白昼の怪談

それは、俺達がイーストからセントラルへ移転して間もない頃。すこし広くなった部屋と机にようやく慣れ、箱に詰めたままだった書類も棚へ片付いて、引っ越しの慌ただしさも収まろうとしていた。俺が悪夢に魘されたのは、そんなある夜のこと。


俺の夢に、いきなりヒューズ准将があらわれた。

その夢はどうも普通じゃなかった。 ふわふわと布を通して差すような白い光があたりに満ちて、上下も分からない場所に俺は突っ立っていた。すると後ろからいきなり声がかかって、振り向けば見慣れた中佐の…いや准将…、いや、もうこの話のなかでは中佐で通させてもらおう。中佐の姿があった。中佐はいつも東方司令部へ来たときにするように、「よっ」と気安く片手を上げた。


「久し振りだな、ブレダ少尉。えーと、まだ少尉で良かったっけな?」
「ええ、残念ながら昇進はしておりません」


中佐は値踏みするような顔でじろじろと俺を頭の先から足の先まで眺めた。片手で顎髭を弄りながら。俺は居心地の悪さにそわそわしながら、中佐の指先とあたりを包む白い靄を交互に見た。ここはいったいどこなんだ。それに中佐がわざわざ俺に何の用……。

中佐は「うん」と一つ頷いて顔を上げ、にこやかに笑った。


「最近疲れてるだろ、少尉。俺も退屈してんだ。しばらく交代しねえか?」


は?中佐が笑顔で差し出す手に、なにか邪悪なものを感じ取った俺は思わず後ずさった。しかし、半歩後ろには底無しの奈落がぱっくり穴を開けていた。あげた悲鳴を置き去りに、俺の身体はひゅうっと暗闇へ吸い込まれた。全身の感覚が吹き飛ぶ。見上げると、はるか頭上の光から顔を覗かせ、「馬鹿だな…」と呟くのっぺらぼうが見えた。








唐突な覚醒。いつもなら目が覚めると同時に夢など忘れてしまうのに、その朝は目が覚めても動悸が胸に苦しいほどだった。額には汗をびっしょりかいている。ベッドへ横になったまま、もう白々と明るい窓の外を眺めるうちに、ようやく呼吸も鼓動も落ち着いてくる。


なんだってまた、中佐の夢を?


そういえば昨日、整理していた書類のなかに中佐のサインを見つけた。この人がまだ生きてれば、大佐も釣りなんぞ仕掛けずに済むのにとちらりと思ったのだ。でもそれはほんの一瞬で、すぐに放念したはずなのに。だいたい中佐とはサシで話したこともないし、あんなに顔や仕種を憶えてるとは自分のことながら意外だった…。


『酷えなあ』


急に聞こえた声に、俺は驚いてベッドから跳ね起きようとした。ようとした。なのに、身体は全くいうことを聞かない。これが噂に聞く金縛りというやつか。俺は身動きのとれないまま、部屋への闖入者を探して、わずかに言うことをきく目を部屋のあちこちへ走らせた。恐怖にひきつる俺を、声は面白がる。


『探したっていねえよ』


じゃあどうして声がする。いや、声がするのは。動いているのは俺の口だ。声だって俺の声だ。言う気のない台詞を、口が勝手にぽんぽんばらまく。乗っ取られた。今度は手が勝手に握って開いた。まるで新しい手袋の具合を確かめるように。これは夢の続きだろうか。夢は頬を抓ると覚めるというけれど、今の俺は頬さえ自分で抓れない。


『まあ、そんなに心配すんなって。悪いようにはしねえから』


悪いようにはしないってのは、悪役の台詞に決まってる!俺の心のなかの反論もどこ吹く風、俺を乗っ取った誰かはゆっくりとベッドから立ち上がった。誰か?そんなのは決まってる。混乱のなかの唯一の確信。俺は洗面所に立つと、しげしげと鏡を覗き込んだ。そしてやっぱり少し不満だという風に浅い溜息をついた。


『お前さん、年の割りに老けてんなあ』
(あんたにだけは言われたくないですよ!!ヒューズ中佐!)


心の声に、中佐はニヤと笑って答えた。


『今は准将』


鏡のなかの自分の顔。自分がこんな悪い顔ができることに、俺は自分で驚いた。








その日はいつもと同じ会議が朝からあった。俺はごく自然に振舞い、誰ひとりとして不審を抱くものはいなかった。誰もが俺を俺だと思っている。当たり前か。それにしても中佐はごく自然に俺を演じてみせた。書類を捲るときの癖、サインも俺の書いたものと瓜二つ。フュリーの連れて来た犬に、奇声を上げて机の上へ飛び乗りすらした。調査部の人間だけは敵に回すなって誰かに言われたけど、今まさにその怖さが身に沁みる。怖ええ。


