grace

「ロイくんと結婚する夢を見たわ」




グレイシアは淡いパープルのバスローブを羽織って、濡れた短い髪を拭きながら言った。夫なるマース・ヒューズは、夢のなかとはいえ、妻の不貞にいたく傷付いた。ふたりの可愛い娘は寝付いてしまったし、今夜は抱き合うのにちょうどいい寒さで、すっかりその心算だった夫はベッドの上で悄気てしまった。

美しい妻は、その光る髪の毛先を跳ね上げるようにして拭きながら、ベッドにちょこんと座っている愛しい夫へ流し目をくれた。グレイシアの唇は何も塗っていないときが一番綺麗だ、と夫は思った。すこし褪せた淡い薔薇の色。


「私とあなたが、結婚式を挙げているの。
 そこへロイくんがやってきて、私が投げたブーケを受け取るの」


それは夢じゃなくて、本当にあったことだと夫は思った。赤い薔薇を束ねた深紅のブーケ。受け取った小さな花束を、親友はあの後いったいどうしたろう。汗があらかた引いたらしい妻は、ローブの襟元をすこし緩めて、タオルで首筋を拭った。


「受け取ったとたん、ロイくんがわあわあ泣き出すの。
 それがあんまり可愛くて、私は胸にぎゅっと抱き締めてしまうの」


わあわあ泣き出すロイは、それは可愛かっただろう。わあわあ泣く?そんなの自分だって、一度しか見たことがない。夫が「それで?」と先を促すと、妻は細い背を向けて寝室を出ていき、水色の小瓶を手に戻ってきた。それは妻愛用のハーブ水で、舐めると仄かに甘い。家具にあまりこだわりのない妻が、珍しく買ってきたお気に入りの椅子。アンティークな木彫りの肘掛け。昔、どこの家にも一脚はあったようなそれに腰掛けると、妻はバスローブの腰紐を緩めた。




「そしたらあなたが、いつもの無神経さで『お前も早く結婚しろー』なんて言うの。
 やれやれと思っていたら、腕のなかでロイくんが、きっと顔を上げて
 『じゃあ、グレイシアと結婚する』って言い出すのよ」


可笑しいでしょうと妻は笑うけれど、さりげなく腐された夫は複雑だった。妻はハーブ水をぱしゃりと鳴らして、白い手のひらにふりまくと、その手よりも白い首筋にカモミールの香りを擦り込んだ。小首を傾けながら夫の仏頂面を見物する妻の、唇が可憐にほころぶ。妻は、踵を椅子へ乗せて片膝を抱えたので、ローブの裾がくたりと割れて、滑らかな脚が太腿まであらわれた。爪先やくるぶし、それから脹ら脛にも丁寧に、優しげな指先が瓶の水を叩き込んでいく。


「それでね、ロイくんは私の手をひいて、この家へ連れてくるの。
 うしろも見ないでずんずん、走るみたいに歩いてね。
 私達の後ろを、あなたが慌てて追い掛けてくるのよ」


くすくすと笑い出す妻はとても可愛らしく、そのうえ風呂上がりの肌は惜しげもなく晒されて、ハーブ水に含まれているらしい花の香りもたまらないのだけれど、夫の方としてはこの架空の不貞の顛末を、どうでも聞き届けなくてはならない。

きれいな膝を撫でた手が、ローブにささやかに隠れた脚の付け根までを濡らしていく。しっとりと潤った妻の脚は、窓から差す月の光を弾いて、それ自体が輝くようだ。




「家に入ってもロイくんはまだ悲しそうな顔をしてるから、私はまた抱き締めてあげるの。
 そうしたら扉を叩く音がして、あなたが私とロイくんの名前を呼んで
 『いったいどうなっちまってるんだよ!』って叫ぶの」


夢とはいえ、酷い話だと夫は思った。そして夢のなかの自分にいたく同情した。妻はもう一度首筋へやった手を、肩へすべらせてバスローブの肩をおとした。袷がひらいて、胸と鎖骨の砂丘が肌の上に影を落とす。妻の指はその柔らかさを楽しみ、胸を撓ませて螺旋を描いた。


「扉をどんどん叩いてね、あなたは泣きそうな声で叫ぶの。
 『わかった、二人の結婚は許す!その代わり、俺も一緒に暮らすからな!』って。
 私達は呆れ顔を見合わせてから笑ってね。一緒に扉を開けてあげるのよ」


