俺はその翌日から精力的に仕事をこなした。乗っ取られ危機に怯えつつも、俺は中佐の手慣れた仕事ぶりに感心しっぱなしだった。大佐の裁決に必要な資料のピックアップ、過去の事例や例文、意見を仰ぐべき人物。揃える書類も適確で無駄がない。書類を提出しながらのやりとりひとつにも、細やかな気配りがあった。


かなわねえや。


悔しいけれど、そう認めざるをえなかった。そりゃセントラルで働いてたんだから資料の場所なんか俺より詳しいのは当然だろうが、俺がやってた仕事だって、何もかも俺よりよく分かってる。一週間はかかってた仕事を、二日で軽々と片付ける。これが中佐じゃなかったら、俺は身体を奪われたまま憤死してたかもしれない。

大佐は、俺の異様な手際の良さを、すこし離れた席からぽかんと口を開けて眺めていた。







ことん。
大佐の使っているペンが、木の床へ転がった。

その音に俺が書類から顔を上げると、大佐は背の高い椅子に凭れて居眠りしていた。中尉がいれば叩き起こされるだろうが、その日はあいにく他の奴らは出払っていた。


『大佐…』


中佐はそのやすらかな寝息に苦笑しながら席を立ち、マラカイトグリーンのペンを拾った。軸に金でひかえめに彫られた名前。名前の後ろへ刻まれた年号は、今から十年遡る。俺はこのペンの由来を知ってる。士官学校の成績上位者にのみ、卒業記念に贈られるものだ。俺が持ってるのは、ただの黒い軸。残念ながら栄光のマラカイトグリーンにはあとちょっとのとこで手が届かなかった。それでも記念品も貰えなかったハボの野郎よりゃマシだが。

こんなものを大佐が使ってるなんて、俺には少し意外だった。少し手に重くて、インクの出もあまり良くないから、そして何よりそんな記念品を使うなんて感傷的すぎると思ったから。俺はもうどこへやったかも憶えていない。


俺は…中佐はそのペンをしげしげと眺めた。それから少し仰向くようにして椅子で舟を漕いでいる大佐を見た。

疲れてるんだな。普通に仕事して、その後は会食に呼ばれたり、暇をみつけては例の釣りの算段を中尉とやってる。この人はしょっちゅうサボってるように見せて、中央にきてからは働き詰めだ。

そっと机の上へペンを置いて、俺はじっとその寝顔を見下ろした。


『……ロイ…』


俺にこんな優しい声が出るなんて。やめてやめて、もう本当に気色悪いからやめてくれ頼む。俺は自分の声音にいたたまれなくなった。


中佐の手が(いや、俺の手なんだが)、大佐の顔へかかった前髪を、静かにゆっくりとかきあげた。大佐の目の縁がその感触にぴくりと震えたが、穏やかな波のような手の繰り返しに、日なたの猫みたいに目尻を下げてうっとりと深い眠りにまかれていった。


『ったく…疲れちまって、まあ』


中佐にそんな気がないのは分かってるが、なんだかそんな風に言われると、俺達の力量不足で大佐が大変なんだと責められているようだ。しかし、中佐がそっと大佐の顔へ息がかかるほどに顔を近づけて、さらに唇まで寄せようとするのに、そんな悄気た気持ちも吹き飛んだ。


(ななな、何する気ですか、アンタ!!やめ…っ!)
『…いや、ちょっとだけ…』
(ちょっとも糞もねえっての、マジやめて!)


中佐は俺の必死の懇願を無視して、大佐の唇を指で撫でた。ああ、感じたくはないが他の皮膚よりちょっとぷよっとした感触がああああ。


『なんかお前の指、短くて太てえな』
(文句があんなら使っていただかなくて結構です、さっさと出てってくださいよ!)
『いや…まあ贅沢は言えねえよな。我慢しなきゃ』
(贅沢言って!我慢しないで!!)


中佐はまたしても不穏で優しい視線を大佐へそそいで、これっぽっちの逡巡もなく唇を重ねた。柔っ……、


(おご、ウ、ヌソエ、タ*▽、テ、「※〜〜!!!!)


