赤い月

陽が落ちると、沙漠は急に冷え込む。私達の中隊は、数日前陥としたイシュヴァールの村で休止することになった。夕方に降った雨のせいで、地面は湿っていた。

前進、捜索、包囲、攻撃。単純な繰り返しに機械的に従う日々。命令の終わりには宿営地での休憩がある。崩れた壁に凭れてあぐらを組む者。荷物から寝袋を出してだるそうに入り込む者。放心して夜空を見上げる者。号令から解放された兵は、てんでばらばらに散らばって休息をとる。


軍靴の底に、赤粘土がへばりつく。この大地はどこもこうだ。雨を含めば酷くぬかるむ。歩兵を少しでも消耗させようというイシュヴァールの神の思し召しだろうか。

私は部隊から少し離れ、崩れた壁の上へ腰を下ろした。イシュヴァール人は撤退する際に地雷を埋めていくことがある。座る場所にも、些か用心する。重い無線機をようやく下ろして喘ぐ通信兵。ねぎらうようにその頭を撫でるヒューズ。遠いシルエットだけれど、通話を始める声でやっぱりヒューズだと思う。


「クイーン35、こちらラビット30。現在位置、グリッド7683342…」


少し割れたヒューズの声は、喋っているうちにいつもの滑らかさに戻った。私はほっとして目を閉じる。目を閉じると途端に五感が冴える。シャツの下を冷えた汗が流れていく。耳の奥がキンと鳴る。ヒューズの声もざわめきごと遠くなる。

深く息を吐いて、目を開くとそこには小さな女の子が二人いた。黒い布を身に纏い、その姿はひっそりと瓦礫の影に溶け込んでいた。褐色の顔と赤い目だけが私をひたと見据えていた。

イシュヴァールの生き残りだ。私は思わず銃を掴んだ。呆れたことに反射に近い早さで、私は銃口を子供達に向けた。距離は10Mも無い。


「そこに座らないで」


女の子は、銃に怯えずに口を開いた。その声はとても可愛らしい。鈴を転がすようとはこんな声のことだろう。子供相手に私は何をしているのか。ようやく自分を恥じて銃の狙いを外す。それでも銃を下ろさないのは、その幼い手がマントの下で、手榴弾を握っていないとは限らないからだ。


「そう、座らないで」


姉なのか妹なのか。二人の面差しは良く似ている。この石壁は、彼女たちの家の一部だったんだろうか。私は思わず腰を浮かす。姉妹は顔を見合わせ、嬉しそうに笑み交す。


「ありがとう、お兄ちゃん」
「お願い、お水をちょうだい」


水筒は持っていなかった。いや、それよりこの子たちをどうすべきなんだろう。捕虜として拘束するか?しかしこの地区に下された命は「殲滅」であり、捕虜の処遇などは一切考えられていない。私が迷っていると、二人はまた目くばせ合い、それからちいさい方の娘が首を傾げて訊いてきた。


「お兄ちゃん、わたしたちをころす?」


舌足らずな声でこんな風に聞かれて、頷ける人間がいるだろうか。自問して苦笑した。私はまだ人間か?この街をここまで焼いたのは、他ならぬ私だというのに。殺戮に倦んでいた私は、首をゆっくりと横に振った。自分がまだ、兵器になりきっていないというささやかな証に。


「じゃあ、そのコートをちょうだい」


姉らしい少女は次から次に要求をする。まるでそれが当然の権利であるかのように。私は少し躊躇ってから、ゆっくりと軍から支給されたコートを脱いだ。どうせもうボロボロだったし、これぐらいいいだろう。少女達の纏っている服は、土の中から掘り出したかのように泥まみれだった。少しはこっちのほうがマシだ。コートを手に、一歩前へ出る。また一歩。受け取ろうと手を伸ばした女の子へ、コートを握った手を伸ばしてもう一歩踏み出そうとしたとき。




いきなり強い力が私の胴に絡み付いて、後ろへ引き戻した。その勢いに身体が浮き上がる。私は何がどうなったのか分からず、次の瞬間には誰かを下敷きにして、また石壁の上へ仰向けに倒れた。天地が揺らぎ、赤い月と降るような星をたたえた夜空が視界いっぱいに広がる。


