一瞬の光

その家を訪れるのはおろか、俺は実際、美しいと評判のその未亡人に会ったことすら無い。


電話で約束を取り付け、快い返事を貰った後で、ふとその事実に今更思い至った。


准将の葬儀のとき、俺はまだ下っ端で呼ばれなかった。彼女の写真は何度も見せられたが、あれから十数年が経っている。写真。そう、ヒューズ准将が大量に持っていた写真の一枚にこそ用があるのだ。


車は閑静な住宅街に入り、大通りに面した邸宅の前で止まった。准将自慢のひとり娘は寄宿舎に入っており、今この家に住むのはただ独りだ。


「探しモンだからなァ…、時間が分からねえし、一度帰ってな」


情報将校らしく、もう少し喋り方を直したらどうだと言う奴もいるが。俺は所詮、叩き上げの成り上がりだし、そういう自分が気に入っている。運転手は一礼し、黒塗りの車は、ボンネットに芽吹き始めた街路樹の新緑を映して走り去った。




門から家に続くアプローチには煉瓦が敷かれ、その左右にはきちんと刈られた芝生が植えられている。花の名前なんざ知らねえが、白いちいさな花がぎゅっと固まりになったような…、白い花の波が風に揺れている。きちんと生活している人の住む家だ。俺は密やかに安堵した。

呼び鈴を鳴らすと、早すぎず遅すぎず応える声がして扉が開いた。扉の向こうに立っていたのは、驚くほど写真と変わらない優しい姿。目尻に微かに皺があるだけだ。俺は思わずぽかんとしてから、慌てて威儀を正し敬礼した。


「本日は有難うございます。ハイマンス・ブレダです」


彼女は庭の白い花のように微笑んで、「お待ちしてました。どうぞお入り下さい」と会釈を返した。穏やかな柔らかい声。私を映す眸に微かに懐かしさと寂しさが入り交じって見えたのは、きっとこの軍服の所為だろう。







通されたリビングも、彼女と同じに時間を止めているようだった。壁や棚に飾られた准将の写真。その部屋の、静謐な湖の底のような厳かさ。くだらない理由で来訪した俺は、途端に居場所が無い気分になった。


「何せ、アルバムが多くて」


すすめられたソファに座っていると、困ったような笑顔を浮かべて彼女が珈琲を運んで来てくれた。テーブルの上には、その珈琲を置く場所もないほど、革の表紙のアルバムが積み重ねられている。数えたくはないが50冊はある。「毎月1冊は埋まっちまうなぁ〜」と、准将はでれでれ娘の写真にキスしていた。冗談だと思っていたが、冗談を凌ぐ数だ。


「探しておこうと思ったんですけど全部は見れなくて。この2冊には無かったわ。
 ええと…、エプロンをして、じゃがいもの皮を剥いている写真、ですね?」


つくづく申し訳なくなって、俺は深々と頭を下げた。いっそ床で土下座でもしたい気分だ。


「つまらない企画の為に、本当にすいません」


すると彼女は、サイドテーブルへ青い模様の入った珈琲カップを置きながら笑った。


「あら、私も読みたいです、その記事。
 『ロイ・マスタング大総統の可愛い一面』だなんて」


コトの始まりは俺が編集している新聞だ。新聞というより機関紙のようなものか。毎週、週末に特集を組んでいる大総統のグラビアはなかなか評判がいいんだが、どうも最近マンネリになってきた。そこで、カメラ目線でない、撮られていると意識していない写真を集めてみようということになったワケだ。企画を出したのは俺なんだから、当然いちばんいい写真を探して来ないといけないだろうと、記憶を総動員し。思い出したのがあの一枚。


「確か、東方にいる頃にちょっと研修に出て…。
 研修って言っても態の良いサボりみたいなモンなんですけどね。
 そのとき、中佐…、准将が撮った写真で。
 写真自体より、それを見せられた本人の慌てっぷりが忘れられねえ一枚ですね」

「まあ。そんな物を載せて、大丈夫なんですか?」


午後の暖かい陽射しを背に、彼女は目を細めて微笑んだ。未亡人という一般的なイメージと、今目の前で微笑む彼女の満たされた表情は、ずいぶんとかけ離れていて、逆に少し寂しさを覚える。


