Save the Last Dance

アームストロング家といえば、セントラルはおろかアメストリスに広く知れ渡った名家だ。とくに有名なのはその邸宅で、地方からの観光ルートにもはいっているとかいないとか。「アームストロング城」と呼ばれている豪壮な屋敷だ。

その城で、小さなお姫さまの誕生日を祝う宴が毎年催される。戦場から戻ってきた私とヒューズに、金で箔押しされた招待状が舞いこんだのは、街路に新緑が透ける五月。






「……疲れた…」


もう何人と踊っただろう。私は慣れないステップで酷使した足を引きずって、裏庭へ逃げこんだ。陽はとっくに落ち、館から漏れた灯がよく手入れされた芝生の上へ伸びる。噪音は遠く、しんと静まって人の気配は無い。ワルツに飽和した耳を、静けさと噴水からあふれる水の音が洗ってくれる。渡る風や、葉のざわめき。蔦が這う噴水の縁に腰を下ろす。大理石の冷たさが心地いい。

シャンデリアと蝋燭のまばゆさに潰れた目が、夜の暗さに次第に慣れてくる。夜会服で来たほうがマシだったかもしれない。軍の正装はこの季節にはすこし暑苦しい。大広間の演奏が、石造りの高い天井に反響して微かに流れてくる。はじけるような若い女の笑い声。今夜、あの屋敷のなかには、多分セントラルで貴婦人と呼ばれるほとんどの女性がいることだろう。


少佐の父上は「今日は是非、このなかから奥方を見つけてもらいたい」と意気込みに髭を震わせ、次から次へと華やかに着飾った女性を紹介してくれた。

私の名を告げられた女性の反応は様々で、百面相を見ているようだった。こわごわと目を逸らす女、頓狂な声をあげて驚く女、頬を凍らせて無理に笑う女。それでも半分ぐらいは完璧な笑顔で「イシュヴァールの英雄にお会いできて光栄ですわ。一曲お相手願えませんか」と微笑んだ。女も子供も焼き尽くした手を嬉しそうに取れる女より、怯える女のほうが余程まともだ。私は蔑みを押し隠して、差し出された手の白い甲に口付けた。


私のダンスはようやく相手の裾を踏まないといったレベルだから、できれば踊らずに済ませたかったがそうもいかなかった。一曲おわるとまた違う女性が、天使のような微笑みを浮かべ有無を言わさず私の腕を取った。

シンプルだったワルツがだんだん装飾過多の厚ぼったい曲になり、なぜかそれに比例して女性の香水も強くなる。楽団の管楽器の金、燭台の銀、乱舞するドレスの色、白いデコルテに飾られる宝石。色彩と光の洪水。それがステップに合わせ、ぐるぐる旋回する。私はもうほとんど酔ったようになり、少佐の呼ぶ声を振り切って裏庭へ続く階段を駆け下りた。






私は急に空腹感を覚えた。そういえば踊ってばかりでシャンパンを一口飲んだだけだ。しかしあの光の輪へ戻れば、またしばらく出しては貰えまい。溜息をついて諦め、肩を落とすと、私が飛び出してきた扉から誰かが出てくるのが見えた。顔はほとんど逆光で見えないのに、どうでもそれはヒューズに違いなかった。

正装のヒューズはギャルソンのように片手にトレイを持ち、もう片手はポケットへ突っ込んでトントンと軽妙に階段をおりてきた。そしてあっさり私を見つけると、「よぉ、お疲れさん」と屈託なく笑い、芝生を踏んで歩いてくる。座ったままの私に給仕のような礼をして、大皿へすこしずつ盛った料理を目の前へ差し出した。

レモンのスライスがのった魚のマリネ。色とりどりの野菜に帆立貝を混ぜたサラダ。サフラン色のリゾット。海老のグリエ、チェリーのクラフティ。綺麗に盛り付けられたオープンサンド。

「救援物資、到着っと」

戯けた敬礼に笑って「ご苦労」と返礼し、素直に皿へ手を伸ばした。ヒューズは「主賓扱いだねえ、まるでお前さんの誕生日だ」と軽口を叩いて、隣へ座る。

「前髪、落ちてんぞ」

ヒューズの指が、髪の生え際を後ろへ流す。あれだけ回れば髪ぐらい乱れる。汗が冷えて少し寒い。手のひらが額に滲んだ汗をぬぐっていく。

「お前は踊らなかったのか」
「俺ぇ?俺は『踊れません』の逃げの一手よ」
「……ずるい」
「律儀に相手するからだ、格好つけやがって」

たいして踊れもしねえのに、と余計な一言を付け加えるから、私はリゾットを掬ったスプーンをくわえながら軍靴の先を蹴った。予期したヒューズはひらっと足を浮かせて逃げた。



