付け根のあたりに心持ち皺が寄るような笑いだ。
「お前が、」
ロイがそう言って惚けたように繰り返すと、マース・ヒューズは、その笑みの奥、オリーヴのひとみに夕映えのかすかな灯りを宿してロイを見た。ひとみにはロイの顔が映されていたのだろうが、窓から斜めに差し込む暮れ方のきんいろがその双眸にあかるい光沢を齎していたので、ロイはそのひかりをみつめるのが精一杯だった。
夕暮の、西日に満たされた部屋は深い金色で、ロイは思わず目を細めた。なにかとてつもなく、美しいものを見ているような気がした。



「俺は、上を」
目指せるだろうか、という疑問でもでも目指すのだ、という決意でもない、曖昧な、どちらとも取れるロイのつぶやきに、ヒューズはやはりほんの少し苦いものを含んだ柔らかな視線をかえし、しかしヒューズがなにかを言おうとして口を開きかけるいっしゅんの前にロイはふたたび、同じことばをくりかえした。
それはこの国の最高指導者の地位を指していて、ロイは重々しくというよりは、強い覚悟の染み渡ったこえで発音した。もう、そのようにしか口にすることが出来なくなっていたことに、ロイは驚く。
東の戦線へ向かう以前からくすぶらせていたその思いを、全きものにしたのは明らかにイシュヴァールの殲滅戦だった。
あの戦場に赴いた時から、その以前から、一種狂気じみた作戦の地図を聞かされたときから、帰還兵の精神が、戻ってくる頃には無事で居られないだろうと予想はしていたのに、それを知りながら前線を志願したのはほかならぬロイ自身であったはずなのに、ロイは結局のところ自分の齎した死の泥濘に足を取られていたわけだ。
覚悟は如何程だったのだろうと、ロイは己に問う。
そう思ったとたんに部屋の夕暮れが、どこまでも遠いもののように思われた。



「行けよ」
ヒューズは言った。何所へでもなく、果てのない場所を指していることは、ロイにもわかった。
ロイがその、目指すところを口にするときと似ている、苦く深い覚悟と、それから士官学校に在籍していたときに、とりわけ厳しい教官の授業のエスケープを企てるときのような、悪戯めいた苦笑の混じる声だった。
「そんで、俺も乗らせろ、その話」
そして、正面から、ハグに近い格好でロイの背中を叩いた。
手の感触が、静かに全身に広がるような、そんな心地をロイに齎した。
ロイはその言葉を、しんから信用して良いもののように聞いてとった。

「…行く」
「手伝わせろ。一番上まで行ったら、その景色を教えろよ。大声でな」
なにもかもを踏み越えてすすめ、とマース・ヒューズは言うのだ。
「その声が聞こえる程度には、俺も必死でついてくからよ」
ロイは足を見た。記憶のぬかるみはいまだ足元をとらえたまま、軍靴の足取りをおぼつかないものとしていたが、その歩みを進めることはまた、ロイにとってひとつの祈りにかわるものだった。
「ああ、約束する」



おまえが。
お前が其処にいるのならば、とロイは思う。
マース・ヒューズの気配がすぐ傍にあるのなら。それは、本当はただの気慰みでしかない、ロイの想像であったけれど、ロイを安らげるものであるのに違いはなかった。
ロイの心中を知ったように、マース・ヒューズが言う。
「まあ、どうしようもなくなったら、」
そのさきの言葉はつむがれなかったが、ロイはうなずいた。脳裏には撃ち損ねた拳銃の想像があった。
それがどれだけ、ロイを安心させたのか、ロイでさえ理解できはしない。







あかるかった夕暮れは気が付けば黄昏を迎えていて、無言でいた時間の長さを二人に教えていた。
ひとまずは腹ごしらえをしよう、そう言ってヒューズはキッチンにおいてあったバスケットをがさごそとまさぐり、チェリーのパイをひとつロイに手渡した。
焼きたてのあまやかな絡みつくような匂いは失われていたけれど、卵黄の丁寧に塗られた表面がつややかで、作った人の面影をうかがわせる。
ロイは受け取って、一口を齧る。
どろりと口の中に、砂糖とダークチェリーの味が広がった。
切り口は赤い果実の、フィリングの光沢を帯びた黒い色で、暗い部屋の中ではやはりそれはロイに人の肉を思わせたが、ロイは迷わずに口に運んだ。
生きることを咀嚼している、という気がする味だった。
その想像に、ロイはすこし笑った。ヒューズが電燈をつけながら首を傾いだが、ロイは旨いな、とそれだけで誤魔化した。




***



いまでも思い出す。
あの日のチェリー・パイ。
背を叩くマース・ヒューズの優しい手。
自分を支え、助け、過ちがあったのなら粛清をあたえてくれると約束してくれた、ロイより関節ひとつも大きかったマース・ヒューズの手。
あの手には、いくら伸ばしてもロイは届かない。
だからロイはけっして、道をあやまることをゆるされなくなってしまった。
マース・ヒューズの手こそが、ロイにとってはあるひとつの、ゆいいつの赦しであったのに。

あのときに遠く目指していた場所をもう通り過ぎようとしているのに、足元は変わらずにぬかるみで滑り、約束の地平は霞んだままだ。



あの言葉が今でも、ロイの背中を押し続けている。
ロイは歩みを進める。
いまでも、こころは声を嗄らして叫び続けている。








すぐ後ろにいないその人に声を届けるために、いつも。


















華南様のお家の1000ヒットを踏んでリクエストさせていただきました。
本当にすてきな、正当派なヒュロイで、何度読んでも最後にきゅんとします…!
他にもじんわり来るすてきな小説がいっぱいある華南様のサイトはこちらです。本当にありがとうございました!!(2004.10.22)