手のひら

老人の朝は、実にゆっくりと流れる。年を取れば取るほど早く起きてしまうので、隅から隅まで新聞を読むぐらいしか暇の潰しようが無い。

朝、いつものように新聞を開いた私は、紙面に踊る名を二度口にした。

ロイ・マスタング大佐が、ヒューズ准将殺害の容疑者であった逃亡中のマリア・ロスを処刑した――とある。


ロイ・マスタング。マスタング。ああ、そうだイシュヴァールの苛められっこか。

私はようやく思い出した。年を取ると人の顔を思い出すのも一仕事だわい。そう呟いて長い髭を手でしごくと、もう一度新聞にちいさく載せられた写真を見た。あれから七年、いや八年だろうか。彼はほとんど面変わりしていなかった。強いていえば、すこしふてぶてしい面構えになっただろうか?そりゃ大佐にもなれば顔つきも変わる。彼はあの頃、錬金術師の間にも軍人の間にも居場所が無く、いつもたったひとりで世界を相手に戦ってるような顔をしていた。そんな態度が、余計に彼のまわりから人を遠ざけた――ただひとり、殺されたマース・ヒューズを除いては。


彼がこんな娘っ子ひとり、生きて捕縛できない筈はあるまい。


どうしても仇を討ちたかったんだろうと私は思った。私刑だ。しかしそれを咎める気は全く起きない。むしろよくやったと褒めてやりたい。彼らは本当に仲が良かった。マース・ヒューズ。マスタングよりも若干大きく載せられた写真。こいつはマスタングのことになると、階級を気にせず上にずけずけと物を言った。あのときも。









それは前線から戻った錬金術師達が、仮設の食堂に集まって不味い飯を食っていたときのことだった。誰の顔にも疲労が深く、ただ黙々と皿の上を平らげる。ほとんど無傷でここまできた私達は、その日はじめて手強い反撃にあい、仲間を二人失った。

マスタングが入ってきたとき、誰もがちらりと顔を上げ、ほとんどが渋い顔のまままた皿に視線を落とした。その日は昼から雨になり、彼は従軍していたが「錬金術師」としては役に立たなかった。彼は入り口で投げられた視線に戸惑い、後ろから肩を押されて仕方なく食堂へ足を踏み入れた。肩を押したのは、彼の親友だった。


マスタング少佐は、少し特異な存在だった。
士官学校を優秀な成績で卒業した有望な人材。そして国家錬金術師。
とくに目をかけて引き立てる将軍も多かったから、同じ錬金術師からも妬みを受けた。そして術の不安定性。雨天は軍役を外される。勿論、銃は扱えるし術を使わずとも何らかの役には立つだろうが、そんな「誰でもできること」の為に彼が使われることは無かった。彼の「焔」は、その群を抜く威力で、上層部からも一目置かれ始めていたから。それがいよいよ彼を孤立させた。


聞こえよがしに誰かが「お姫様が来た」と言い、追随する口笛が吹かれて忍び笑いが漏れた。堅い表情のまま、彼は食事を受け取った。「随分働いたから腹が減ったろ」と嫌味を飛ばす奴がいたが、振り返ったヒューズ大尉に蔑すんだ目で睨み付けられると黙った。


さすがにこの雰囲気の中で食事をする気になれないのか、マスタングは受け取ったプレートを手に出口へ向かった。その手を、横から掴む男がいた。プレートを叩き落とす気か。やり過ぎだ。さすがに諌めようと私も立ち上がったが、男は手を掴んだまま唾を飛ばして絡みだした。


「白い手だなあ、マスタングさんよ」


その男は、今日死んだ仲間と仲が良かった。年の離れた、まだ少年のような錬金術師を、故郷に残してきた息子のように可愛がっていた。男が誰だか知れると、多少の八つ当たりも仕方ないと思うのか、咎める雰囲気は食堂から薄れた。拳が出れば仲裁に入るが、口喧嘩のうちは手は出さない。私はそう決めて、立ったまま見守った。それに口喧嘩なら――この中隊屈指の男が彼の味方だ。マスタング少佐の後ろには、缶詰を二つ受け取ったヒューズ大尉が居る。


