平行線の交わる彼方

しばらく見ない間に、母はちょっと老けたようだった。
ホームに降りてサンドイッチを買っている姿は、記憶よりもずいぶんと小さい。
きっと老けさせたのは、何より自分だろう。
駅員に手伝ってもらって座った座席は硬く、俺は座面に腕をつっぱって何度か座り直した。


退院日を一日遅く言ったから、駅には誰も見送りがいない。
ホームの時計が正午のベルを鳴らす。今頃奴らは昼飯でも食ってるだろう。今日はどこに行ってんだろ。セントラルはイーストシティより物価が高い割に、あんまり旨い店はなかった。あるのかもしれないけど、探し出す前に……。



「これでいいかい?」

戻ってきた母が、ライ麦パンに野菜やハムをはさんだサンドイッチを差し出す。一口齧ってみたら、これが不思議なぐらい旨かった。セントラル一の美味は、こんなところに隠れていたのかと思うぐらい。思わず「旨い」と呟くと、母は嬉しそうに笑って、前の席へどっこいしょと腰を下ろした。

「こんなモンが美味しいだなんて、どんな食事とってたんだかねえ。
 帰ったらちゃんとしたもの、毎日出すからね」

この人は元々、こんなに気をつかって丁寧に喋る柄じゃない。
気遣いがかえって辛くて、俺はぎこちない笑みを返す。




汽笛が高く鳴って、列車がガタンと揺れた。
そのちいさな衝撃は、俺のなかに、やけに深く響いて。
ああ、俺は生きている限り、この一瞬のことを忘れないだろうと思った。

窓の外が後ろへゆっくりと流れていく。
仲のよさそうな老夫婦は、息子の見送りにでも来たんだろうか。
ホームの上を、ちまちまと列車について歩こうとする女の子。
その女の子の手を引く奥さん。
次の列車待ちか、ベンチに座る軍人。
軍服が目に入ると、ちくりと胸が痛んだ。

これから先、この街に来ることがあるんだろうか。
あいつらに会うことがあるんだろうか。

加速する車輪の音に急き立てられて、胸の鼓動が早くなっていく。
何かを叫びたくて、でもこらえて、俺は車窓の縁を握った。

寂しい。

言葉を飲み込むと、かわりに目にじわっと熱さがせりあがってきた。
脚と一緒に俺の涙腺は壊れちまった。
親の前でなんか泣けるかと、ぎゅっと唇を噛み締める。



ホームの時計、売店、旅行者だろう大きなスーツケースを持った恰幅のいい男。
ガラス越しに流れていく風景が、列車の白い煙で薄れる。
俺がいてもいなくても、セントラルに流れる日常は同じで。世はすべて、こともなし。

また、ベンチに座る軍人が見えた。
具合でも悪いのか、腹に手を添えて俯いて、座っているのがやっとの風情だ。
俺は反射的に(本当にナントカの犬みたいに)窓を跳ね上げて身を乗り出した。


「大、…」


大佐の横にはつきそうように、中尉が立っていた。
中尉が俺に気付いて大佐に何か囁き、大佐はゆっくり顔を上げた。血の気のない、白い顔だった。ばさばさ揺れる前髪の下で細くなる目。無理しないで下さいよ、ねえ。本当に無茶しないで。


「あんた、ちゃんと中尉の言うこときいて…!」


デカい声を張り上げたら、自分の腹に響いた。
大佐は見慣れた手袋を嵌めた手で、座ったまま俺に敬礼を送った。
その横で、ほんの少し瞳を潤ませた中尉が、それに倣った。



「お前こそ!」

太い声は、その隣のベンチから立ち上がったブレダだ。驚いた。総出か。あとでどっかからどやされても知らねえぞ。

「母ちゃんの言うこときいて、養生しやがれよ!」

その台詞があんまり“らしく”て、俺は思わず笑ってしまった。きっとこいつの企画なんだろうな、これ。その隣で曹長が一生懸命手を振っている。

「ハボックさん、お、お元気で…。僕、あの、遊びに行きますから、えっとご迷惑でなかったら…」

頑張れよ、お前すごい役に立ってるじゃん。俺は笑って「土産持ってこいよ」と手を振り返した。その横にはファルマンが、相変わらずな糸目で突っ立ってる。「何か言えよ」とブレダに背中をどつかれて、ファルマンは難しい顔のまま精一杯の送辞を述べた。

「【別れ】…会うのはじまり…」

俺的には感動したんだが、ブレダは気に食わなかったのか「普通に喋れ」と回し蹴りを入れた。派手によろめくファルマン。お前ら仲良くやってくれよ。ホント頼むわ。

ブレダとファルマンとフュリーは、しばらく小走りで列車についてきた。もっと何か言おうとしたら蒸気が流れてきて、それが薄れるともうホームは途切れていた。手を振る三人と、中尉に支えられて立ち上がった大佐の姿が遠くなっていく。俺はあんたたちが本当に好きだった。これからもずっと好きだ。言えなかったけど、きっと伝わっただろう。






ホームが見えなくなってしまうと、俺はようやく窓を閉めた。
何だかちょっと気恥ずかしくて、ちらっと前の座席を見ると、母はしみじみとした笑いを浮かべてゆっくりと言った。


「…ねえ、ジャン。あんたが軍人になっちまってから、あたしはずうっと心配だったよ。
 寝るときには毎晩、お前が誰かに殺されたり…殺したりしなくてもいいようにって、神様にお願いしたもんさ。こっちに居れば危なくない仕事だっていっぱいあるのに、全く馬鹿だよって思ってたけど…」


母は長い溜息を漏らしてから、仕方なさそうに笑った。


「いい仕事みたいじゃないか。軍人ってのも」


その一言で堰が切れて、途端にぼろぼろ泣けてしまった。目からも鼻からもしょっぱい水がびしゃびしゃに出て、拭っても拭っても止まらない。声だけは殺そうとすると余計に、バケツの底が抜けたみたいに涙が溢れてくる。

「あーあ、その分じゃ治った途端すっとんでいきそうだねえ」

母の諦めたような苦笑いに、俺は泣いたまま、へへ、と笑い返した。

親不孝でごめんな、母さん。

















(2005.03.11)