センチメンタル

「早めに準備しておいて下さいね。仕事の期限は延ばせても、着任日は延ばせませんから」


と、何度も嫌味混じりに中尉に念を押されたが、自分の部屋に私物などあまり無いと思い込んでいた。持って行かなくてはいけないような物は、本と衣類を数点。準備など前日からで充分間に合うだろう、と。



佐官に宛てがわれた宿舎は一軒家で、手入れの行き届いた前庭も付いている。いや、付いていた、と言うべきか。私が主人になって以来、可哀想なことに碌に手入れもされず、雑草が我が物顔ではこびっている。庭師であれメイドであれ、身元の分からない者を出入りさせるのは不安だ。休日に庭弄りをする趣味も無く、気が向けば水を撒くぐらいしか出来ないまま数年が流れた。

家の中は応接間とリビング、キッチンの他に部屋が4つもある。使っているのは結局、書斎と寝室だけだ。キッチンに立った回数は、もしかしたら出張だとか何だとか理由をつけてこの家を訪れた誰かの方が多いかもしれない。ちゃんと飯食ってんのか?とか。早く嫁さん貰えだとか。火の気配が消えて久しいコンロを指でなぞると、白い埃が付いた。



本棚のなかに、東方で買った本はあまり無い。それだけ忙しかったのだ。錬金術の研究の方はそう進まなかった。査定があったら小言を言われていたかもしれない。

一冊一冊、積み上げて細いロープで運び出し易いように括った。もう読まなくなった資料は、最後に庭で焼いてしまおう。要不要は一目で分かるのだが、何といっても冊数が多すぎる。朝昼兼用の軽い食事をのんびりと取ってから始めた整頓は、遅々として終わりが見えて来なかった。



すると、呼び鈴が鳴って、続いて耳馴染みのある犬の鳴き声がした。 玄関には髪を下ろし、ジョギングにでも行く途中のようなラフな姿の中尉と、ブラックハヤテ号が居た。


「差し出がましいとは思いましたが、近くまで来ましたので。
 …何かお手伝いできることがあれば、と」


そういえば彼女が、この家に来てくれるのは初めてだ。誘ったことは何度かあるが、いつも笑顔で断られてきた。もしやこの犬は護衛だろうか。そんな警戒心は非常に悲しいが、手伝ってくれるのは有り難い。素直に礼を言って、二階へ案内した。






書斎には本棚、寝室にはクローゼット。彼女は両方を見渡してから、「…とりあえず、キッチンの食器を片付けましょうか?」と遠慮がちに訊いて来た。あまりプライバシーに関わらないような場所を、と思う彼女の気遣いは有り難いが、食器はプレートが数枚にマグとグラスが1セットずつしかない。本は重いし、一応は目を通してから分別したいし…。私は迷ってから「よかったら、軍服とコートを出して纏めておいてくれないか」と言った。彼女は短く了解し、書斎の壁側の扉を開け、間続きになっている寝室のクローゼットをひらいた。ワン!とブラハも返事をして寝室へ向かう。

中尉は隣室から窺い見てもとても手際よく、ベッドの上に服を広げ、クリーニング屋並みの手さばきで畳んでいく。私は無言でそっと感謝し、せめて珈琲ぐらい煎れようか…しかし豆があっただろうか…と腰を上げた。



キッチンに立つのは何ヶ月振りだろう。棚の中には我ながら侘びしくなるほどに何もない。サイフォンは見つかったが、豆がなかなか見つからない。出て来たのはオリーブオイルと胡椒と塩。鷹の爪一袋。一体あいつはどうやって料理をしていたんだろう。私が寝こけている間に材料を買っていたんだろうか。腐らせるような物は一回分だけ?「もっと買っておけ、馬鹿」 八つ当たりで呟くと、棚の扉に指を挟んだ。


ようやく、誰かに貰ったきり開けていない紅茶の缶を見つけた。こんな物に賞味期限はきっと無い…だろうから、多分大丈夫だろう。茶葉を嗅いでみてから珈琲豆の代わりにサイフォンに突っ込んで煮立たせてみた。ちょっとどす黒い紅茶が出来た。


洒落たティーカップも無いので、雑貨屋に並んでいるような素っ気無いマグカップに注いで階段を上がる。寝室のドアを開けると、もうベッドの上に粗方必要そうな衣類は畳んで積み上げられていた。あとはこのまま箱に移すだけだ、有り難い――と、クローゼットへ目を移せば、座ったままの中尉が、膝に何やら広げていた。


「一応、紅茶らしき物がはいったんだが…」


声をかけると、彼女がはっと息を飲む気配があって。ゆっくりと振り返り、その薄茶色のエプロンを私に見せた。


「す、すいません、私、あの…うっかり開け過ぎてしまって…」


盛大に誤解されていると気付くまでに、妙な間が開いてしまった。私だってそのエプロンの存在を忘れかけていたから。いやむしろ忘れたままでいたかった。やけに気に入ったヒューズが、村を出るときにローズにねだって貰い受け、「俺が使うからさあ、お前ん家に置いとけよ」と言い包めてクローゼットへ押し込んだ物だ。


「中尉、それは私の…その…。
 誰か女性が置いていったとかいう、そういう曰く付きの物ではなくてな、
 何と言えばいいか…。庭掃除にいいかもしれないと思って買ってみたんだが
 結局使わないままだったな、すっかり忘れていた、はは…」