「…でも、もしかしたら、無いかもしれません」


薄く笑んだままで彼女が言うのに、俺はアルバムを捲る手を止めて目を上げた。


「処分なさった物もありますか?」

「…いいえ、捨てた物は一枚もないけれど…」


それきり、口を閉ざす彼女に、俺も珈琲を啜ってまたアルバムを捲った。家族で旅行にいったときの写真が続く。東方にいる頃、というのは、俺なりに気を使って言った。俺達が中央に移る少し前の出来事。准将が殉職する数カ月前。まず一冊を見終わって、俺はその下のアルバムを膝に乗せてひろげた。


誕生日のプレゼントに囲まれたエリシア嬢の写真に始まって。庭で芝生の手入れをしながら中腰で笑っている准将。誰が写したものかピントが暈けてはいるが、それでも見入ってしまうような優しい笑顔だ。昼寝だろうか、夫人とエリシア嬢が陽に暖められた床の上でくっついて眠っている写真。毛布を掛けたのは准将だろう。天使だとか女神だとか、興奮する声が聞こえてきそうだ。


そして、アルバムは唐突に白地になる。
捲っても捲っても続く空白が目に痛い。

俺は胸を突かれ、短く息を吐いて眉を掻いた。



新しいアルバムから遡って見ていくうちに、四角い写真のなかでエリシア嬢はどんどん小さくなり、ついにはベビーベッドの中に収まった。何か大切なものをぎゅっと握っているような、いたいけな掌だけを写した一枚があった。親の祈りが凝縮したその写真。深い愛情が滲み出すような。


夫人は、俺がそのアルバムを見終わってしまうと「もうそれより古いのは実家に」と言い、ちらりと後ろを振り返った。


「あとは、そこの写真立てに入れてあるか…、
 それとも、あの人が持っていってしまったか、です」


写真立てには、中佐に昇進したときに撮影した記念写真と、家族三人で写した写真。それからまだどこかあどけない我が上司と並んでいる士官学校時代のものと、俺も一緒に混じって撮った集合写真の四枚が入れられている。


「…持っていった…?」


棚や壁に、目当ての写真が無いのを一応確かめてから訊ねた。夫人は自分の胸に軽く手を添えて、「あの人、特に好きな…人に見せたい写真は、手帳に挟んで胸に入れていたんです」と静かに答えて目を伏せた。長い睫の金色が、目元に淡い陰影を落とす。


「だから、あっちでも自慢が出来るようにって、葬儀のときに持たせました。
 どんな写真がはいっていたか…もう余り憶えていないけれど
 多分、あの方の写真も数枚あったと思います」


不思議なことにそのとき、彼女が白いレースのハンカチに何枚かの写真を丁寧にくるんで、准将の柩へそっと入れるのが目に浮かんだ。俺は葬儀に出ていないのに、そのビジョンは実際に見たように鮮明だった。供えられた花の匂いや、空気の張り詰めた冷たさまで感じられた。

ああ、ならきっと持っていってしまったんだろう。
あれは「最高傑作」だととても自慢していたから。








「お役に立てなくて申し訳ありません」


結局写真は見つからず、俺は電話を借りて車を呼んだ。クラクションの音に腰を上げると、夫人は扉の外まで送ってくれた。陽は傾き始め、芝生の上に黄色い光が踊っている。


「こちらこそ押し掛けまして。御協力ありがとうございました」


敬礼すると、彼女はまた俺を迎えたときと同じ目をした。
そして俺の肩章へ視線を落とし、ゆっくりと笑みを顔に広げて言った。


「少しも似ていないのに…。
 軍の方が来られると、何だか懐かしくて。
 どうか、お仕事…、無理なさらないで下さいね」


また来ます、と口にしてしまいそうになって、用事も無いのにと苦笑を押し被せた。


「ブレダ中佐!」


運転手が不粋なクラクションを鳴らして急かす。頭を下げ、門の外で待つ車へ乗り込んだ。彼女は車が出るまで見送ってくれた。後部座席に深く座って背中を革のシートに預けながら、俺は軍服の胸に手を当てた。



もし今度、ここを訪ねることがあれば。
俺は車体の揺れに身を任せながら考える。

あの人に、この胸に入っている愚妻と洟垂れ坊主の写真を見せたい。
東方司令部の誰もが、どんなに中佐が見せる写真に、写真というカタチの幸せに憧れたかを彼女に話したい。



目当ての写真は無かったが、そういえば昔みんなで監視日記を付けたときの枕を抱いて寝てる写真が…どこにまだあるはずだよな。

あの写真を添付した報告書、どこで管理してるだろうと頭を切り替えながら、俺は胸に当てた手で一度、軍服の生地越しに感じる手帳の厚みを撫でた。

















ブレダ萌え(2005.01.05)