さくら
その樹の名前は知らない。ただ、春になればふんわりとピンク色の花を枝がしなるほど付ける。
「スカートの内にいるみてえ…」
女っ気の足りない寮生活ならではの名言を、その樹の下へ寝そべった学生が吐いて、それからその樹は“スカートの樹”なんて呼ばれてた。そう、確かにこうやって樹の根に腰を下ろして見上げれば、視界いっぱいの桃色のシフォン、そして淡い香りも女性らしい。寮の裏庭にぽつんと一本。今年も花の盛りを迎えていた。
その樹の下は、ぼーっと座って花を眺めるのにはいいが、本を読むには向かない。風が吹けばやわらかい花びらが飛ばされて、頁の上や眼鏡のレンズにも張り付く。そっとつまみあげて退かしても、次から次へと降ってくる。木陰ならぬ花陰で読書、と洒落こむつもりが失敗だったな。そう、ちいさく溜息をついたとき。
「本なんか読むからだ」
急に声がして、顔をあげるとロイが立っていた。そういうロイも片手に本を下げていて、同じ思いつきでここへ来たらしい。
「せっかく満開なのに、見てくれないから花が拗ねてる。ほら」
その台詞の途中で、また一枚、花びらが眼鏡へ張り付いた。半分になった視界の先で、ロイが可笑しそうに笑った。笑うロイの頭にも、気付かれないようにそっと花びらは舞い降りた。枝垂れた枝の下を潜って花の懐へ入ってくるロイのシャツが、ほんのり花の薄桃色に染まった。白い横顔も、いつもより血色が良く見える。ロイは少し屈んだまま進むと、俺の横へ腰を下ろした。太い幹に背を預け、首を仰のかせて梢を見上げる。
「豪華すぎて何だか…、浮ついた気分になる花だな」
素っ気ないコメントだが、飽きずに眺めている様子はまんざらでもなさそうだ。賢ぶった(実際賢いんだが)口調と子供っぽい表情のアンバランスさがこいつの可愛さなんだよな。俺は口許だけで笑い、一緒になって満天の花を見上げた。
「そりゃスカートの樹だからさ。潜り込んだら浮かれもするさ」
ロイの膝の上へ置かれた錬金術の本――金文字でアルケミーとか書いてあるから多分そう――にも、花の欠片が二枚三枚と積もった。ロイは腕を伸ばして、目の前を舞う花びらを掴まえようとした。その手を避けるように、花びらはすっと遠のいた。横から掴まえようとすれば、そりゃあ風が起きて逃げてくさ。こんな難しそうな本は理解する癖に、こいつは簡単なことが分からない。
躍起になって花びらを掴まえようとするロイの横で、俺は黙って手のひらを上へ向けた。ロイの指先から逃れた花びらが、舞い上がってから吸い込まれるみたいに、その手のなかへ着地した。
ロイは明らかにムッとしてから、その大人気ない表情を打ち消そうと、小さな口を引き結んだ。そして何事も無かったかのように分厚い本をひらいた。その頭の上には、さっきの花びらがまだちょこんと乗ったままだ。掴まえた花びらを、その横へ並べてやると、ロイは本に目を落としたまま、ぶるぶると首を振って髪を打ち払った。
その仕種に笑いそうになるのをこらえて、俺はロイの横顔を見た。
あーあ、こんな奴を残して行くのは嫌だな。
嫌だと思っても選択の余地は無いけれど。可笑しさが引くと、入れ替わりにじわりと湧き上がる苦さがあった。先日教官に呼ばれた俺は、もうすぐ前線に配置される旨、言い渡された。他の奴らよりも、こいつよりも、一足先に出発しなくてはならない。行き先は泥沼化してるイシュヴァール。なんとなくロイに言いそびれて、言おうと思ったときに限ってこいつが上機嫌だったりするから、今切り出すこともないかと先延ばしにしてもう一週間になる。
そういうわけでサヨナラだ。そう言ったらこいつはどんな顔するだろう。
俺がいないと朝も起きられない癖に。