そこへ、いつものように重役出勤の大佐が眠そうな顔であらわれた。


「何を騒いでるんだ。さっさと席につけ」


低血圧だから朝は機嫌が悪い。俺に犬をけしかけていたハボックの頭を丸めた書類で叩き、大佐は自分の席へついた。俺の目が大佐を映す。いつもと変わらない顔。いつもと同じ服。高い窓から差す光を背にして、革張りの椅子へゆったりと座るその姿。俺にはまったく何の感慨もない。ないのに、俺の目はそこへ張り付いて離れない。


「…ブレダ少尉?どうした」


机の上へ座ったままの俺を、大佐が訝しそうに見る。目が合う。すると、胸の奥がきゅうっと痺れる。そんな馬鹿な。感覚まで中佐に支配されてるのか?ていうか中佐、なんで大佐にきゅんとしてんですか。俺の状態はといえば…手足の出せない、二人羽織りの後ろのようだ。


「少尉、体調でも悪いのか」


返事をしない俺に、大佐の声が少し心配そうになる。中佐ははっと我に返り、『いえ、何でもありません』と答えると、机から降りて席へ戻った。

何でも無くねえ。俺を返してくれよ。出てって下さい、頼むから。
俺の切なる心の声は黙殺された。




昨日までの報告が終わると、大佐は街へ視察に出ると言い出した。いつもなら運転手はハボック少尉だが、未処理の報告書が山積みで出られそうにない。そういうときは大抵ホークアイ中尉の出番なのだが、気付けば何故か俺が挙手していた。その場にいた全員の、意外そうな視線が集中する。


『俺、今日は予定ないんで。よければ運転手します』


ホークアイ中尉がほっとしたような笑顔で「助かるわ、よろしく少尉」と言い、車の鍵を差し出した。そして俺に手渡しながら、大佐に聞こえるような小声で「昼の休憩は45分よ。昼寝も含んで」と厳しく言った。俺は笑って敬礼し、鍵の先についた輪を中指へ嵌めて、公用車の鍵をくるりと回した。大佐は何か言いたそうに中尉と俺を見たが、結局俺に「ついて来い」と短く言って部屋を出ていった。








「どういう風の吹き回しだ?」


大佐は後部座席にふんぞりかえって座り、窓の外を眺めながら訊いてきた。


『何がです?』


俺は…中佐は、ソツなく受け流し、緩いカーブに沿ってハンドルを切る。


「お前が運転を申し出るなんてはじめてだろう」
『そうでしたかね。他が忙しそうだったもんで』


俺と中佐の口調は、割と似てたのかもしれない。中佐はそう意識せずに「俺」になりおおせていた。俺の返事が腑に落ちないのか、唇を尖らせる大佐がバックミラーに映る。ガキみてえ。俺はケッと思っているのに、誰かは可愛いと思ってる。だって自分の顔が緩むのが分かる。後ろからは見えねえのをいいことに、鏡越しに大佐を見てばっかりだ。ねえ、俺ら「君子危うきに何とやら」を合言葉に、あんたらのこと深く考えなかったんですけど、やっぱりそういうアレなんですか。うわっ、ちょっと前見て、車来てるって…!俺の心の声は、中佐に届いてはいるらしい。慌てず騒がず憎たらしいほど冷静に、ハンドルが大きく右へ切られた。


二、三ケ所の巡察は滞りなく終わった。その後、大佐はむしろそれが目的なのか、うるさく道を指示して古城のようなレストランに車を止めさせた。こんなところで食事!45分で済むはずがない。俺は心のなかで頬をひくつかせたが、誰かさんの頬は緩みっぱなしだ。大佐はさっさと車を降りると、なだらかな石の階段を登っていった。俺は渋々、だが足は楽しげにその後を追う。








レストランは、俺みたいな下っ端軍人には目の毒レベルの豪華さだった。ハボの野郎、いつも嬉々として運転手を勤めるのは、こういう恩恵があったからか。張りのある白いシャツと黒いスーツに身をつつんだ行儀のいい給仕、手渡されるワイン色のメニュー。薄いブルーのテーブルクロスに、宝飾店に飾ってありそうな銀のカトラリー。大佐はともかく、俺は思いっきり場違いだ。まさかとは思うが自腹だったら即出ていこう。いこうと決意しても俺は動けないわけだが。するとまた勝手に口が開いた。


『あのー…大佐』
「なんだ」


眺めていたワインリストの上から、ひょいと目だけ覗かせて大佐は俺を見る。


『ここ、奢りですよね』
「払いたいなら払ってもいいが」
『いーえ。じゃあお言葉に甘えて存分に食います』


物を食う幽霊か。果たして味覚は俺にもあるんだろうか。現金なもので、奢りと分かった途端そんなことを思う。中佐は…俺は顎髭を弄りながらメニューを吟味し、俺が聞いたこともないような料理をぽんぽんと注文した。呆気にとられている大佐を見るのは、俺も中佐も少し爽快だった。ソムリエが俺の注文したメニューに合わせてワインを勧め、大佐は「それにしよう」と気押されるように頷いた。


