library

まさに理想の図書館だった。

白い大理石の床は窓からの光を優しく弾いている。その床から高い天井まで届く大窓。窓枠は植物の蔓のようにくねり絡みあい、まるで色のないステンドグラスだ。窓際に数列並ぶ木目の机は、大学の講堂に置いてあったものと似ていて懐かしい。年季を感じる飴色の机の上に、錬成陣の落書きを見つけた。中央にハート。子供の悪戯描きかしら、可愛い。整然と並ぶ本棚は果てが見えない。大好きな本の匂い。ああ、こんな場所で働けたらどんなに幸せだろう。もう今度こそ絶対、整理しながら読みふけったりしないから、どうか神様…。


「それでは、開始します」


突然、図書館に声が響いた。まるで図書館そのものが喋ったかのような穏やかな声。私は驚いて顔をあげたが、周りにも二階へ続く階段の上にも人影は見えない。


「あなたがたにお渡しした紙をご覧ください」


あなたがた?すると後ろの扉が開いて、いかにも才媛といった様子の女性が十人ほど入ってきた。長い金髪を後ろで束ねている女性はホークアイ中尉に少し似ている。癖のある長い黒髪の女性は、女の私からみてもドキッとするような色香を漂わせている。なんでこんな人達と私が一緒に居るんだろう。わき上がる劣等感を飲み込んで、私は手にしていた紙を開いた。


そこにはタイプライターで四行綴られていた。

1 あなたが最後に読んだ本
2 あなたが一番愛している本
3 あなたが本を愛するきっかけになった本
4 あなたが今いちばん読みたい本


これは一体何?わけがわからずに私は周囲を窺った。どの女性も心得た顔で、さっさと紙を畳んでしまう人もいる。私だけが分かっていないんだ。


「それでは、この館内からご自由にお選びください。
 ただし、本の並びは作者の名前順でもなくタイトル順でもなく…とても適当です。
 試験はこれが最後です。ぜひ一緒に働きましょう。では、はじめてください」


声の最後に、パンと手を叩く音が響いた。一緒に働く?これは採用試験なの?誰もが一斉に本棚へやや急ぎ足で歩き出した。(そう、図書館では走らないのがルール) そしてランダムに並べられているという本の背に、素早く視線を走らせていく。どの女性もあっという間に書架の上から下までを見て本棚を移動していく。これはきっと時間との戦いだ。司書はなるべく手早く本を探し出さなければならない。私も弾かれたように大股で本棚へ向かった。






しかしこの膨大な本のなかからたった四冊。本ややはりでたらめに並んでいて、小説や歴史書、工学、数学、大判資料、地図、その隣は雑誌。隣の女性が、早速一冊を引き抜いた。嘘。私の目当てと同じだったらどうしよう。こわごわと表紙を見れば「クリフォード代数とスピン群」と金の箔で押されていた。読む系統が違いそうだ、セーフ。というか、その本は一番愛している本…じゃないですよね?

本棚を隣へ隣へと移るうち、私はその本の並びになにか流れがあるように感じた。ルールがある。はっきりとは分からないけど、旋律のような何か。

「30分」

またさっきの声が時間が告げた。本棚の遠近から響く足音が早くなる。私は感じ取りかけた法則を投げ出して焦った。もう2,3冊抱えている人もいる。探す一冊は、いちばん端の本棚の下段にあった。私が最後に読んだ本。ここ一年ほど売れている恋愛小説。評判だから読んでみたけど、俗っぽすぎるかな。さっきの人みたいに難しそうな本を読んでる方がポイント高いのかも。でもあれこれ考えて探してる間なんてない。正直に選ぶしかない。私はようやく一冊を胸に立ち上がった。


次に見つけたのは絵本。私が本の虫になったきっかけの一冊。厚手のトレーシングペーパーに描かれた美しい繊細な絵。いままで読んだ本はどれも「めでたしめでたし」だったのに、この本は最後まで悲しい。動けない王子様のために小鳥が宝石を集めるお話。この半透明の紙が珍しくて、不思議な手触りに魅せられて、読み過ぎて破れたっけ。父さんがテープで補修してくれたんだけど、その滅茶苦茶な仕上がりときたら…。父さんを責めて泣きながら寝たら、枕元に新しい、同じ本が置いてあった。本屋は隣町まで行かないと無かったのに。私は何て言って父さんに謝ったっけ。そうそう、この頁なんかテープで半分見えなくなっちゃって。今見ても、この鳥の羽根の色なんてとても素敵……。

だめよ、シェスカ!!こうやって本に浸って人生を狂わせたのを忘れたの!?

