今夜、すべてのバーで

そのバーは、司令部に近いわりに軍人の姿は少ない。雑貨屋の横から、人ひとり通るのがやっとの細い階段を降りると、酒樽に似た扉が見えてくる。場所が分かりにくいから地元の人間でも知る人は少ない。嗅ぎ当てたのは調査部で培った嗅覚の賜物だ。扉を開ければウイスキー色の空間。ぼんやりと褪せた照明、古い板壁。ターンテーブルで回っているレコードは物憂いトランペット。

その日は仕事が長引いて、今から飯を作るのも面倒だと立ち寄った。このバーを気に入った理由の一つは、頼めばマスターが軽い食事も作ってくれることだ。マスターの料理はそこらのホテルのシェフ並みだ。表通りにレストランでも出せばもっと客が来るだろうに、なぜこんな場所にひっそりとバーを開いているのか?そんな謎が、酒を少し味わい深くする。


いつものカウンターに座って、一杯目とラビオリを頼んだ。料理が来るのを待ちながらアルコールで喉を温め、俺は週末に控えた人生の一大イベントに思いを巡らせる。日曜にはグレイシアのウエディングドレス姿が見れるのだ。来週から彼女の料理が毎日食える。となれば、このバーへ足を運ぶ頻度も落ちるだろう。そう思うと幾許の感傷が胸をよぎり、俺は水の入ったグラスにウイスキーグラスをあわせてカチンと鳴らした。独身最後のバーの夜に乾杯。


「めでたいことでもあったのか」


空席を挟んで三つ向こうのスツールから声が掛かった。聞き覚えのある嗄れ声に顔を向ければ、イシュヴァールじゃ随分世話になった軍医殿だ。思わず敬礼しかけると、「場違いだっての」と渋い顔で止められた。前線で別れてから一度も会っていない。以前より小さく見えるのは、背を丸めて座っているからだろうか。


「お久しぶりです」
「ああ。医者なんてもんは久し振りに会うぐらいがいい」


グラスを手に隣へと席を移すと、彼は俺の肩章を見て「出世しやがってガキが。配属は?」とやや声を潜めて訊いた。マスターからラビオリの皿を受けとりながら「軍法会議所です」と答えると、「おお、エリート」と戯けて言った。


彼は見慣れた白衣姿ではなく、よれたグレーのシャツに長いコートを羽織っていた。コートの色が煤けた板壁とよく似ていて、光の加減で溶け合う。器用そうにグラスを揺らす長い指だけが、医者らしいといえばらしく見えた。彼からは、なぜか前線にいるときよりも荒んだ雰囲気が漂っていた。


「軍医殿は病院に?」


元はたしか、セントラルの第一病院の外科医だったはずだ。しかし彼は、グラスのなかの琥珀色の細波を眺めて肩を竦めた。


「いや、あれからずっと軍に詰めてな。
 検死をやってる。死体専門のまんまだ」


過ぎるほどに饒舌な俺も、さすがに返す言葉に一瞬詰まった。彼はちびりとグラスの縁を舐めて「ラクだぜ、誤診のしようがねえ」と笑い、俺は曖昧に笑い返すしかなかった。彼の声音は自虐的だ。前線での彼は誰より冷静で、衛生兵にキビキビ指示を出す姿はそこらの士官よりずっと威厳があったのに。



何があったんだろう。どこまで訊いていいものか。俺は訝しみつつも冷える前にラビオリを食った。食い物の温かい匂いにふと思い出し、丁度いい話題転換を見つけた気分で明るく言った。


「俺、週末に結婚します。よかったら是非来て下さい。奥さんも一緒に」


彼の奥方は、いったいどこで見つけたんだと思うような美人だ。真っ白い肌と長い金髪。少女のような華奢な身体。儚く微笑む写真を見せられたとき、俺はうっかり「あんたこんなデカい娘がいるのか」と言って、血圧計で殴られた。