「アンタさ、やる気ねえんじゃねえの?雨が降ったらハイおやすみでさ。
 みんなこうやって身体に刻んでよ、いつだって飛び出せるようにしてんだぜ」


みんな、というのは誇張だ。彼のように衣服に描く者や、装身具に刻む者もいる。身体に直接描く者は、汗や雨で消えてしまわないよう、皮膚の上に定着させる。痛みもなく、何より錬成陣を無くさない安心感から多くの錬金術師がこの手法を取るようになった。しかし、刻んでから誰もが気付く。安心感と引き換えに、罪悪感からも逃れられなくなったことに。――そう、私も。


「アンタにとっちゃ、俺達なんざ仲間でも何でもねえかもしれねえけどよ。
 嵌めてる間に死んじまう奴もいるんじゃねえかとか、そんなこと思わねえのかよ?」


彼の台詞は滅茶苦茶だった。酒も入っているんだろう、頬も首も赤い。しかしそのダミ声に、誰もが引き込まれていった。その場の多くが潜在的にマスタングを妬んでいた。彼が英雄に祭りあげられるのはまだ先だが、この頃からすでに特別扱いではあった。正体を無くして絡む男の言動で、自分の鬱憤を晴らしていた。その恥ずべき心理に私すらも飲み込まれかけたとき、面倒くさそうに缶詰を持ち替えたヒューズ大尉が、男の腕を片手で無造作に捻り上げた。男のひしゃげた悲鳴が上がり、脚を払われたか床へ転がった。大尉は男を見下ろして、気負いもなく吐き捨てた。


「ロイがいつお前らに遅れをとった」


例え酔っ払いでも、錬金術師は少佐扱いで階級は彼より上だ。しかし彼は至極当然なことをした顔で続けた。分かり切ったことを言うような、強くも弱くもない口ぶりで。


「そんなもんを身体に刻む必要なんざ無えよ」


食堂は彼の言葉にシンと静まった。大尉はその場を動かず、文句があれば浴びせるがいいといった風に食堂を見回した。静寂のあと、椅子から立ち上がったのは、背中と腕に目立つ錬成陣を彫り込んでいる男だ。侮辱されたと思うのか巨体から怒気をほとぼらせ、握った拳からは気の早い錬成光がパシと小さく走る。しかし、彼がヒューズ大尉に詰め寄る前に、破裂するような笑い声が響いた。


「アハハ、ごもっともです。これっぽっちも無いですよ」


笑い出したのは両手に陣を持つキンブリーだった。声は私のすぐ後ろから聞こえる。振り返れば、食堂の隅、壁に丸めた背で凭れ、身体を震わせて笑っている。その両手をズボンのポケットへ突っ込んで。


「錬成陣を我が身に刻むなんて、正気だったら誰もしない。そうでしょう?」


さも可笑しそうに身体をよじって笑うものだから、立ち上がった男も怒気を抜かれ、白けた顔でキンブリーを眺めた。さて、ここらで幕だろう。私は音高く手を二度叩き、「つまらぬことで揉めるな、明日も早い。各々テントへ戻って休め」と食堂に詰めていた皆を散らした。いつの間にかマスタングとヒューズも消えている。やれやれ。思わずふっと漏らした溜息を、まだ後ろにだらりと座っていたキンブリーに聞かれてしまう。キンブリーは笑いながら「あなたも苦労性だ」と言い、ポケットから引き出した両手を、強風に弱まる頼りない電灯へ翳した。彼の錬成陣はいたってシンプルだ。それは彼が優秀な術者であるという証でもある。それに比べ、この私の両手は――。ほろ苦い思いを噛み締めると、彼の楽しそうな声がした。


「戦争中に正気は無用ですが、戦争が終わったらどうでしょう。
 あなたは何も知らない家族にどう説明をするんでしょうね。
 『どうして錬成陣を身体に描いているの?』って訊かれたら」


息子達は知っている。しかし産まれ来る孫にもこう言えるだろうか。


「『素早く、いつでも、殺せるように』、だ」


キンブリーは私の答えを鼻で笑い、いつの間にか取り出したヤスリで爪を研ぎ始めた。









「じいちゃん!」


私の回想は、明るい孫の声に霧消した。 春から学校に通うようになった我が孫。息子譲りの金の髪と、息子の嫁に似た優しい面立ち。幼い頃はよく女の子と間違えられた。


「朝ごはんができたよ。ママが呼んできなさいって」


笑って頷くと新聞を畳んでテーブルへ戻し、床をコツンと義足で鳴らして立ち上がる。イシュヴァールで失った片脚は、今でもときどき疼くことがある。少しよろめくと、孫が走ってきて私を支えてくれる。小柄なのは私に似たんだろうか。胸のあたりで揺れる旋毛を見下ろして思う。要らぬことだけ遺伝してしまった、と。