慌てて本を閉じ、私は二冊を抱き締めて階段を駆け上がった。どこかで見ているのか、そんな私をからかうような声が「1時間」と告げた。






二階も一階とおなじく書架の森だった。「一番愛している本」は、表紙を見せて展示棚に並べてあった。随分前に出版されたのにこんな目立つ場所にあるなんて、きっとここで働く誰かがこの本を好きなんだ。嬉しさに頬を弛めながら取ると、布張りの表紙が手に柔らかい。

私が最も敬愛してる小説家が、晩年に書いた本。小説も勿論いいけれど、巻末のあとがきを覚えるほど読んだ。病床の筆者が、これまで書いた本を自分の子供に例えて紹介している。最初の娘は緊張しがちのあがり症。二番目の息子は少々乱暴、口が悪い。父親として愛情と茶目っ気たっぷりに一冊一冊を紹介したあと、こう締めくくられている。私が残す子供達が、これからも永く愛されてくれるといいのだけれど。


懲りずにまたあとがきを開いて文章を追っていると、もう四冊を抱えた女性が目の前を横切った。のんびり読んでる場合じゃないってば!その黒髪の女性は焦る私にちらりと自信たっぷりな視線をくれて、ヒールの音を響かせながら階段を降りていった。そんなに足音の響く靴は減点!私は悔しまぎれに心のなかで叫び、慌てて最後の一冊を探し始めた。

採用は先着一名?こんなに広いし、もっと採用してもいいのに。いちばん読みたい一冊。これは探すだけじゃなくて考えないといけない。適当に選んだら理由を訊かれたりするかしら。どうしよう。ぐるぐる悩んでいる間に、また自分が嫌になる。本ばっかり読んでたら判断力が鈍るとか言うけど、私って本当にそう。私のなかにある知識は全部人の物なんだもの。もう、自己嫌悪なんてしてる場合じゃない。


「1時間半」






本棚の間を何度往復しただろう。見たことのない本、珍しい古書、愛らしい絵本、気がつけばもう他の人の気配がない。案の定、最後のひとりになってしまった。最後のひとりが採用されるなら試験なんかするわけない。

先に時間が告げられてから、もう1時間は経とうとしていた。終了のアナウンスは無いのかしら。それとも試験官にも置いていかれちゃった?窓の外には夕陽が燃えていた。閉館時間は何時だろう。しんと静まった館内を見渡していると、不意になんだか可笑しくなった。どうせ受かるはず無かったんだ。もう現状を楽しもう。こんな素敵な図書館が貸しきりなんて夢みたい。見つかるまで好きに過ごしてやる。好きなだけ読んでやる。


私はお気に入りの4冊を抱えたまま、子供用に作られた柔らかいソファに腰掛けた。何を読もう。何から。天井には丸い天窓があって、その上はもう夜の空だった。一番星が瞬いている。傍には絵本が集まっている棚がある。飾り棚に並んでいる本を見て、思わず「あ」と小さく声が出た。


「…この本」


薄暗くなりはじめた館内で、天井から下がる灯がぽんぽんと点った。見覚えのある表紙にその橙色が映る。


「…この図書館は」


階段の上から降りてくる人がいる。靴音を背に聞きながら、振り返る前からその人が誰かは分かった。もっと早く気付くべきだった。あの声を聞いていて分からないなんて。


「相変わらず本当に本が好きだなあ。よし、最後まで残ったお前さんを採用!
 軍法会議所ほど給料は出ねえがな」


この図書館は、中佐の記憶だ。中佐が読んだすべての本。私は自分がエリシアちゃんの誕生日に贈った本を抱いて、長い階段を飄々と降りてくる姿に目を見張った。あの笑顔、ひらりと上げる片手。

なんだ夢か。これは夢だ。泣いたら覚める。
でも、こんなに懐かしい笑顔を見て泣かずにいられるわけない。

どうせ覚めるなら夢でもいいから触れたくて、私は図書館のルールを破って走り出した。でも伸ばした手が触れる前に、涙が頬へ流れて落ちた。










「図書館で本を探す夢?それじゃ仕事と変わんないじゃない。
 それのどこがいい夢なんだか、私にはさっぱり」



朝から機嫌のいい顔をしていたから、目敏い同僚に問いつめられた。私の答えに呆れる同僚に、私はただ笑って肩を竦めた。すると彼女は綺麗に整えた眉を顰めて、

「あんたのその仕草、ちょっと准将みたい」

と、幽霊でも見たような顔をした。それは光栄。何より光栄だわ。

二人がかりでようやく必要なファイルを揃えて資料室を出ると、窓の向こうに准将が使っていた部屋が見えた。私がその部屋を見ているのに気付いて、隣で長い溜息が漏れた。


「シェースカ。あんた婚期逃しちゃうよ」
「自信ある」


ああ、あの図書館と結婚したかったな。
私がいちばん読みたかった本は貴方でした。















(2006.07.07)