砂の河

どこまでも続く砂漠の果て、私達はようやく目指す遺跡に辿り着いた。

錬丹術…こちらでは錬金術というのか、によって滅びた砂礫の廃虚。若は砂まみれの上着を脱いで、私達に休憩しようと仰ると、崩れた門のなかへ入っていった。

私は月明かりの下、若に続いた。道は砂に埋もれて円柱がいくつも転がり、あちこちに壁だけになった建物が見える。その壁のひとつに巨大な錬成陣が描かれている。若は興味深げにそれを見ておられたが、やがて、その傍の階段へ腰を下ろした。辺りはしんと静まって、遠い風の音しかしない。崩れた壁の隙間から、向日葵より少し小振りな花が、重そうに頭を垂れている。見上げれば空いっぱいに見事な天の河が横たわっていた。


「今日は七夕ですな」


胡が、ふと気付いた顔でそう言った。

「シチセキ?」

若は夜空を見上げたまま鸚鵡返した。胡は頷くと言い足した。

「織女が牽牛の元へ渡る夜です」
「そういえばそんなのがあったな。どんな伝承だったか」

胡も細かいところは覚えていないらしい。若に「蘭芳も知らないか?」と訊かれたので、私は一礼してから語り出した。


「天帝の娘、織女はみごとな布を織る天女でした。
 五色に光り輝き、季節が移れば色を変える、不思議な布を織ります。
 天帝はよく働く娘のために、牽牛という牛飼いを見つけて妻合わせました」


若は可笑しそうに合いの手を入れた。


「天女が牛飼いとか」
「はい」

確かに我が国では決してありえないだろう。皇女はみな、皇帝の権力を磐石にするためだけに嫁ぐ。それでも皇位を継げねば殺される皇子よりはずっとマシだ。私はそっと胸中に呟いて話を続けた。


「二人はお互いに夢中になり、織女は機を織らず、
 いつも牽牛と一緒に過ごすようになりました。
 最初は大目にみていた天帝ですが、いつまでも織女が働かないので
 二人を天の河の西と東に分けてしまいました」


そうそう、そんな話だったな。若はそう仰って、私を横目に見て笑った。

「可哀想だと思うか?」

好きな方と、ほんのひととき添えただけでも幸せだと思います。
そんなことは勿論、口には出せない。
私が口籠ると、若は流すように「それで?」と先を促された。


「そして天帝は二人に、一生懸命働くのなら、
 七月七日の夜にだけ会うことを許してやろうと言いました。
 織女も牽牛もそれからは心を入れ替えて働き、年に一度、今夜だけ
 月の舟で天の河を渡り、逢うことができるのです」


蒼々とした夜空に、錐で穴を穿ったようにくっきりと星がいくつも瞬いていた。雨が降れば水かさが増して、二人は会えなくなってしまう。そんなときは鵲の群れが飛んできて、羽根を広げて橋になってくれると聞いた。今夜は鵲の手助けは要らない。上弦の舟が冴え冴えと光っている。

乾いた風が若の括った髪を嬲った。いつも笑みを浮かべ細められている目が、月の光を弾いて遠くを見ている。都に残して来られた姫のことを想っておられるのだろうか。若には言葉をお覚えになるより先に婚約者がいらっしゃった。鈴を鳴らすような美声の姫。皇家につながる血筋の気品と美貌は匂いたつばかり。刃どころか象牙の箸しか握ったことのない、たおやかな白い指。都を出てから早数年経つ。いよいよ美しくおなりだろう。


「可哀想だ。その天女が」

その遺跡は静かすぎて、若の呟く声もよく響いた。

「天帝のいいようにされる無力な夫を持ったばかりに、一年に一度の逢瀬」


それは御自分に重ねて仰っているのですか。
若の口許には自嘲するような笑みが浮いていた。皇帝の機嫌を取るために、姫と離れてこんな遠くへ。何気なく仰った「逢瀬」という言葉の甘さが私の胸をついた。望んではならない、想ってもならない、何度もそう自分に言い聞かせているのに。敬愛や慕わしさは、すぐに余計な情に変わる。女であることが嫌になる。いっそ男であればもっと清しくお仕えできたものを。


「オレが牽牛だったら、そんな面倒な天女より牛を連れて気ままに暮らすほうがいい」


胡がその言葉に思わず笑った。「若もまだまだ子供ですな」と。そして寝床になる場所を探すと言い置いて、ふわりと姿を消した。ずっと子供でいて下さったらいいのに。ずっと旅が続けばいいのに。馬鹿な、ただの随身が何を望んでいるのか。黙ってしまった私の顔を、若は横からひょいと覗き込んで、まじまじとご覧になった。浅ましい想いが顔に出てしまったのだろうか。金縛りにあったように動けなくなった私に、若は笑って仰った。



「牛というより、小猿か?」



驚きすぎると頭のなかが白くなるというのは本当だ。我に返ると、胡が遠くで私達を呼んでおり、若はもう私に背をむけて声のする方へ歩き出していた。

風が吹いて、若と私のあいだを砂が河のように流れた。
この夜の、この一瞬を忘れまいと、私は立ち尽くして、その背中をいつまでも見つめた。















(2006.7.10)