ラブシーンをもう一度

「眼鏡がない」

ヒューズはまだ半睡の私に覆い被さってそう言った。

「……知る…、か…」

眠くてそう不機嫌に言い返し、シーツを引き寄せて横を向くと、シーツごと私を半転させて身体の下を探り出す。強い朝の光が目を瞑っていても眩しくて、私はシーツを頭まで被る。「いつ外したかなあ…」と呟くヒューズの声。少々真面目に困っているようだ。

「…はひほへーふふ……」

言いながら欠伸が出た。何がげんなりするって、ヒューズが「サイドテーブルには無えんだ」と筋の通った返事をすることだ。「ちょっとこっち」と、せっかく一晩かけて暖めた陣地から横へ転がされる。ヒューズの匂いがする。髪と、煙草と、いい家庭を持つ人の清潔な匂い。

「おっかしーな…俺いつ外したっけ?」

そんなこと知るかと心のなかで返して、私は慣れた匂いにとぷんと沈む。このまま二度寝を決め込もうとうつらうつらしかけると、ベッドの上を隅々まで探したらしいヒューズが「無えなあ」と溜息をつくのが聞こえた。放っておくのも可哀想で、私はつい口を挟んだ。

「…キッチン…じゃないか…?」

昨日は何がどうしたろう。軽く飲んで家へ戻ってきて、ヒューズはそのときは眼鏡をかけていた、筈だ。だと思うが、私も軽く酩酊していたので記憶に自信がない。

「キッチン〜?…ああ、そういや…」

そういえば、水が欲しいと私が言って。ヒューズが取りにいったような気がする。ベッドに放り出された私。キッチンに向かう足音。そう、ちょうど今みたいにタンタンと階段を踏んで降りていく音。キッチンでヒューズはガタガタと物音を立てはじめる。戸棚を端から開ける音。あきらめたのかうがいをはじめた。人の気配がする朝というのはいいものだ。女性なら最高だが、誰より私の口にあう朝食をつくるという点で、ヒューズもそう悪くはない。いつもと少しちがう匂いのシーツに頬を擦り寄せて、おもわずちょっと笑ってしまう。



「ローイー…」

階下から情けない声がする。

「キッチンで俺、何したっけ?」

そんなこと知るか。また悲しそうに呼ぶ声がして、仕方なくベッドから起き上がる。脱いだ形のまま床に落ちているシャツを拾った。何だ、ヒューズのかこれは。私のシャツはどこへいったんだ。仕方ないので奴のに袖を通し、ベルトが見当たらないままにだらしなく軍服の下を着た。

キッチンではヒューズが鍋の蓋まで開けて探していた。私の足音に気付いて階段を見上げる。とん、と最後の段を降りて、私はズボンだけはいた寝癖頭の男に言う。


「コートのポケットは」
「見た」
「じゃあ、車のなかで落とした」
「…かもなあ…いや、ずっと掛けてたような…」
「リピートしてみろ、昨日帰ってきてからどうした?」


ヒューズは私を、玄関の前までひっぱっていった。まるでワルツを踊るみたいに両手を取って。


「何故私まで付き合わねばいかんのだ」
「その方が思い出し易いだろうが。付き合えよ」


馬鹿馬鹿しいが、さっさと見つけて静かな朝を過ごしたい。そして朝食を作って欲しい。「ここで靴を脱いで…」とパントマイム付きで言うと「お前は脱げなかった、俺が脱がせたんだ」と余計なことを思い出させられた。そんなに泥酔していただろうか。まあいい、次。

「そうだ、そんでお前がここで寝そうになったから、俺は二階まで引っ張っていったんだぜ?」

そう言われればそんな気もする。

「水ー…って言うから、俺だけ水とりに下へ降りてよ。で、明日の朝飯、何作ろうかなと思って食料庫あけて…」

リビングを突っ切って、ヒューズはキッチンで記憶を辿る。パントリーの扉を開けた。棚を上から下まで伸び上がったりしゃがんだりして見ていたが、件の眼鏡は見当たらなかったようで、顎を掌でさすりながら出てくる。

「あ〜、何もねえなあと思って、じゃあ缶詰あるかって、この床下の貯蔵庫を…開けたところで、お前が降りてきて…」

そうだ、あんまり遅いから降りてきた。貯蔵庫のなかに落としたかもしれんと手を突っ込んで探るヒューズの横へ立った。

「んー…ここも無えなあ。お前が来たから俺は、とりあえずここの蓋を閉めて」

そんなことがあったような、無かったような。ヒューズは座ったまま、手で俺にも座れと床を指差した。閉じた板の蓋の上へ座る。すると、いきなり顔を寄せてヒューズが唇を重ねてきた。


