「だいたいねえ〜、あ、無礼講って中佐言いましたよね?」


ジョッキを十杯空けたところで、顔の赤いハボックが俺に絡みだした。無礼講ってのは、その場は笑って聞くということで、根に持つかどうかは俺次第だ。しかしここはおおらかに「ったりまえじゃねーか」と笑ってみせた。俺がひょいと掲げたジョッキの向こうに、疑わしげな半眼で俺を見ている酔わないブレダ少尉。

「だいたいねえ、中佐は大佐に飲ませすぎなんですよ。
 あんたが帰ったあと、あの人一日中二日酔いみたいな顔してんですからね。
 いくら同期だからってせ…せ?節度!ってもんをですねえ」

二日酔いのロイぐらい可愛いものはないじゃないか。目のふちを赤くして膨れっつら。怒鳴ると自分の脳天がぐらぐら揺れ、頭を抱えて丸くなる姿は、自分の尻尾を踏んで泣く子だぬきのよう。こいつは一体何が不満なんだ。

「仕事のペースも落ちて、中尉にネチネチ言われてるし」

リザちゃんは絶対、可愛くてネチネチ絡んでるに違い無い。どうもこいつはまだロイの良さが分かってないな。俺の心の査定表に響いたとも知らず、ハボックはゆらゆらと上体を揺らして機嫌良く、離れたテーブルの女性を眺めて鼻の下を伸ばしている。胸元の大きく開いた青いドレスの女。結い上げた薄い色の金髪。

「そりゃお前、女や俺らと飲むときは大佐も節度とやらをわきまえてんのさ。
 中佐は同期だからお互いハメが外せるんだろ?」

そのハボックの耳を引っ張って、ブレダ少尉がたしなめた。本当に彼は有能だ。見込み以上の冷静な分析!しかしハボックは泥酔している。ジョッキをテーブルへドンとおろして据わった目で言った。

「んなこた分かってるっての!だけどよ。
 なーんかスッキリ来ねえんだよ、分かる?
 だからねえ、俺は今日、ちょっと中佐にざまあみろっすよ」

ブレダは短く「この馬鹿」と吐き捨てて、引っ張ったままの耳朶をひねった。

「すいません、こいつにゃ士官学校の頃から苦労させられましてね。
 俺が必死にフォローしてフォローして、ギリギリで卒業ですから」

それは大変だったね、ブレダ少尉。青いドレスの女が立ち上がった。ハボックは「あ…」と未練げに呟いてふらふらと立ち上がり、そのまま足を縺れさせて床へ転がった。ズドンと砲撃のような音をホールに響かせた本人は、床板に懐いてすやすやと寝ている。

「すいません、すぐ連れて帰りますから」

ブレダは俺と周りの酔客に慌ただしく頭を下げ、自分より大きな身体を引き摺って、柱へ凭れるように座らせた。そして両足を投げ出してすうすうと寝ているハボックの前へ屈むと、器用にその身体をおぶってみせた。きっとブレダ少尉は何度もこんな目にあっているんだろうな…と誰もが察する手際の良さだった。

「中佐、本当にすんません。
 えーと…こいつ、中佐のこと好きですから。
 でもこっちに奴らこともみんな好きで…えーと…」

わあってるよ。俺は片肘をついて、ひらひらと片手を振ってみせた。ブレダ少尉は重たい荷物を背負い、バーの煤けた扉の前で俺を振り返ると、へへへと苦笑を浮かべてみせた。本当に手間かかるんすよ、こいつ。そんな顔だった。でも放っとけなくて。分かる分かる。俺達は無言で会話を交し、ブレダ少尉は扉の向こうへ、一瞬店の赤い灯に照らされてから消えた。


ひとり残された俺は、同じ酒をもう一杯だけ飲み、寝酒を一瓶買って店を出た。






ホテル・スプレンディッドの部屋からは、遠くイーストの駅舎が見える。駅舎へ続く石畳の路の左右に、青緑色の外灯が等間隔に滲む。

「ざまあみろ、ねえ…」

軍服の上着を脱ぐと、もうすることが無い。駅舎の向こうにドーム形の屋根が浮かんでいる。あれぞホテル・エルミタージュ。シャンデリアのような豪華な光を四方へ放って輝いている。

二の次にされるというのは、なかなか淋しいものだな。シャツの襟首に指を突っ込み、釦を幾つか外してソファーへ座った。連絡をしなかったのは確かに悪いが、今まで連絡をしなくても適当に都合をあわせてくれたじゃないか。

今ロイが会っている令嬢はどんな人だろう。俺の全く知らない女性がロイと結婚するというのが、どうもピンと来なかった。いや、それは俺が言えた義理じゃない。ロイも初めてグレイシアのことを話したとき、少し唖然としていたような気がする。あの時ロイは、今の俺みたいな気分になったんだろうか?