『…うるせえなあ、お前』
(キモ、早、離れ、アンタもしかしていつもこんなこと)
『いつもじゃねえよ、まあ…なんだ、そんな雰囲気になったらっちゅーか』
(あんたがホモなのは構わんが、俺まで巻き込まんで下さいよ!)


俺が頭のなかでわめくのがうるさいのか、中佐は溜息をついて大佐から離れた。するとさすがに気付いたのか、大佐がとろんと目をあけて俺を見た。


「ヒュー…?」


信じたくはないが俺が、俺がキスした所為で唇が濡れていて、寝起きの眸は潤んでいて、でもそれは可愛いとかそういうんじゃなくて、ガキみてえだな、だらしねえって、俺はそう思うだけなのに!俺は自分の下半身が突然熱く反応するのに、気が遠くなった。この状態を四文字で表現するなら強制変態だ。

大佐はまたすうすうと寝付いてしまい、その無防備さがさらに中佐を(うん、決して俺じゃなくて)疼かせている模様。


(……それだけは、絶対止めて下さいよ、中佐……)
『………』
(なんとか言ってくれませんか、ねえ)
『………』
(まさか、俺の身体でこれ以上なにか)


中佐は大佐の肩に手を触れた。軍服の厚い生地の下になだらかな肩の線を感じる。いや、それは実際指が感じたというより、中佐の記憶だったのかもしれない。それだけで目眩がするぐらい指先が痺れた。


(…中佐…っ…)
『お前、軍に入る前に習ったろ?上官には絶対服従』


俺はヒューズ中佐のことをよく知らなかった。有能で、いつも鬱陶しいぐらいに明るく、絵に描いたようなマイホームパパで…。こんな私欲のために部下を踏み付けにするような鬼だとは。心で泣き濡れつつ、俺ははじめて真剣に神に祈った。俺を救ってくれた神に、俺の残りの人生を全て捧げます。助けてっ…ボイン神!!俺は女が好き…!!


「ブレダ少尉、車の整備終わりました」


俺の祈りは天に通じた。フュリーが車庫から帰ってきてくれた。 部屋へ入ってきた曹長を、中佐は「よ、お疲れ」とにっこり笑って労い……しかしその恐ろしい内心は、俺にはとうてい言い表わせない。


「―ん―…もう昼か…?」


我が身の危機には全く反応のなかった大佐が、フュリーの小さな声に、長閑に目を覚ました。








「…何かあったか?」


その日の昼。また例のレストランで食事をしていると、大佐が探りを入れるように訊ねてきた。中佐の演技の穴がついに露呈か?俺は期待に胸を高鳴らせ、中佐はぎくっとしながらそれでも顔にはまったく出さず、皿から目を上げてテーブルの向かいに座る大佐を見た。大佐は気にしないかもしれないし、中佐も好物かもしれないが、ここの料理は脂っこすぎる。出るのは俺の腹なんだから、頼むからもう少しセーブして貰いたい。本日のデザートが運ばれてくる。赤ワインのシロップに付けて氷らせた無花果だ。向かいの席の大佐が、銀の華奢なスプーンを慣れた手付きで握る。


『何かっつーと…何ですか?』
「いや、最近……、いや君は前から真面目なんだが、特に…」


グラスの水で唇を湿らせて、大佐は「特によくやってくれているから」と言った。確かに傍目からも差は歴然かもしれない。仕方ねえな。そうは思うが少し悔しい。シャクと薄氷を踏むような音がして、銀のスプーンが無花果を崩す。


「しかしな、以前のままで充分だ」
『は?』


まるで俺が言ったかのように、口が動いて聞き返した。一瞬、自分で物が言えるようになったかと思った。大佐は何と言おうかと考えながら、紅い果実が乗ったスプーンを口へ運ぶ。同じ色の唇がとろりと濡れる。目を奪われたのは、俺じゃなくてきっと中佐。うん、そうそう。


「手が早いのはいいことだが、最近ハボックの分も手伝ってやってるだろう?ハボックだけじゃない、他の奴のもだ。奴らは有り難がってるが、それでは査定のとき困るだろう。他の奴の仕事を奪わないことも仕事のうちだ。分かるか?」