テーブルにワインとオードブルが揃う。大佐はナイフとフォークを手にした俺をまじまじと眺めている。きっと似合わねえと思ってるんだろう。ちょっと注文のしかたも堂に入り過ぎてた。バレるか。いや、別にバレてもいい。むしろバレて欲しい。しかしバレたところで、この人は俺の身体から出ていってくれるだろうか。差し向いでじっと俺を見つめる黒い眸。この人と目が合うのなんかどうってことない筈だったのに、俺には後ろ暗いことなんかこれっぽっちもないのに、妙に落ち着かない。

そんな俺の動揺を知ってか知らずか、三品が綺麗に並べれられたオードブルの海老をフォークに刺して、大佐は俺を見据えたまま、少し声を落として呟いた。


「……ヒューズ…」


心臓が跳ね上がった。胸の芯が痛みに潰れそうだった。
これは俺の…いや中佐の感覚だよな?

顔に出ないはずはなかった。しかしそこへちょうど、次の皿が運ばれてきて短い沈黙を救った。俺よりも中佐が混乱していた。給仕が去ると、大佐は俺達の動揺を「どうした?」と笑ってワインに口をつけた。


「お前が注文した料理、ヒューズの好物だった。思い出してしまったな」


そう言ってから、大佐は少し慌てて湿っぽくならないようにと、「こうやって髭を弄る癖も似てるからな。憶えてるか、あいつ顎髭を触る癖があったろう」と明るく言って笑った。もうすっかり笑い飛ばせる昔話みたいに。俺も合わせて苦く笑った。思い出すもなにも、忘れてるときのほうが少ない癖に。胸の奥がじんと痺れた。なんで俺まで切なくなんなきゃいけねえんだ。


『憶えてます…』


中佐の返事に大佐は「そうか」とまた笑って、ソースを絡めた海老を口へ入れた。俺もそれに倣って海老を食った。旨い。味覚は共有のようだった。感情はどこまで共有なんだろう。胸はいつまでもチリチリと痛んだ。








たっぷり1時間半の食事の後、さらに数カ所の視察。仕事中の大佐は思うよりも真面目だった。行く先々で資料を読み、必要な箇所をすぐに探し当てて俺に書き写させた。ハボと二人でふらふらと出ていく姿はいかにもサボりそうなんだが、案外きちんと仕事もしてるようだ。中佐も久し振りに働くのが楽しいのか大佐の指示をてきぱきこなし、あっという間に助手席は書類で埋まった。




巡回を終えると、俺は車を中央司令部のガレージへ入れた。車庫から出てくると、先に歩いていた大佐の後へ小走りに追い掛ける。辺りを夕陽が赤く染めて、俺は前を行く大佐の髪が風に嬲られて揺れるのを見るともなしに見ていた。

俺には見慣れた、別に何ということのない黒髪なんだが、中佐にはそれすら愛おしくてならないらしい。光の加減で金色に透けたり青みを帯びるその髪を、いちいち綺麗だと思いながら見ているのが分かる……分かりたくないが。

ふと、大佐が足を止めて振り返った。


「お前があんなにナイフとフォークに慣れてるとは思わなかった」


そう、あれは慣れ過ぎだったな。いい加減にボロを出して欲しい俺は心で頷いた。大佐はそうは言うものの、怪んでいるというより意外な一面を発見したというような、面白がっている声で続けた。


「いつも手づかみでホットドックを食ってる奴とは思えん」


少しは返答に困って欲しいのに、中佐はいたってのんびりと答えた。


『叔母の旦那の弟が北方でレストランをやってまして…そう格式張った店じゃないんですが。一応は教えられました』


ちょ…。叔母の旦那の弟なんて顔も知らねえっての。
本人も知らないことを、だから調査部ってイヤ!!


大佐が納得した顔で、またくるりと背を向けて歩き出す。そして「たまにはお前と出るのもいいな。仕事が早い」と、この人にしては格別な労いをくれた。そして真直ぐ司令部へ歩いていく。


『曾祖父さんの上まで遡れるぜ?バッチリだろ』


中佐は大佐に聞こえないよう、声を殺して自慢げに訊いてくる。そこまで把握してるなんて、かえって不自然だって。中佐はまた、大佐の何となく頼りない後ろ姿や、夕陽が金の塵になってオーバースカートの上できらきらするのを、過ぎるほど優しい目で見ている。まさかこのまま完全に乗っ取られたりは…しないだろうか。俺は不安になって念を押してみる。



(しばらく交代っていう話でしたよね。しばらくっていつまでです?)



答えは、無かった。














つづく!(レントンの声で)(2005.07.31)