間男に転落した夫は、恨めしげに妻を見た。もう腰紐にひっかかっているだけのバスローブは、妻が立ち上がるとほとんど意味のないものになる。妻はその裾をたくしあげ、そして最後の仕上げという風に、胸よりも丸い尻にも白い花の香りを擦り込んだ。娘を生んでから妻はほんのすこし豊満になったけれど、夫はもちろんその円熟した美しさを愛おしく思い、ほとんど崇拝していた。

瓶に蓋をすると、妻はその視線に呼ばれるように夫の前へ立った。 馥郁と、という言葉が何より似合う、ほとんど裸の妻を目の前にして、夫は自分が着ているパジャマがどうしようもなく不粋に思えて、でも慌てて脱ぐのも格好悪いし、だからってバスルームから出てずっと全裸でいるのも変態臭いし、とつまらない逡巡に溺れながら、ああ女っていうのは何をしても美しいものだなあと沁み入るように思った。






「冗談じゃねえぞ、そんな夢」


夫が手を伸ばすと、妻は腰掛けたままの夫の腿を跨いで、ベッドの上に膝で立つ。夫の目の先で、豊かな白い胸の下弦が揺れる。妻のしなやかな腕が夫の頭を抱くと、自然に夫の髭面は、この上なくたのしい手触りのなかへ埋もれた。


「あら、私は案外、それもいいかもって思ったわ」


案外いいと思ったのは、ロイとの結婚なのか、三人同居なのか。厳しく問いただすには、妻の胸は柔らかすぎた。夫はその温かくやさしい肌に耽溺しつつ、最後の意地で言い返した。


「俺と君が結婚しなきゃ、エリシアちゃんが産まれないじゃないか」


すると妻は、夫の旋毛の上でふふっと笑って腰を下ろし、ふたりの愛娘を産んだ温い淵を、寝衣ごしに夫の脚へ触れさせた。


「私とロイくんの間に産まれた娘だって、あなたはきっとエリシアと同じに可愛がるでしょう?」


そうか、それならあまり問題は無いのかもしれない。ロイには最高の妻、妻には自慢の親友。至高の組み合わせ。そして俺は愛する二人の家に居候。ロイなら他人の家庭に遠慮するだろうが、俺はさりげなく堂々と居座るような気がする。あつかましい俺、迷惑そうなロイ、笑って二人を取り持つ妻。そんな世界も楽しそうだ。それに、妻と親友の間に産まれる娘のほうが、遺伝子的にはもっと愛らしいかも……。


いや、そんな馬鹿な。
俺のエリシアちゃんより可愛い娘なんかいるものか。






首を振って馬鹿げた物思いを振り落とし、夫はようやく目線が並んだ妻の眸を覗き込むと、神妙な面持ちで言った。


「確かに楽しいかもしれねえが、ロイとグレイシアが結託して俺を苛める気がする」


妻は、その青い眸に悪戯な光を踊らせて、夢で思い付いた斬新な家族形態に自信ありげだ。


「あら、ちゃんと仲良く暮らせるわよ。きっと」


夫はやや俯いたまま、妻の額に自分の額を重ねて、子供のように駄々を捏ねた。


「俺も一緒にベッドで寝ていい?」


そう言うと、夫はするりと指がすべりそうな背中に手を回し、静かに妻を抱き締めた。男女が三人、同じベッドで絡まりあって眠るなんて、笑えるほど清清しくはないか?否、もしかするとこの上なく淫蕩なのか?妻の腕も、しなやかに夫の背へ回って引き寄せた。バスローブの紐の結び目が、お互いの腹に軽く食い込んで、お互いにそれを邪魔だと思った。夫の、妻よりはずいぶん大らかに動く手が、その結び目を解こうとする間に、妻は伸び上がって夫の耳殻へ耳打ちした。


「いいわよ、狭そうだけど」


妻は楽しそうにそう言い、夫の薄い耳朶を噛んだ。


「でも、絶対私が真ん中ね。あなたが真ん中じゃ、ちょっと調子が良すぎるわ」


笑いながら重ねた唇から、夫に妻の夢の断片が映った。
妻といっしょに扉をあけるときの、ロイの嬉しくてたまらないような笑顔。

調子のいい夫は、解いた腰紐を引き抜くと、「俺は寝相が悪いからなあ」と嘯いた。











(2005.07.20)