分かる。でもあんたがそんなこと言うとは思わなかった。極端な能力主義者かと思ってたけど、そうでもねえんだ。正直驚いた。好きな味だったのか、思わず「美味しい」と呟いてから、大佐は自分の子供じみた独り言を恥じて、早口に「早く食べないと溶けるぞ」と俺を促した。


「各人への仕事量は、それぞれに合わせてきちんと考えている……つもりだ。それぞれがやりおおせてこそ、私も上へ報告できる。今の仕事量では物足りないか?」


俺が(中佐だけど)無花果を半分頬張ると、大佐は少し考えながらそう言った。俺は内心どきっとした。物足りません、もっと下さいなんて中佐が返事をしたら、それこそこの人、一生居座る気決定だ。そう思うと濃厚な果肉の甘さも薄れた。ああ、俺一体どうなっちまうの……。


「いいえ」


その言葉と同時に、自分の頬がやわらかく笑うのを感じた。


「ちょっとペース上げてみたんですけど、やっぱ最近疲れてきましたんで。
 お言葉通り、元へ戻します」


助かった。もっとホッとしていい筈なのに、胸の奥がちりりと痛んだ。なんだろう。きっとこれは中佐の寂しさ。大佐は「そうか」と微笑み、中佐も終始にこやかに、ゆっくりとデザートを味わった。







『あいつがあんなこと言うなんてなあ。思ったよりいい上司してんじゃねーか』


大佐を司令部へ送り届け、その車を玄関から車庫へ回しながら、中佐は窓をあけて風を入れた。風は助手席に踊って、視察先で受け取った分厚いファイルをめくる。そろそろ陽は傾いて、車庫に並ぶ黒いボンネットが照り返しに赤く染まっている。中佐は少し細めの隙間へ、実に適当な手付きでハンドルをきって車をケツから入れた。エンジン音が止んで、車体の震えが収まると、ぽつんと声がした。


『……つまり、俺が居ねえ世界に――』


鍵を引き抜いて、中佐は視線をフロントガラスの向こうへ投げた。広い道を挟んで司令部が見える。司令部の白い壁も、いまは夕陽に黄色く染められている。中佐の胸の内に、透明な寂しさがあった。優しいあかるい諦観のような。それが何だか辛くて、俺は自分の体のなかで縮こまっていた。


『俺は必要ねえってこった』


ちゃりん、と手のなかで鍵が鳴った。そんなことは無いです。大佐はきっと、いつだって中佐に戻ってきて欲しいはず。でもこの人は知ってしまった。この人の穴を必死に埋めて、前へ進もうとする大佐を。自分の欠落が、大佐を成長させたことを。それは、この人の不在に比べれば、ほんのちいさな光なのだけれど。中佐にはそれが、とてもとても大切なこと。

中佐はバックミラーを覗き込んだ。そこには当然、俺が映った。俺は眉を下げて、口角を渋くあげて笑った。中佐の笑い方だ。少し大袈裟な、シニカルな、でも何故か暖かい。


『手伝いたかったんだよなあ、あいつのこと』


俺達もアテにしてました。中佐ならきっと、この魑魅魍魎の巣を上手く泳ぐコツを教えてくれただろうに。俺達にも、大佐にも。


『中央に来たら、何だってしてやれるって思ってたのにな』


中佐は車の鍵をポケットへしまうと、助手席のファイルを片手に取った。いや、取ろうとしてシートに落としてしまった。自分の手や指と感覚が違うんだろう。苦笑して、今度は少し慎重にファイルを抱えた。


『何ひとつする前に死んじまったから』


聞かせる相手のいる独り言。なんで俺が聞いてるだろう。大佐が直接聞けばいいのに。いや、大佐がこんなこと聞いたらしばらく使いモンになんねえだろう。俺はようやく、この人が憑衣する相手を大佐でなく俺にした訳が分かった。マジでこの人、凄えエゴイストだな。大佐さえ凹まなきゃ何でもいいってどうよ。