海老にかかっていたソースには色とりどりのパプリカが刻み混まれている。どの料理もまだ温かい。先月の今頃は、味付けといえば塩だった。あまりの隔たりに、自分が今どこにいるのか一瞬見失ってしまう。戦場とはまったく違う日常。ここは物が多すぎる。すべてが明るすぎる。血の痕も硝煙の匂いもない。木を隠すには森。殺戮者を隠すには戦場?自分はここへ戻ってきてよかったんだろうか。還りたいと願った場所はここだっただろうか。地に足がつかないような、軽い疎外感。

ぼんやりしてしまった私を「どうかしたか?」とヒューズの淡い色の目が覗き込む。私は取り繕うように喋り出す。


「おかしなものだな」


私達が戦争までして守った国は、こんなに暢気で豊かだ。戦前も戦後も何ひとつ変わらない。


「戻ってきてからのほうが、どこかだるいんだ」


辺境で慎ましく暮らしていた民族に、国家を危うくするほどの脅威があったとは思えない。私達が血を流し犠牲を出して、勝ち取ってきた物は何なんだろう。錬金術を軍事にどれだけ転用できるかというデータ?たったそれだけのために、7年にも及ぶ戦争を?


「…前線に居るほうが、余計なことを考えないのかもな」


ヒューズは私を横目に見ながら、ローストビーフが乗ったオープンサンドイッチにかぶりついた。パプリカを刻んだ白いソースが指まで滴る。

「ほうか?」

サンドイッチを頬張った男は、間延びした声でそう言うと、ソースの付いた指を舐めた。ヒューズにはもう、戦場は過去なんだろうか。ようやく離れられたというのに、私の心はまだ前線を彷ったままだ。気持ちが、いつまでも“普通の”日常に馴染まないのだ。街の豊かさをみるたび、何も無かった沙漠を思い出す。すれ違う仲のいい親子を見るたび、この手で奪った日常を思う。二律背反。油と水。

「俺はこっちのほうがずっといいけどな。ほら、旨いモンもいっぱいあるし」
「単純な男だな」

でも私には。前線でお前と分け合った缶詰の方が、ずっと旨かった。
私達はしばらく黙って、プレートの上を平らげていった。







ふっと、屋敷から漏れていた灯が弱められた。シャンデリアが消えて蝋燭だけが灯り、大窓は金色の薄靄になる。朗らかなワルツが消え、弦楽器が抒情的な調べを奏ではじめた。スローなテンポに合わせて、踊る影もゆっくりと揺れる。

「お前さんが居なくて、ガッカリしてるのもいるんじゃねえの」
「踊りたいなら行ってこい。俺はもう充分だ」

やなこったと笑って、ヒューズはソースやらオイルが付いた手を噴水に突っ込んで洗った。正装だけ見てればいっぱしの軍人だが、中身はガキだ。演奏の途切れた広間が静まり、次に拍手が湧き起こった。ポロン、と少したどたどしいピアノの独奏がはじまる。キャスリン嬢の弾くワルツ。ときどきつっかえながらも一生懸命に弾いているのが微笑ましい。

「ああ、これ」

ヒューズが、流れてくるメロディーを口ずさむ。タ、ララ、ラン。タ、ララ、ラン、ラン。誰もが知っているスタンダードな名曲だ。

「俺、これは知ってるな」
「これだけは、だろう」

機嫌のいいハミングに水を差してやると、片手を掴まれた。水に濡れた指が冷たい。私はてっきり、そのまま「戻ろう」と広間へ引っ張っていくんだと思った。まさかヒューズが


「一曲、お相手していただけませんか」


なんて言い出すとは夢にも思わないじゃないか。 すぐふきだすかと思ったのに、ヒューズはいつまでも真顔で、私は唖然としたままだった。


弦楽器が少しずつ、ピアノの旋律に絡みだす。広間でもまた、踊る影が揺れはじめる。酔狂に付き合う気になったのは、さっき私のダンスを腐してくれたこいつが、果たしてどれほど踊れるか見てやりたくなったからだ。それからもうひとつ意地悪を思い付いて片頬で笑い、「お前が女役だぞ」と言ってやった。