ロイが誰かと結婚する。今までその想像をしなかった方がおかしい。頭のなかで、俺とグレイシアが結婚した教会に、白い礼服のロイを立たせてみる。隣に立つ女性がさっぱり思い浮かばない。悪戦苦闘しているうち、俺にとって花嫁といえばグレイシアだから、何やらグレイシアに似た女性がぼんやりと浮かぶ。淋しさ二倍だ。

俺は友人代表として祝辞のひとつも述べるだろう。乾杯の音頭だって取るだろう。ライスシャワーだって人一倍投げるだろう。あいつは中央へ転属され、俺の家の傍へ居を構える。俺達が司令部で馬鹿なことで笑いあってる頃、家ではグレイシアとロイの奥方が一緒に料理をしたり旦那の愚痴を零したり楽しくやるだろう。そのうち子供同士も仲良くなるかもしれない。その場合、ロイの子供は女の子でなくてはならない。野郎だったりした日にゃ、俺は心配で仕事が手につかない。



ロイにそっくりの子供がエリシアを攫っていく地獄絵図が頭に浮かんで、俺は自分の空想の羽根を慌てて畳んだ。

そうだ酒だ。酒を買ってきた。キャビネットからグラスを取り出して、瓶の栓を抜く。いまさらながらツマミも買ってくればよかったと思ったとき、最初は強く、二度目は弱く、ドアがノックで揺れた。扉をあけるとそこにいたのは、気の効くバトラーではなくて仕立てのいいスーツに着られたロイ。


「…見合いは?」


ロイは俺の顔を見ずに、ドアの木目をじっと見ていたかと思うとぐいぐいと部屋へ入って来ようとした。そんなに力任せに押さずとも。俺がすっと身体を引くと、前へつんのめりそうになりながらのご入室。

「見合いはどうした、色男」

そのままずかずか背中を向けてソファーへ歩くと、二人がけのソファーを占領して真ん中へ座る。俺は仕方なく、一人がけの方へ腰を下ろした。

ロイの私服を見るのは久しぶりだ。ヴィンテージらしい重厚な生地の細身のスーツ。アスコットタイと胸ポケットから覗くチーフの色を揃えたのは、きっと中尉の見立てだろう。灯りを絞った部屋のなかで、シャツの白さが浮き上がって見える。ロイはテーブルの上の酒瓶とグラスを見て、小さな声で何か言った。

「え?何?」
「アップルパイはどうした、と言った」

そんなの当然持って帰った。俺は荷物のなかから、グレイシアが持たせてくれた小さな箱を出して、酒瓶の横へ並べた。

「アップルパイ、食いに来たってか?」

俺が笑うと、ロイはそれが条件反射のように渋い顔をして、俺の方を見ないまま「デザートが不味かった」と不機嫌な低い声を出した。

「ああ、見合いのディナーのね。で、口直しに来たと」

黙って頷く意固地な旋毛。ここへ来たのがホントに不本意そうな態度だから、俺はそれが可愛くて、もうあんまり苛めるのはやめた。箱を開けると、焼き目すら完璧なアップルパイがあらわれた。ロイは俺の酒を勝手にグラスへ注ぐと、アップルパイを箱ごと手許へ引き寄せて、添えてあった我が家の銀のフォークを握った。零す、零すぞと思ってみていたら、案の定パイ生地をテーブルへ落としながら一欠け口へ運んだ。

「旨いか?」

頷いて酒を呷る。俺ひとりで飲む気だったから少し強いんだ、それは。慌てて手を伸ばすと、やはり辛かったのか素直にグラスを取り上げられて、ロイはようやく俺を見た。


「お前があんまり淋しがるから」


ほとんど憎むような目で睨みながら、そう言ってロイは唇を噛んだ。


「お前があんまり淋しがるから、気が散って仕方なかった」


うん。俺はグラスをテーブルへ置いて、その手でロイの口の端へついたパイの皮を払った。きっと俺は笑っていただろう、ロイがいよいよ怒った顔になったから。

「お前は淋しがり過ぎる」

うん。俺はまたそう言って、指先へついたパイを食った。ほんの少しの塩味、そしてバターと甘味。エルミタージュの料理長もかなわない我がグレイシアの腕前。ロイは俺の仕草に呆気にとられ、ついでに少し怒気も抜かれてくれて、また一口パイを食べた。

