手に手をとって

目を覚ますとヒューズがいた。

「どこか痛くないか?」

訊かれた途端、肩が痛んだ。そうだ、私はイシュヴァールの仕掛けた爆弾に吹き飛ばされた。爆風に身体が浮き上がって、煉瓦の壁に叩き付けられてから地面に転がった。転がった私の目の前に、誰かの切れ端が落ちてきた。

ヒューズの顔の上には煤けた天井。砲撃したイシュヴァールの民家を野戦病院にしているらしい。天井は半分崩れ落ち、かわりに天幕で覆ってある。カーテンとも呼べない薄布に隔てられて並んだベッド。隣の負傷兵が酷く咳き込んでいる。

「今日は俺もボロボロでさ」

情けなく笑うヒューズの顔も擦り傷だらけだ。夕陽が眼鏡のレンズを橙に光らせて、その瞳は片方しか見えない。いつだったかこいつのこんな笑顔を見たと思った。まだ士官学校にいた頃だ。図書室ですれ違ったときか、それとも演習の後。思い出そうとしたが、脳震盪でも起こしたのか頭の芯がぼうっとしている。

「戻ってきたらお前が担ぎ込まれてるって聞いてな。
 でも打ち身と捻挫だけだってよ。
 今日明日は大人しく寝てろ。一週間もすれば元通りだと」

元に戻んねえ方が良かったか?勲章もらって帰れるもんな。そんな余計な一言もオマケにつけるけど、私の顔を覗き込んだ瞳はほっとしたようで、その柔らかい緑色につられて私も頬が弛む。指先を動かしてみれば、言われたとおり問題は無さそうだ。そう、指さえ動けば「仕事」はできる。キンブリーの笑みが頭を掠めた。

喉が乾いたと思う前に、ヒューズは席をたって真鍮の水差しを持って来た。もう片手にブリキのマグカップを引っ掛けて。その何だか戯けたような歩き方を眺めていると、私はまた寮でこいつと暮らしていた頃を思い出した。どうして昔のことばかり。きっと気が弱っているからだ。私は目を閉じて自分を笑った。





「俺さ、明日からお前と同じ隊」

唐突に言われて、瞑ったばかりの目を開けた。

「どうして」
「移動。お前の隊、手薄になっちまったろ?」

持ってきた水差しにびっしりついた水滴を、自分の軍服の胸元で拭きながら、ヒューズはごく軽い調子で言った。講義が休みになったと告げるような軽さで。こいつにだって気心の知れた部下がいるだろうにそんな移動はおかしい。いや、私ひとりがこいつの隊に組み入れられるのか?一体何人が負傷した?訊きたいことは次から次へ浮かんだが、結局私はどれも口にせず、代わりに細い溜息をゆっくりと吐いた。とぷとぷと静かな水音をさせ、ヒューズはカップに水を満たす。また軽い既視感。学生の頃、私はよく熱を出し、同室のこいつはあれこれと世話を焼いた。傾けた水差しのなかで氷が鳴る。

「…貧乏籤だな」
「なんで」
「錬金術師のいる部隊は格好の標的だ。『死にたくねえ』んだろう」

ヒューズは片眉を上げて戯けた顔で笑ってみせ、軍服の胸へ手を入れた。自慢げに取り出したのは勿論、彼女からの手紙だ。少し武骨に見える茶色い封筒に、女性らしい美しい筆蹟で綴られている名前。あの門を出てからお前が見つけた、お前だけの美しい未来。

「死にたくねえし、死なねえの。俺にゃありがたーいお守りがあるから」

ヒューズはまるで女王陛下の御手にでもするように、恭しくその署名にキスをした。姓が滲んで読み取れないのは、きっと何度もそうしたからだろう。無事に戻って結婚でも何でもするがいい。それだけ昇進すれば、文句の無い暮らしが出来るだろう。ほんの少しの寂しさが、私の目を封書から逸らさせた。私達はほんの数年前、誰よりも近い場所にいた。今、お前の横には違う人がいて、私の手には錬金術しかない。無抵抗の女子供を焼き殺す為の焔しか。

その手に、ヒューズは冷えたカップを押し付けた。

「だから俺と居ればさ。お前もこの手紙の加護により怪我なんかしなくなる訳よ」

まったくシンプルでお気楽な男だ。抑えようと思った笑いがつい鼻へ抜けた。ヒューズは「何だよ、信じろよ」と怒った声を作り、封筒の角で私の額をつついた。

「御利益が半分になるぞ」
「分けて減るような愛じゃねえんだな、これが」
「惚気は大概にしておけと言っただろう」

ベッドに寝たまま首だけ横へ倒し、受け取ったカップから水を飲んだ。乾いていた喉を、冷たい水が潤す。するりと胸の奥へ流れ、身体の隅々に沁み渡るような感覚。自分はまだ生きているんだなという鈍い感慨。生きている。人を殺しながら。自分もいつか戦場で倒れると思いながら。覚悟よりは諦念に近い感情。無気力の沼にずぶずぶと足を取られる日々。





「お前は帰れると思うのか?」

手紙を大事そうに胸へしまいこんだヒューズは、私がこぼした言葉に大袈裟に呆れてみせた。なんでこいつはあの頃のままなんだろう。目に浮いた険も、ちょっと笑えば消し飛んでしまう。そして、あの頃のままだからこそ余計に遠く感じる。