柔らかい手が、私の皺だらけの手をつかむ。くっきりと刻み込まれた複雑な錬成陣が、ちいさな手のあいだからはみ出す。今では、外出するときは手袋をする。イシュヴァールからの帰還兵。それも錬金術師。この手が何をしてきたか、一目で見抜かれてしまうからだ。幾人殺せど戦場では英雄。しかし平和な街では、私の手を見て怯える人もいる。そんなものを身体に刻む必要はないといった、あの大尉の声が耳に甦る。


「…おじいの手、怖いか?」


孫はぶるぶると首を横へ振って、ちいさな手を我が手へ乗せたままくるりと見上げてきた。澄んだ大きな水色の瞳に、私の顔が映る。


「じいちゃんは、この手で僕らを守ってくれたって、パパが言ってた。
 すごい手なんだって。だからこわくないよ」


旋毛がまたくるりと俯いて、私の手の謎を解くように指が陣の上をなぞった。まだ舌足らずな声で、飛ばし飛ばしに間違った発音で文字を読む。その声には真実、敬意と憧れが篭っている。私は胸が詰まり、ねだられるままにもう片方の手も開いてみせた。すると不思議なことに、右手はあれほどつかえていたのに、左手の方はすらすらと読み始めたのだ。知るはずがない言葉まで。


「僕も錬金術師になりたいな」


この子には何がしかの才があるのかもしれない。親馬鹿ならぬ爺馬鹿でそう思っていると、中指の六芒星をなぞりながら、孫がそう言った。爺の気を引くための気紛れな言葉ではない。毅然とした決意の滲む声だった。そのときの私の気持ちを、どう言えばいいだろう。何より尊いものが孫に宿り、私の人生を深く肯定してくれたような……、お前の人生はこの地上に確かに種を撒いたと、孫の口を通じて神に宣げられたほどの感激で、この老いた身は浮き上がるようだった。


「錬金術師になって何をするかね」


込み上げる嬉しさが、押さえても問う声に出てしまう。私は隙なく紋が描かれた手で、孫の手を握った。私は我が術の後継者を得た。それもこんなに近くに。孫の答えは明解で、私は不覚にも涙ぐんだ。


「じいちゃんみたいに、僕も僕のママやパパや……友達とか、みんなを守るよ」


せめて零れぬようにと目をしばたく私を、孫は不思議そうに見上げて首を傾げた。己の為にと言う者に、術を伝えてはならない。それはずっと昔に、私が師と交した約束だ。


「じいちゃん、教えてくれる?」
「ああ」


私は早口に答え、幾度も頷いた。孫の顔は、ぱっと明るく輝いた。


「ああ、ならば明日から教えよう」






そのとき、半分開いた部屋の扉がノックされた。顔を上げると、戸口に立った息子が苦笑して私達を眺めていた。


「お父さん、あまり無茶させんで下さいよ。学校の方を疎かにしちゃいそうだ」
「錬金術師になるんなら、学校になんぞ行かんでもいい」
「わーい!」
「わーいじゃない!こいつは!」


息子に追い掛けられて逃げていく孫は、きっとキッチンで料理をしている嫁のエプロンのなかへ逃げ込むのだろう。私はバタバタと響く足音に笑みを漏らした。孫に我が術を残していける喜びが、改めて身体中にふつふつと湧いてくる。この銀の錬金術師の、全てをあの子へ継いでいこう。今日は街へ出て、入門に良い錬金術の書を買い求めよう。あの子は私よりも、ずっとシンプルで美しい錬成陣を作り出せるかもしれない。


私は久し振りに鞄を引っぱりだした。何冊も何冊も本を入れられるような大きなトランクを。専門書が数多く揃っている本屋は、この郊外の家から少し離れたセントラルにしかないが、今から行けばこの脚でも夜には帰って来られるだろう。


私は神に感謝の祈りを捧げ、朝食の香りが漂う食卓へ向かった。











出た途端にお亡くなりになったあの方へ…。(2005.07.27)