「お前が淋しがるのは、いつも周りが賑やかだからだ。贅沢病だ」

うん。崩れはじめたアップルパイから転がり出した林檎の欠片を、俺は指で摘んだ。行儀の悪い指を容赦ないフォークが刺そうとするのを逃れ、さっと口へ放り込む。ロイはもう分けてやらんとばかり、箱を膝へ抱えて食べ始めた。フルコース食べたあとでよくそんなに入るものだ。怒ると食が進むんだろうか。まあ何にせよ、可愛いこと冬眠前のリスのごとしだ。

さすがに全部は食べ切れなくて、ロイはようやくフォークを置いた。 俺は膝の箱をそっと退けて、代わりに自分の頭を乗せてみた。 ロイは黙って脚を左右へ開き、俺の頭はズルっとソファーの座面へ落ちた。「おあっ」とか呻いた声が小気味良かったのか、ロイはフフンと笑って膝裏を俺の首へ掛け、そのまま片足で締めあげた。

「ちょ、ギブギブ…!」

俺は叫んで闇雲に腕をばたつかせ、ロイのスーツの腕だか肘だかを掴んだ。ロイは一段と愉快そうに笑うと「私の一張羅をベタついた指で触るな」と俺の手を引っ張りあげた。林檎を摘んだ指先が、ロイの唇だか舌に拭われた気がしたのは幻覚だろうか。それは本当に一瞬だった。

「私が淋しいんじゃないぞ」

ロイの股間に頭を突っ込んで、太腿の裏でソファーに押し付けられながら俺は頷いた。

「淋しいとなんぞ、思ったこともない」

そう言う声が淋しそうだなんて、言えば確実にとどめを刺される。 俺が頷くと、ロイの指が髪の生え際に分け入ってきて、ゆっくりと静かに後ろへ流した。









中尉が車を回してくれたのは、翌日の早朝だった。

ロイでも飲める甘めのワインをルームサービスで取って、いつものような馬鹿話といつものようなじゃれあいで、どっちが先に寝たかも覚えていない。とにかく俺は床で目が覚め、ロイはなぜかベッドできちんと寝ていた。ベッドを取られた仕返しに、締めたままのアスコットタイを外して、髪に可愛く結んでやった。

「7時発の列車で宜しかったでしょうか」

運転席の中尉が言う。俺は眠たげに頷いて、バックミラーに映る自分の頭の酷い寝癖にげんなりした。朝早いとあって道も空いている。駅舎が近付く頃、中尉はぼさっと窓の外を眺めている俺へ訊いた。


「ところで、私はどちらへ大佐をお迎えに上がればいいでしょうか。
 エルミタージュ?それともスプレンディッド」


やましいことなど何もないが、俺は短く息を飲んだ。指先に、ヘンに湿って暖かい感触が甦る。おそるおそる覗いたバックミラー越しに中尉と目が合う。俺は悪戯が母親に見つかったような気持ちで、引き攣った笑みを浮かべて白状した。

「あー…、スプレンディッド、かな…」

中尉は表情を変えずに「了解しました」と答え、駅の正面玄関前へ車を付けた。トランクから荷物を出し、俺は運転席を覗き込む。

「あー…あいつさ、何か淋しがりだからさ。構ってやってね、リザちゃん」

そう言うと、有能で麗しい補佐官は、何を今更という顔で俺を見た。それから少し考え、急に小さく噴き出し、まさに花が開くように笑って、俺に敬礼しながら言った。

「貴方が来ると、あの人は淋しがりになるんです」

その余裕の笑顔に、俺は笑い返すしかなかった。あーもう、カッコ悪いぐらいお見通し。男って奴は所詮女にゃ適わねえんだな。本当に宜しくお願い。あの分かりやすい策謀家を。俺も敬礼を返すと中尉は一礼して車を出した。朝日を弾いた黒い車体は、来た道を辿りみるみる小さくなった。



ロイのガキにリザちゃんの血が半分混じってるんだったら、エリシアを嫁にやってもいいのにな。



車影が消えてしまうと、俺はブリーフケースを肩へ担いでそんなことを思った。















(2006.08.23)