シンと静まった部屋で、ブラハが一声「ワン」と吠えた。




沈黙の後、中尉はくすと笑って立ち上がり、「なら、お借りしても問題ありませんか?」とそのエプロンをつけてくれた。呪わしくも情けない思い出の一着だが、やはり女性のエプロン姿はいい…。私は無駄に何度も頷き、珈琲のような色の紅茶を手渡した。やはり渋いのか少し眉を寄せながら、彼女はそれでも飲み干してくれた。







片付けが終わったのは、そろそろ夕映えも薄れようとする頃だった。必要な衣類と本を箱へ詰めて玄関へ並べ、不要な書類を庭へ積み上げると濃紺の空に星が光った。


「本も、焼いてしまわれるのですか」


隣に立つ中尉が、少し惜しいような顔で訊いた。古本屋に持っていくなり、寄贈なりするべきだろうが、研究に使った本はどこに書き込みをしているか分からない。錬金術師というのは吝嗇な物でね。どんな些細なメモでも流出するのを怖れるんだ。そう言うと彼女は「すいません」と謝った。謝る必要など全く無いのに。


本に火を付けて眺めていると、何となく東方へ来てからのバタバタと忙しい日々が思い出された。実にくだらない事件から、傷の男を取り逃がした事まで。列車ジャックも爆破テロもあった。それから鋼の。苦い思い出も、この土地を離れると思えば何故か懐かしい。彼女も幾許かの感慨があるのか、揺れる火影を黙って眺めている。凛と美しい横顔が、焔の橙色に照らされている。


それにしてもエプロン姿というのは、どこか愛嬌がある物だな。
家事をします!という意気込みを感じて可愛いと思うんだろうか。
裁断のシンプルさがいいんだろうか。謎だ。


私は座ったまま手を伸ばし、気がついたら彼女のエプロンの裾を捲っていた。

口だって勝手に動いたのだ。



「…似合うな…」



中尉はきょとんとしてから、気不味いまま固まっている私を見下ろして笑った。


「それって、口説いていらっしゃるんですか?」


私は少し驚いて「…口説いていることになるのか?」と訊き返した。彼女はまた小さく噴き出して「本当にタチの悪い人」と歌うように呟いた。いや、タチが悪いのは私じゃなくて……。


私じゃなくて…!!


火は次第に弱くなり、ぱちぱちと舞い上がる火の粉は夜空へ吸い上げられる途中で消えてしまう。もっと高く上がればいいのにと、膝を抱えて思った。雲の上だかに居るタチの悪い奴の尻でも焦がせばいいと思った。説明の仕様がなくて黙り込んでしまった私の隣で、彼女はまた思い出したように笑い、部屋から走り出てきたブラハがその足下へじゃれた。何だか家族のような親密さが流れた。焚火の温かさがそうさせるのかと風に揺らぐ焔を見つめる。


あれは口説いていたことになるのか…。
そんな事を今更分かっても、どうしようもないわけだが。
いや、きっと似合うと思っただけなんだろう。

もう居ない奴の言葉の意味を、今更気にするなんて馬鹿げてる。自嘲に口許を緩めて、私は訊いてみた。


「…口説き文句としては何点ぐらいかね」
「失礼ですが、5点ぐらいかと」
「それは10点満点でか」
「100点で、です。大佐」


そりゃ酷いな、と笑うと、「誰に言われるかで変わりますけど」と火の爆ぜる音に紛れて小さな声が付け加えた。それはもっともだ。「私が言ったらどうだ」と崩れる焔を見たまま訊いた。中尉はゆっくり腕を組んで「聞きたいですか?」と笑いを押し殺しながら返す。「いや、5点より下がるならいい」と手を振ると、彼女は笑って答えなかったが、まるでその代わりのようにブラックハヤテが元気よく一度吠えた。


火は熾になり、頬の熱が引いていく。
今夜ここで、こうして並んで火を眺めたことなど、セントラルへ行けばきっとすぐに忙殺されて忘れ去ってしまうだろう。ちいさなことを忘れたくないと思うのは、センチメンタリズムなのか、年の所為なのか。




中尉は腰の後ろへ手を回し、エプロンの紐を解いて脱いでしまった。彼女は小さくそれを畳むと、「洗ってお返ししますね」と言う。私は首を振って「洗ってもらうほどの事はない…、捨てていってもいいぐらいだ」と片手を差し出す。どうせ使わないのだ。もう誰も。なら、この残り火で燃やしてしまおう。

中尉は座ったままの私の手を見下ろし、エプロンをもう半分に畳んだ。


「…いいえ、大佐の荷物に入れておきます」


手を出した姿勢で見上げると、まだ低い月が彼女の髪を照らしていた。金髪の淡い色と優しげな微笑みに見蕩れていたら、形のいい唇から弾丸が飛んだ。


「貴方をあんなに狼狽えさせる、曰くありげなエプロンですから」


撃たれた私を捨て置いて、彼女はさっさと家へと戻っていった。
その足下へ纏りつく仔犬。

セントラルに着いたら真っ先に捨ててやろうと思いつつ、結局それは、クローゼットの底にいつまでも居座るような気もした。


















(2004.11.26)