「当たり前だろ。帰るに決まってんじゃねえか。お前も帰るだろ?」

そう言ってみせた笑顔があんまり自信に溢れているから、私はつい勢いに飲まれて頷いてしまった。するとヒューズはさらに満面の笑みを浮かべて、私の手からカップを取り、酒でも注ぐような機嫌の良さで水を満たすと一息に飲み干した。口端から伝う水滴を雑な手付きで拭いカップを置く。そして突然、直立不動の姿勢をとった。

訳が分からずぽかんとしていると、ヒューズは略礼をしてみせて口を開いた。


「マース・ヒューズ、お耳汚しながら一曲」


馬鹿とかやめろとか言う前に、奴が少し抑えた声で歌い出したのは、耳慣れた軍歌だった。士官学校でよく、バカ騒ぎのたびに皆で歌っていた。


戦友よ、我ら足並みを揃え、歌い行進す
我ら勝者の栄冠を掲げ、故郷に帰還せり


ヒューズの声は不思議な柔らかさで耳をくすぐった。甘いわけでも渋いわけでもないが何となく色気のある声だ。女が好きそうな。ときどき音が抜けて吐息のようになる。少し離れたベッドから、合いの手の拍手が起きた。軍人でなくても誰もが知っている歌だ。内戦が起きてから戦意高揚のためかラジオからもよく流れる。しかしヒューズの歌い方は朗々というよりは静かな調子で、気勢が上がるどころか望郷の念に駆り立てられそうだ。


娘たちは窓から身を乗り出し歓声を上げる
祖国の旗は翻り、人々は万歳を叫ぶ


咳き込んでいた隣の兵士が唱和すると、あちこちのベッドから歌声が上がった。そう、こんな風に歌いながら、皆で夜を明かして語った。この国はどうあるべきか。どう進むべきなのか。ヒューズにとってそれはもう、青臭い過去なんだろうか。あの頃抱いていた夢とあまりにかけ離れた場所で、同じ歌を聞く。懐かしさと切なさ、そして遣る瀬無さが、歌の抑揚に合わせて繰り返し浮き沈みした。


兵たちは戦い終わりて歴史に名を刻む
名誉は祖国の栄光と幸せの上にあり


車座になって歌っている士官学生の自分が目に浮かんだ。部屋に散らばる酒瓶や課題の山。いちばん酔っている(ように見えるがその実そうでもない)ヒューズ。酔うと教官の真似をする奴。着任早々戦死した同期の笑顔。あのとき語った未来は、私達全員の夢だった。青臭くても理想を持っていた。誰に嘲られようと捨ててはいけない。たった一人でも青臭い夢を持っていよう。そして、もし生き延びることが出来るのなら、きっといつか…。


帰還せり 帰還せり
いざ戦友よ歌え、我ら故郷に帰還せり!


歌はいつの間にか病室の壁を震わせる大合唱になり、歌い終えると自然に拍手と歓声が起こった。そして歌い終えるのを見計らっていたように扉が開いて、軍医が「うるせえぞ!お前ら、そんな元気ならベッド空けやがれ!」と一喝して出ていった。一瞬静まった病室に、すぐに笑いが広がった。もちろん最初に笑い出したのはヒューズだ。





「あー、クソ懐かしいなー」

笑いを収めきらないまま、ヒューズはまた水を呷った。一曲歌っただけなのに病室には不思議なあかるさが満ちた。少し離れたベッドからダミ声の軍歌が始まった。

「ああ。懐かしいな」

素直にそう口から出た。少し微笑んでさえいただろう。それは随分と珍しい顔だったのか、ヒューズは目を丸くして逆に笑みを消した。それからコホンと咳払いをひとつ。そのまま何かを考える顔で拳を口許に当てたままでいたが、自分の考えを反芻するように何度か軽く頷き、ようやく口を開いた。


「俺達、ここへ来んのはバラバラだったけどよ。
 帰るときゃ一緒に帰ろう。ちゃんと生きてな」


私は余程死にそうな顔をしてるらしい。苦笑して頷くと、ヒューズはようやくほっとした顔になり、言葉を継いだ。


「そんで、俺達の『美しい未来』の続きをやんねえか」


驚きが息を止めた。もうこいつと私の道は分岐を過ぎたと思っていた。
私とは違う未来を見ているのだと。

私は過去から、いちばん大切なものを取り戻した。
旧友がまた親友になり、隣へ戻ってきた。
寮での馬鹿騒ぎがまた脳裏に浮かぶ。輪のなかのヒューズが私を見て笑った。それが目の前の笑顔と重なって、ゆっくりと滲んだ。


「おい、やっぱどっか痛いのか?」


笑顔ぐらいは見せてやっても、泣き顔なんかは見られたくない。目許にじわりとわき上がる気配があって、私は慌てて横を向きシーツを頭の上まで被った。

「痛くなった」
「どこが!」

シーツ越しに無遠慮に肩を掴む大きな手。
ああ、お前は本当に貧乏籤を引く男だ。
一生を台無しにするといい。後悔してももう遅い。

私は声が湿る前に、早口に答えた。


「お前があんまり音痴だから、耳が痛くなった」


ヒューズがまた何か文句を言った。
私は目を強く瞑りすぎて、うまく聴こえなかった。















(2006.06.23)