カルバドス

バターはそんなに小さく刻み込まなくていいの。ちょっと塊が残ってる方が舌触りがいい。グレイシアさんはそう言って、自分のボウルに卵の黄味を入れた。私も慌ててメモを取ってから私の分のボウルに卵を入れる。バターを混ぜた小麦粉の上を黄味がとろんと滑る。

「それから水と塩をほんの少し。生地はこれで出来上がり。簡単でしょ?」

グレイシアさんはさっさと生地を一まとめにすると布巾に包んだ。その指先の綺麗なことと言ったら。私の指はネチャネチャで、いかにも料理慣れしていない風だ。

「…オートメイルより難しいです」

私がうなだれるとグレイシアさんは笑って、小さな割に重そうな鍋を取ると火にかけた。生地を寝かせる間にカスタードクリームと林檎の準備。無駄がない。ばっちゃんの仕事を見てるみたい。大きな出窓のあるヒューズ家のキッチンはとても明るい。出窓の上には棒が渡され、使い込んだ銅鍋が大きい順に吊り下げられている。

「ロイさんもそう言ってたわ」

卵、砂糖、牛乳。クリームの材料をメモしていた私は、その台詞に面喰らって顔をあげた。

「ロイさんて、あの…マスタング大佐ですか」
「そう。錬金術の方が簡単だって」

あのいつも調子のいい、でもちょっと怖い気もする(エドは「態度デカいだけだ!」って言うけど)あの人がどうしてアップルパイを。私の頭のなかは疑問符だらけになった。

「アップルパイを作ったんですか?」
「そうよ。今ウィンリィちゃんに貸してるエプロンでね」

この赤いチェックのエプロンで?フリルがついてないのが救いといえば救いだけど。言う間に思い出したのか、木杓で鍋のなかを練りながらグレイシアさんは小さく笑った。

「林檎の上に、細く切った生地を重ねるでしょ?だから伸ばした生地を渡して『リボンみたいに切って』ってお願いしたら、どうしても曲がっちゃって真直ぐ切れないのよ。そのうち怒り出して『ヒューズ、笑ってないで定規持ってこい!』って…、もう悪いけど二人して笑っちゃって」

きっとヒューズさんはリビングのソファあたりで茶々を入れながら見てたんだろう。目に浮かぶ。

「でもどうしてそんなことに」
「うーん、何だったかしら…。多分罰ゲームか何かよ」
「罰ゲーム」
「そう。賭けでもしたんじゃないかしら」
「ロイさんが負けて?」
「あの人が言ったんじゃない。俺のためにアップルパイ作れ!とか」

馬鹿ねえ。でも可愛くて可笑しい罰ゲームだったわ。グレイシアさんは出来上がったクリームを味見させてくれた。なめらかで弾力があって、これだけで充分美味しいデザートだ。少し冷ましてからカルバドス酒を振り掛けると、甘酸っぱい香りがキッチンに広がる。グレイシアさんは瓶の口から流れる雫を拭い、その指を舐めて少し笑った。

「あの人は自分が負ける賭けなんてしないのよ」

その表情はなんだかとても艶っぽかった。女同士なのにドキッとした。





「美味しかったですか?大佐の作ったパイ」

並んで椅子に座り、林檎の皮を剥く。グレイシアさんの手許から、林檎の皮が長く床へ伸びていく。私の手許はぎこちない。

「形はともかく、味は私のと一緒だったわよ」
「良かったですね、ヒューズさん」
「『目を瞑って食べればイケる!』とか余計なこと言って怒らせてたけど」
「仲いいんですね」
「私より長い付き合いだもの、あの二人は」

長い付き合いかあ。私はあの兄弟のことを思った。最近私に何も話してくれない、コソコソしてる兄弟のことを。どうして私に何も言ってくれないの。なんて怒ってみたけど、そりゃ私はいつも傍にいないし仕方ない。だけど…。

「でも、男同士で仲が良いと、割り込めないっていうか
 なんだか寂しいなあって…」

あ、意味不明な愚痴をこぼしてしまった。グレイシアさんは林檎を剥く手を止め、にっこり笑った。

「でもね、二人でぱーっと走っていっちゃうけど、何か見つけて褒めて欲しくなったら、きっとウィンリィちゃんのところへ戻って来るわ」

お見通しなグレイシアさんが凄いのか、私が分かり易すぎるのか。さすがヒューズさんの奥さん。私は恥ずかしくて返す言葉を無くした。急に目尻がじわっと熱くなった。恥ずかしいからだけじゃなくて、多分私はずっと誰かにそんな風に言って欲しかったから。嬉しくてホッとして、涙腺はどんどん弛む。グレイシアさんは私の泣きべそを見ないふりで、また林檎の皮を剥きだして、言った。

「私も悔しいときはそう思うことにしてるの」

皮の剥けた林檎を、ストンとナイフが八つに切る。グレイシアさんが目配せして微笑った。「戻ってきますか?」と私が聞くと、グレイシアさんは「勿論よ。男はみんな褒めて欲しがりだから」と言い、パイ生地を皿へ敷いた。私はその上へ林檎を並べる。グレイシアさんから見たら私はきっと子供だろうに、大人の女同士みたいに話してくれる。こんな姉さんがいたら嬉しいな。ばあちゃんにエドの話なんて出来ないし。ああ、私もしかして、生まれて初めて女の子っぽい会話してるんじゃない?

オーブンにパイを入れて、グレイシアさんは紅茶を煎れてくれた。パイの焼けるいい匂いのなか、私達は初恋だとか、こういうとこが好きとか嫌いとか、漂う匂いに負けず劣らず甘酸っぱい話をした。

「まあ、あんまりべったりされたら嫌になるんだから、ちょっと寂しいぐらいが丁度良いのよ」

グレイシアさんが余裕の結論を出すと、ドアの開く音がしてキッチンまで声が響いた。

「グレイシアただいま〜。おーウィンリィちゃんいらっしゃい。アップルパイだ。アップルパイだな。いい匂いがしてる、いい所に帰ってきたな俺は!エリシアちゅあん〜、パパが帰ってきましたよ〜」

満面の笑顔でドタドタと走ってくるヒューズさんを見て、グレイシアさんはこっそり噴き出して言った。

「ね。とくにこの人はね」

私が笑い出すと、ヒューズさんは「え?何?俺がどうかした?」と私達の顔を交互に見た。焼きあがったアップルパイは、カルバドスが効いて大人っぽい味がした。よし、あの兄弟にも食べさせてやるか。












(2007.03.05)