「…ッ…痛ー…」
「…、ヒューズ」


自分が敷いているのはヒューズだった。私は驚き、その上から身体をずらして膝をつく。

「どうしたんだ、お前」

唖然とした私を、ヒューズは押し殺した声で叱りつけた。

「どうしたは俺の台詞だっつーの、眼がイカれたか?!」

ヒューズが顎でしゃくる先には、地表から三本の突起がとびだしていた。「バウンジング」と私達が呼んでいる跳ね上がり式の地雷の足だ。薄闇にまぎれてはいるが、注意すれば見逃すはずのない大きさのトラップだった。

すっと血の気が引いた。地雷の向こう、瓦礫の闇。姉妹はまだそこに居て、ニヤニヤと笑っていた。それはあどけない微笑みではなく、敵意と蔑視の混じった禍々しい笑みだった。騙されるところだったのだ。私はちいさく、ヒューズの名を呼んだ。「イシュヴァール人が…」そこにいる、と指し示す先で、妹らしき方がまた悲しそうな顔をして、言った。姉は薄笑いを浮かべたまま、ゆっくりとその後に続ける。


「そこに座らないで」
「そこはわたしたちのお墓だから」


そう言い残すと、二人の姿はかき消えた。






「おい、ロイ?」


塀の上へ座り込み、洞を見詰めたまま言葉を失くす私の頬を、ヒューズが軽くはたいた。


「なぁんも、居やしねえぞ、ロイ?腹でも空き過ぎたか?」


ヒューズは小声でそう言うと、訝しげに私の顔を覗いて少し辛そうに笑った。私が疲弊して、幻を見たと思ったのだ。いや、その通りかもしれない。ヒューズを安心させたくて、頬に力を入れて笑おうとした。上手く笑えない頬を、ヒューズは手荒くわしわしと撫でた。そして少し聞こえよがしに「泥でがちがちだな、新しいのを貰ってこよう」と言って、私の手からコートを取った。

戦場で気がふれた錬金術師は、すぐに姿を消す。

そんな噂を、私ですら知っているのに、ヒューズが知らない訳はなかった。今もどこかでだれかが、私の一挙一動を見張っていないとも限らないのだ。ひやりとした。ヒューズは私の妙な動作をごまかそうとしていた。私からコートを奪うと、自分のコートを脱いで何かから隠すように私を包んだ。

「早く着替えなきゃな。肺炎になっちまう」

私の手を引いて、ヒューズはさっさとその場を離れようとする。連れられて歩きながら、もういちどあの姉妹がいた瓦礫の影を振り返った。もうそこには何の気配も無い。私は少しおかしくなっていたんだろうか。それともあれは、本物の幽霊なんだろうか。この壁の下には、あの姉妹が。

「…ヒューズ」
「ん?」
「…この下に、死体があったらどうする?」

微かな声で訊くと、ヒューズはいとも容易く返事を寄越した。

「どうもしねえ」

どうしようもねえ。とほんの少しニュアンスを変えて言い直し、ヒューズは足下に注意しながら倒れた石壁から地面に降りた。

「怖くないか?」

一歩遅れて続きながらそう言うと、月光を滲ませた淡い蜜色の眸が振り向く。そして静かに、笑みの形に細められた。

「怖えーって思うこともあるけど」

ヒューズは少し目を伏せるようにして、私の顔をじっと見た。赤い月は、その背に隠れる。節の目立つ長い指が、顔の上にそっと翳されてそれから目許を覆った。その所作は花弁を摘むように、ゆっくりとしてやわらかだった。


「すげえ精神安定剤があっから大丈夫」


これ、と。ヒューズの掌は目蓋を撫でて頬へ下り、その丸みを包んでむにむにと揉んだ。いつもなら叩き落とすところだが、その手の熱が膚にじわりと沁みるのに黙って俯いた。引き剥がす力もなく、ヒューズの手首にかけた手は、そのまま相手の腕をすべって胸へ触れた。軍服の、張りのある厚いサージ越しに感じる微かな体温。私の危ういバランスを保つための甘い麻酔。



ヒューズのもう片方の手が、私のもう片手を手袋の錬成陣ごと無造作に掴んだ。雨に濡れた手袋は凍りはじめていた。かじかんだ手から手袋を器用に脱がせると、ヒューズは「冷てえ」と笑って両手で包み、静かに息を吹き掛けた。この暖かさが傍にある限り、悪夢は私を壊さないだろう。私はようやく笑い返した。

















品川さんにいただいた絵にお話をつけたつもりが陰気になってすいません…。(2005.04.12)