ねえ、俺だってそんなしんみりされたら、そりゃ大佐ほどじゃなくても凹みますよ。ちったあ他の奴のことも考えてくださいよ。


『なーんか役に立てねえかと思ったけど。お前らがいれば充分だな』


中佐はちらっと、またバックミラーを見遣った。返事に窮すると、鏡に映った俺の眉間を親指でぐりぐりと押しながら、チビりそうな眼光で睨んで、ドスのきいた声で言った。


『…充分、だ・な?』


自分の顔にチビりそうになるなんて、テメエの顔がトラウマになったらどうすんだ。俺は光速で頷いた。首は動かせないから心の中で。中佐はいたく満足し、ニヤと細長い鏡のなかで笑った。





ばこんと癖のある扉を蹴り開けて外へ出ると、土埃までが夕陽に光って見えた。一歩ごとに地面に落ちた長い影が揺れる。遠く、司令部の廊下を歩く小さな影。俺の目には分からない。けれど中佐は、それが大佐だと分かるんだろう。ファイルを小脇に抱え直し、立ち止まると、片手でゆっくり敬礼を送った。そして、その姿が廊下の角を曲がるまで、見おさめるように黙って眺めた。やっと中央へ戻ってきた、待ちわびた親友の姿を。

どっかにからっぽの身体は無いだろうか。この人の魂が定着しても構わんような。俺は急に泣きたくなった。これは俺の感情。だって、中佐はもうとても静かな気持ちでいるから。俺の思考は恥ずかしいことに中佐に筒抜けだ。中佐は手を降ろすと、『ありがとな』と言って、ゆっくり俺の身体を解放した。四肢の感覚が戻ってくる。待ち望んでいた癖にやりきれない気分で、俺は指や手足をぴくりと動かしてみた。ファイルの重さを腕が感じ出す。


『ロイを頼むぜ……、あ、それと』


中佐はもう気配だけになって、夕陽だか土埃だか風だかに紛れていった。そして最後に戯けた声で余計なことを言った。


『キスぐらいもっと上手くできねーと。あんなガタガタじゃ笑われんぞ。
 いい娘見つけて、早く結婚しろよ』


どこかへ吸い上げられるその気配を追って、俺は慌てて爪先立った。


「ちょ…中佐、」


声が出る。俺は、はあっと息を吸い込んで叫んだ。


「んなこと言うなら、もう貸してやらんぜ、畜生!」


風がさっと流れて、さわさわと樹と陽光を揺らした。中佐が笑っているんだろう。司令部の向こうへ落ちる赤い夕陽を、俺は消えるまで見つめていた。








大佐はどこかへ報告をすませ、執務室へ戻ってきた。俺は持ってかえったファイルを広げ、自分の机で整理しはじめていた。大佐は自分の机へと向かいながら、俺の前で足を止めた。


「ひとつ聞きたいんだが、少尉」
「何です?」


大佐は少し考える顔をしてから、思い切るように訊いてきた。


「今日の昼前、私はなにか…寝言を言ったりしていたかな」


昼。夢。ああ、人生最大のエアポケット。思い当たって、俺は脳裏に流れそうになる回想シーンを必死で断ち切った。最悪だ。早く彼女をつくろう。可愛くて、優しくて、きっと、もっと唇だって柔らか……比較するな、思い出すな、忘れろ今すぐ。声が苦々しくならないように務めたが、素っ気無くなるのは仕方がないだろう。


「いいえ別に。いい夢でも見たんですか?」
「…いい夢?……いや、何も言っていないなら、いい」


ヒューズなんて言ってないから御安心を。なーんて言ってやりたい気もしたけど、何故か苛める気になんねえのは、まだちょっとどっかに中佐が残ってるんだろうか。やだやだ。俺は思わずちいさく舌打ちをした。聞き咎めた大佐は眉を寄せる。


「何だ」
「…いえ、何でもありません」
「なら報告書を出せ、明日中だぞ」


丸めた書類に頭をぽかりと叩かれながら、俺は自分の身体に感覚がある幸せに浸った。














(2005.08.15)