着替えもせずに本に突っ伏して寝る癖に。
間違えてパンにケチャップをかけたりする癖に。
でも案外平気かも。「そうか、分かった」で終わるかもしれない。確かにこいつは目に余るほど抜けてるけど、日常生活にギリギリ支障は出ない程度だし。お節介がいなくなってほっとするかも。そう思うと言い淀んで悩んでる自分が馬鹿らしい。
そうは思えど結局言い出せず、俺は黙ったまま、ロイに倣って本を開いた。すると一ページも読まないうちに、ロイの方が口を開いた。
「…もうすぐ最後の年だな」
最後の年が意味するのは、前戦行き以外の何ものでもない。俺は「ああ」と頷いた。よし、ロイからそういう話題を出してくれるとは有難い。流れのままに「実は俺、ちょっと先に…」と言えばいいだろう。ほっとした俺は、少し話の寄り道をすることにした。
「でも、お前はどうなるかまだ分からないだろ?」
錬金術師は国の宝だ。そうやすやすと前線で危険な目にあわせる事も無いだろう。俺は、もしかするとロイは“最後の年”を免除されるかもしれないと思っていた。ロイの研究はまだ途中だったし、前線で消耗させるより、安全な場所で錬金術に没頭させる方が、国にとって有益じゃないかと。
ロイは俺の言葉に、いかにも心外そうに目を丸くした。そして、そんなことを言われるのは不本意だという風に、浅く眉が寄せた。
「俺は軍人だ。錬金術師である前に」
それはそうだが。ロイの高いプライドを些か傷つけてしまったようだ。俺は顎の下を掻いて、次の句を継ごうとした。しかし思い付けずにいる間に、ロイはコホンと改まった咳払いをして、まっすぐに俺を見て、言った。
「お前には世話になったから。前線に出たら守ってやる。安心していいぞ」
そう言うとロイは、やはり照れくさいのか頬を弛ませて笑った。
俺は突然、直感した。きっとロイにも何か言い渡されているんだろう。でもロイはその中身は口外を禁じられていて、とりあえず俺に、こう告げたくて此処へ…。本を読みに来たわけじゃなくて。最近上機嫌が続いたのも、俺に勘付かれないように?
「馬鹿言うな。お前に守られるほど弱くねえし」
ロイが、多分、多大な勇気を振り絞って告げてくれた誠実な言葉に、情けない俺は照れ隠しで応えた。
「遠慮するな」
「遠慮じゃない」
「射撃はそれほど得意じゃないが、錬金術なら」
「あんなもん戦場で使う気か、巻き込まれて余計死ぬ」
「これから精度を上げる」
「上がった頃に内戦終わってるから」
素直じゃないのは俺の方だ。「頼りにしてるぜ、ありがとう」ぐらい言ったらどうだ。自分自身の幼稚さにうんざりしながら、それでもいつも繰り返される他愛無い応酬は楽しくて。
もしかして、今、この一瞬が、俺の人生でいちばん幸せなのかもしれない。
いやいや、他にもっとあるだろ?例えば天使のように優しく悪魔のように美しい妻と結婚するときとか。その妻にそっくりな(俺にもほんの少しだけ似てるといい。顔の造作を崩さない程度に――例えば目の色だけ、とか)娘か息子が産まれたときとか。
慌てて他の可能性を探す俺の目の前で、薄桃色の花びらがくるりと宙を舞って、ロイの頬をひと撫でした。ロイはまるで無防備な顔で、くすぐったそうに目を細めて笑った。半分寝ている赤ん坊が、母親に頬を撫でられて自然に浮かべるような笑顔。俺は思わず手を伸ばした。
頬へ触れようとする指先を、ロイは微笑ったまま首を傾いでひらりと避けた。
想いが強い分だけ、口には出せない言葉を、俺も胸のうちで呟いた。
守ってやる。安心していいぞ。
さあ、前線へ行こう。
(2006.04.26)
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