「…っ、おま…」
「リピートしてみろって言ったじゃねえか」


そうだったか?こんなことしたか?私が顔を顰めると、ヒューズは悲しそうな顔をする。「昨日はお前からしてきたんじゃねえか…」そんなことは忘れた。さっさと次。


「…で、それから上に行ったんだな」
「いんや」
「は?」
「酔ったお前さんは情熱的に、俺の首に腕を回してきてだな…」


こいつが来たときは一生飲むまい。俯いて黙っていると、ヒューズは私の手をとって、自分の肩へ掛けさせた。何で朝から素面でこんなことをせねばならんのだ。俺は手をひっこめ、ヒューズはまたつかんで乗せ、ひっこめ、乗せ、ひっこめ、乗せた。


「進まないだろうが、関係ないところは飛ばせ!」
「いや、あるかもしんねえじゃねえか。それからまあ、俺も盛り上がっちゃってこう…」
「床に倒すな、背中が痛いだろうが…!」
「昨日は痛いなんてちっとも言わなかった癖にな…」


最後にぼそっと言われた余計な台詞に、私は膝で奴の脇腹を蹴った。膝頭を手ではしと受け止めながら、ヒューズは「ここまでは掛けてた」と妙に確信を持って言った。

「こうしたとき、お前の顔がよおっっく見えたからな」
「お前、もう眼鏡なんかその辺で買え!」

真顔の頬を引っ掻いてやると、「何でだよ」と眉を下げる。しょんぼりして見せる癖、シャツの裾から入り込んだ手がこそばゆく脇腹に触れる。短く息を飲んで身体を竦めると、突き上げた顎を噛まれた。

「…生えねえな」

ざらりと噛んだ痕を舐められる。そんなことはない、二日放っておいたら私だって髭ぐらい多少は生える。顎の線を唇が食んで耳まで、その動きに逆らわずに耳殻を晒すと、それだけで首筋に戦慄に似た疼きが走る。

「…俺の匂いがする」

ヒューズが低く笑って、項とシャツの襟首の間に鼻頭を突っ込む。吐息と声に、項の生え際が逆立つ。お前のシャツだから当たり前だろうと言い返そうと、開いた唇から切ない息が漏れて慌てて唇を噛み締めた。項の窪みを舐めて、吸われる。声を殺せばその分呼吸が乱れる。朝の身体は怠惰な快楽主義者だ。もう好きにさせてやろうかと思いつつ、横を向いたまま薄らと目を開いた。ダイニングテーブルの下に、私のシャツが脱ぎ捨てられている。どうやら昨日、ここでそういう展開になってしまったのは間違いなさそうだ。

あ。

くしゃりと丸まったシャツの胸ポケットから、眼鏡のフレームが覗いている。


「…ヒューズ。」


呼ぶと、奴はノッてきたのか「ロイ…」と馬鹿みたいに甘く呼んで、キスしながらシャツの前を開き出した。「違っ…、バカ、眼鏡…、落ち、てる」キスの合間に切れ切れに言って、私はその頬を抓り、髭面を横へ向けさせた。


「…お、ああ、あった…!」


ヒューズはそれを見つけると、四つん這いでテーブルの下へ入っていって、財宝でも取り出すように有難げにポケットから眼鏡を抜き出した。「あー、助かったー。良かった、そうか、そうだったか」 しみじみとした安堵の声。ひとしきり感動の対面に浸ってから、ヒューズは眼鏡と私のシャツを片手にテーブルの下から這い出てきた。

そして、ついさっきまでのムードを霧散させる晴れやかな笑顔で、半端に乱されて床に寝転がったままの私に言った。


「お前が『じろじろ見るな』っつって外したんだよな。そうそう、思い出した」


そんなことを言っただろうか。いや、今はそんなことはもうどうだっていいんだが。それよりも、中途半端なまま放り出された私のこの。「やっぱコレが無えとな〜」とか言いながら眼鏡を掛ける男の顔は、もうすっきりさっぱりとして情欲のかけらも窺えない。私は少々むっとしつつ、片肘をついて身体を起こした。興醒めもいいところだ。どうせなら全部終わってから教えてやればよかった。私が立ち上がり、シャツの前を直すと、今更気付いた間抜けがようやくはっとして。


「あ、悪ぃ。気ィ削がれたか?もっかい…」
「失物も見つかったところで、さっさと中央へ帰れ」


冷たく言って寝直そうと階段を上がると、焦った声が追い掛けてくる。


「いや、眼鏡なんざどうでもいいんだけどよ、」
「……遅い」


眼鏡に飛びつく前にそう言え。後ろで言葉を失って悄気る気配がする。精々気合いを入れた朝食を作って謝りに来るといい。メニュー次第では仕切り直しに応じないでもない。情けなく名前を呼ぶ声に欠伸で返して、私は寝室へ戻った。

















(2005.03.21)