彼は頬杖をついて俺を見、「そっか、おめでとよ」と声を柔らげて祝ってくれた。それからグラスをテーブルへ置いて、何と言おうかと考えるように自分の眉を揉む。都合が悪いんだろうか。ラビオリから出てきたサーモンを口に入れると、思いもしなかった台詞が耳へ飛び込んできた。


「あいつとは、別れた」


俺は驚いて、ほとんど味わいもしないままサーモンを飲み込んだ。思わず咽せかける俺の背中を、彼は「あーあー」と苦笑して叩いてくれる。咳き込んでグラスを空けると、彼もまたグラスを両手で包んで、短い沈黙の後に語り出した。その横顔は何かを諦めるみたいに穏やかだった。


「俺が気味の悪い寝言を言うんだとよ」


彼が戦場で何を診てきたか、俺は知っている。数え切れない数のイシュヴァールの屍を、ひとつひとつ診て記録したのは彼だ。腕だけだろうが下顎だけだろうが、彼は緻密に記録を取った。若い助手は、運ばれてきた無惨な遺体に嘔吐した。彼は助手を殴りつけて言った。「テメエの親だと思え。そうすりゃ吐いたりしねえ」と。

物言わぬ遺体から、彼は錬金術がいかに戦場で有効であるかを導き出した。一度の錬成で、より多くを。最もいい成績をおさめたロイは、英雄に祭り上げられた。


「髪があるだの無いだの、歯は何本残ってるかだの、ってな。
 隣で寝てたら堪んねえらしい」


淡々と言って、彼はグラスを半分空けた。奥方の気持ちも分からないではないが、それではあんまり彼が救われない。そういうときこそ、彼の夢が安らかであるように、傍にいて悪夢を遠ざけてはやれないのか。戦場で、彼が大事そうに奥方の写真を手帳に挟むのを見たことがある。家族がいるものは大抵そうしていたけれど、写真をそっと撫でる横顔は、日頃見せない穏やかさに満ちていて――。

黙り込んだ俺を横目に見て、彼は自嘲混じりの苦笑を漏らした。


「何が堪んねえって、そう言う俺の声が素面過ぎんだとよ」


お早う、お休み。同じ声で、右大腿骨、肋骨三本。そりゃ気持ち悪いよな、と彼は苦笑した。彼の薄い唇は湿っていたが、吐き出す笑い声は乾いていた。 後ろのテーブルでだみ声の男が何か言うと突然笑い声が沸き起こって、彼の空笑いは掻き消された。


「そりゃ気味が悪いだろうよ。どんな風なんだか…女でも買って聞いてみるかね」


さて、と彼はスツールから滑るように降りて、「こいつの分も」とマスターに勘定を頼んだ。俺が慌てて断ろうとすると「安くて悪いが結婚祝いだ。式にゃ出られる気分じゃねえから、せめて。な」と言うので、甘えるしかなかった。男達の笑い声が鎮まり、代わりにトランペットのビブラートが低く響く。スローなテンポ。イシュヴァールの夜の風を思い出す。風のようにどこまでも俺達を追って来る戦場の狂気。

彼は釣を受け取ると、もう一度俺の背中を軽く叩いた。


「そんな神妙な顔すんな。悪かったな、新郎に辛気くさい話聞かせちまって」


俺は素直に「ごちそうさまです」と言い、空になったグラスを上げて目礼した。彼は片手を上げて扉へ向かいかけ、肩越しに振り返るとようやく彼らしい笑みを見せて忠告をくれた。


「お前も寝言には気をつけろよ」


「了解しました」と言うと、彼は目を細めシブい笑みを作って声を落とした。


「うっかりあの…クソガキの名前なんか呼ぶんじゃねえぞ」


ようやくアンタらしくなってきたのに、帰っちまうとは残念だぜ、ヤブ。俺は苦笑して、冷えたグラスを額に当て頷いてみせた。笑いに揺れる肩が扉を開けると、裾の擦り切れたコートが吹き込む風に捲れて、一瞬、血の痕がべったりとこびり着いて見えた。それは彼の過去なのか未来なのか。扉の向こうに彼は消え、後には蝶番の軋む音だけが残った。











(2005.07.06)