地平より遠く

セントラルに戻ってきた私は、その足で大佐に感謝を伝えたかった。しかし、軍の内部に何がどこまで根を張っているか分からない現状を思えば、前のような偶然を待つしかなかった。

それから数日。待ちわびた偶然は、思ったより早く訪れた。

月が真上へ掛かる頃、休暇中に溜まった書類を片付け終わった私は、司令部を出ようと正面玄関脇にある車止めへ向かった。夜に入ってから降り出した雨が、霧のように細かく辺を煙らせている。まだ寒いが、どこか春を予感させる小糠雨だ。


「…アームストロング少佐」


先に車止めに立っていたのは大佐だった。私は慌てて傘を差し出した。振り返った彼の髪がしんなりと濡れて見えたから。大佐は笑って「もう霧のようなものだ。構わんよ」と差し掛ける手を押し戻そうとした。が、私の手がびくとも動かないのに苦笑して、大人しく傘の下へ入ってくれた。

夜も遅すぎるのか、いつもは数台止まっている車がなかなか来ない。

「雨をやり過ごしてから帰ろうと思ったが、失敗だったかな」

大佐の家は、司令部からそう遠くない。歩きましょうか?御自宅までお送りします。と言うと、彼は濡れた前髪を指で引いて、少し考えてから頷いた。

「男同士の相合い傘も、たまにはよかろう」

と。




司令部を出るまでは他愛のない話。長い直線の大通りに入ってしばらくすると、大佐の方からぽつりと訊いてきた。

「休暇は、どうだったかね?」

私はなるべく、声が浮き立つのを抑えて「仰った通り、いい土地でした」とだけ言った。ハイマンス・ブレダ少尉から事の顛末はすでに報告を受けているだろう。私はただ、感謝を伝えればいいだけだった。「お教えいただき、ありがとうございました」

私の目線からは、大佐の表情は見えない。ただ黒い旋毛がこくりと一度頷いた。その仕種が何とはなく可愛らしくて、感謝固めで抱き締めたいのをぐっとこらえた。


「綺麗な女性が多いだろう。私も、良くしてくれた皆にもう一度会いたいものだが」


ロス少尉のことを言っているとは思うのだが、東部にいた頃に彼が付き合っていた女性のことを言っているような気もして、私は曖昧に頷いた。ロス少尉を彼の地から呼び戻すには、彼が全権を握ること、少なくとも叛旗を翻すことが条件になる。それはとても遠い、長く嶮しい道に思える。


「…とおくへ離れて」


物思いに耽って黙りこんだ私を、大佐がちらりと肩ごしに見上げ、微かに笑んで言った。長い前髪が、雨を含んで常より長く目許に張り付いている。


「二度と会えない。というのは、死に別れたのと同じかな。少佐」


ブロッシュ軍曹のことを言っているのだろうか。靄のような雨につつまれて、頭のなかも妙に鈍い。私は少し慌てて「いいえ」と断言した。彼が自分を責めたりしないように。


「いいえ、生きてさえいれば、どこかで巡り会うことが必ずあります。
 もし、無かったとしても、そう思い続けられる…希望があるだけでも、死に別れるよりずっと幸せです」


大佐はただ黙って私の言葉を聞くと、また前を向いて歩き出した。それからもう一度、自分を納得させるように頷いた。

「そうだな」

霧雨の所為で、声はくぐもって聞こえた。

「死なずにいれば、会える日も来る」




佐官の邸宅があつまる閑静な住宅街。そのなかの一軒で彼は足を止めた。門の前で傘から出ると礼を言い、背を向けて前庭を玄関まで真直ぐに歩いていく。

一人暮らしには大きすぎる家。家の窓からは、彼が入ってからもずっと灯が漏れなかった。月灯りのなか寝室に辿り着き、ベッドに倒れ込むのだろう。ちゃんと髪を拭かなければ風邪をひいてしまうのに。かいがいしく彼の世話を焼いた親友も、今はいない。イシュヴァールのテントで、兵舎で、火の粉に焦げたコートと赤土の泥にまみれた軍靴を、仕方ないように笑いながら脱がせた中佐も、今は。

彼がいれば。私は何度そう思っただろう。彼さえいれば、大佐の歩く道もこれほど困難では無かったのに。


そう思いが至って、私は突然、先刻吐いた台詞が酷く残酷だったことに気付いた。
「死に別れるよりずっと幸せ」だと。
大佐がいつの日かこの国の頂点に立っても、ロス少尉は戻ってこれるが、彼の友人は永遠に帰ってはこないのだ。
クセルクセスよりも、シンよりも遠い地から永遠に。



私は己の無神経さと鈍さが許せず、怒りにも似た感情に突き動かされて、その家の扉を激しく叩いた。みしりと一枚板が撓む音がした。

「…何だね、少佐。壊れるだろう」

渋々出てきた大佐の、前髪はまだ濡れたままで。
私はたまらなくなって、無礼を承知で軍服の上とシャツを脱ぐと、その髪を思いきりわしわしと拭いた。

「痛い、痛い少佐、何なんだ、君…、急に」

肘を突っ張って逃れようとする彼を、引き戻して膝をついた。
大佐は少し、唖然として私を見下ろした。私のシャツを頭へ乗せたまま。

「風邪を…ッ、ひかれると困ります、なので…」

見下ろす黒い瞳が、見開いてから優しく細まった。

「我輩、髪を拭きに…戻りました…」


短い沈黙のあと、大佐は部屋へ戻っていった。
その背中に声を掛けかねていると、廊下の先の部屋にようやく灯りがともって、そこから声がした。


「…どうせならタオルで拭いてくれないか。
 荷物をまだ解いていないんで、どこにあるか分からんがな」



私は立ち上がり、立て付けの悪くなった扉を閉じた。

















べ…別に続きはないですよ…。ルイは髪を拭いて帰っていくよ。(2005.03.26)