ヒューズは握ったままの私の手に、恭しくキスをした。それから、薄い唇を押し当てたまま上目遣いに私を見て「ご自由に」と嘯き、私なんかの数倍は人が悪そうな顔で笑った。




立って向かい合い、改めて手を握ると、今更気恥ずかしさが湧いてきた。どこを見ていいかわからずヒューズの肩章を数えていると、「パートナーの顔を見る」と言って顎を掴んで上げさせられた。そんなだから、最初のステップが少し遅れた。足がもたつき、すぐにヒューズのペースになった。

「ちゃんと音を聴けよ。1、2、3…」

ヒューズの一歩は大きく、私はなかなか追いつけなくて焦った。リードするどころか相手の腕へぶらさがるような具合でステップを追った。気紛れなターンに、肩から下がる飾緒が揺れる。それはどんなイヤリングより目を引いた。コートの裾が靡き、次のステップで払われる。女性とちまちま踊るのとは違う。大雑把だが心地よい、大きな流れに動かされる。長い腕、余裕のあるリード。柔らかい肘の動き。

残念ながら、笑ってやれるほど下手じゃない。いつもどこか大儀そうに見える男だが、背筋を伸ばすとそれなりに見える。正装の所為で三割増しだ。まごついていた足がようやく揃い出すと、繋いだままの手を上へ引っ張りあげられる。そのアーチをうっかりくぐってから、「お前が女役だと言った!」と噛み付くと、くるりと腕を旋回させてまた私を回す。目の前を、必死で笑いを噛み殺している顔が右から左へ流れる。睨めば「そう、パートナーの顔を見る」と褒められた。


ピアノをヴァイオリンが追いかける。ターンのたびに軸がずれて、ヒューズの手が私の腰の位置をなおす。目の端に薔薇の昏い赤が掠めた。階段の脇に植え込まれたローズマダー。空には錐で闇を突いたような星。ゆったりと世界がまわる。影灯籠。オルゴールの櫛歯。指先からながれこむ体温。巡回する輪。かすかに浮き上がるような酩酊。





「ローイ……、あの…、曲、終わった」


ぼそっと言われて、慌てて足を止めた。「踊りにくい、下手くそ」と毒づくと、「そりゃ失礼」と軽く受け流される。キャスリン嬢への拍手が聞こえてくる。演奏が止み、しばらくするとバルコニーの窓が、続いて裏庭に面する大窓が開けはなされた。招待客は思い思いの相手と語らいながら広間の人いきれから抜け出す。また皎々と灯が点り、屋敷ごと大きなシャンデリアのようだ。


「さっきの話だけどな…」


振り向くと、ヒューズは眩しそうに目を細めて、広間から出てくる夜会服やドレスのさざめきを眺めていた。グラスを手に階段を降りてくるカップル、バルコニーで笑い声をあげる女達。踊りつかれたのか誰もがすこし気怠げで、そのくせまだまだ貪欲に夜を愉しもうとしていた。


「俺もまだ、なんか慣れねえよ。こっちの方が嘘臭いと思っちまう。
 でも俺はここの方がいい」


それはきっと、誰だってそうなんだろう。私ももう少し経てば、この頽廃的なまでに豪華な宴を愉しむようになる。私はふと、まだ預けたままの手に気付いて、そっと引いた。するりと手のうちから抜け出した中指の先を、ヒューズの指が掴んだ。思わず見上げると、とらえどころのない色の眸が細まって、抑えた低い声が耳を打った。



「ここは誰も、お前を殺しに来ねえから」



口をひらいたまま何を言うのか忘れてしまう。私の指を一瞬、その親指の爪が噛んで放した。淡い笑みを浮かべた顔は、すこし照れくさそうだ。もっと恥ずかしいことを平気で言う癖に。こっちまで恥ずかしくなる、馬鹿め。


そうだ私だって。もうお前を失わなくていい。ワルツのように日々を繰り返し、私達は成すべきことを成して、年を重ね、ゆっくりと死ねるのだ。




「…お前は本当に、単純な男だな」


ようやくそれだけを言うと、背を向けてさっさと離れた。


「お、戻んのか?」


うるさそうに肩をそびやかせたが、ヒューズは気にせず半歩後ろをついてくる。芝生を踏む軽い音。重なる二つの足音のなかに、耳が勝手に三拍子を拾うから、屋敷へと歩きながら少し笑った。このおせっかいな足音が、ずっと私の傍にあればいい。


屋根の向こうから花火が三発打ち上がり、夜を一瞬、真昼のように照らした。

















(2005.05.08)