never mind

世の奥方は、案外忙しいのだな。
私はローズの家で働くようになって、ようやく御婦人方の苦労を思い知った。


世の、というのは一般的な家庭の、という意味で、地方でもセントラルでも佐官の妻となると大抵は殆ど家事をしない。食事は料理人、掃除はメイド。住み込みの使用人を二人は置いているのが普通だ。気が向けばケーキを焼いてみたりもするだろうが、日々のメニューに頭を悩ましたりはしない。その点、グレイシアは実に珍しい働き者だ。


多分、グレイシアより仕事の多いローズは毎朝五時に起きる。朝食の準備に始まって、皿洗い、洗濯、掃除、今度は昼食の用意、畑仕事、洗濯の取り込み、夕食…。その上、家畜の世話までしなくてはならない。きびきびと働く彼女を見ていると、この細い身体のどこにそんな体力があるのかと感心する。

女性が出来る仕事を割り当てられたというのに、男でその上軍人である私が文句を言う訳にはいかない。そうは思えど、この箒というのは案外に面倒…いやいや、これも仕事…。しかし、掃けば掃くほど埃が舞い上がるような気がするのは気の所為だろうか。


水を床に撒いたらいいんじゃないか?ダイニングを掃きながらそう閃いたとき、隣室からちいさな足音がして少女が顔を覗かせた。癖のない金髪に青い眸。少佐の妹に似た彼女の名は、たしかレイチェルといった。




「…どうかしたか?」


箒を手に、自分なりに子供受けするように微笑んでみたが、レイチェルは少しがっかりした顔で「ヒューズさんは?」と言った。あんな髭がどうして子供に受けるのか、本当に謎だ。


「さっきまで庭をうろうろしていたが…、ルイードの家にでも行ったかもな」


レイチェルはいよいよがっかりし、思い直したように何かを言いかけ、やはり口を閉じる。だいたい、ヒューズに出来て私に出来ないことなど無いのだ。(多分)
ヒューズに頼む用事なら、私にだってやりおおせる筈。

対抗心に突き動かされた私は、箒を手にしたまま奴がよくするように腰を下ろし、彼女と視線を合わせてなるべく柔和な表情を作った。


「何の用かな。私でいいなら」


レイチェルは薄く削ったトルコ石のような眸をゆらゆらと私へ向けた。きっと美人になるだろう。白く透き通った肌に、丁寧に梳かなければ縺れてしまいそうな細い髪。まるでセントラルの娘のように手入れがいい。ぎゅっとスカートを握る指も、ローズのような傷や皹は見当たらない。

少女は私の顔を値踏みでもするかのように見詰めてから、「…あのね、恋愛相談よ?」と首を傾げた。なるほど、レイチェルらしい用件だ。そんな事かと馬鹿馬鹿しさに思わず溜息が漏れたが、もしかすると今、自分はやや得意なジャンルを割り当てられたのかもしれない。

「どうぞ」と促すと、レイチェルは勿体ぶるように口を尖らせてから


「私ねえ、ルイードが好きなの。
 おおきくなったら、およめさんになりたいの」


と、告白した。全く可愛らしくて簡単な相談だな。私は微笑ましさに思わず笑う。


「なら、そうルイードに言いたまえ。女性にそう言われて、嫌な男はいないよ。
 勇気が無いならついていってあげよう」


自信と大人の余裕を滲ませてそう言うと、レイチェルは眉を寄せて「最後まで聞いて。言うのぐらいちゃんと言えたわ」と、うっそりとした視線を向けてきた。何だその目は。まるでティルトが私を見るような…。


「ルイードはね、…私のことは好きだけど
 およめさんにするならローズがいいって言うの。ねえ、あんまりでしょ?」


きっと自分の見目に多少は自信があるだろう少女は、泣くまいとしてか、きゅっと唇を噛んで俯いた。なるほど、男というものは卑怯なものだ。適材適所、そんな四文字熟語が浮かんだが、そんなことを口に出せるわけがない。


「…レイチェル、君はまだ小さい。きっともっと好きな人が…」


何て陳腐なことを言ってるんだ?陳腐かつ無責任な。私はいつの間にか、真剣に慰める言葉を探し始めた。男なんて星の数…。いやいや、それは余計陳腐だな。私が唸っている間に、俯いたレイチェルの長い睫に透明な雫が溜まって、私の掃いた床にぽつぽつと落ちた。狼狽えて頭を撫でると、私の胸のエプロンを掴んで啜り上げる。こんなに小さいのに、女の泣き方は同じなんだなと要らぬ感慨を抱く。


「もっと好きな人なんて出来ない…。
 ルイード、私のこと好きって言ったのに、ひどい…」


今度は膝のエプロンを雫が濡らす。最初はマセた相談だと思っていたのに、その柔らかい髪を撫でているうち、次第に同情心が湧いてきた。料理も家事も出来なさそうなこの私に似た少女の初恋を、出来るものなら何とかしてやりたい。やりたいが、ローズは本当に非の打ちどころのない娘で、家庭はローズと持ちたいというルイードの本音も男として分からないではない…。


いい回答も出来ずに、ただよしよしと髪を撫でるしか出来ない私の背中から、ひょいとヒューズが顔を出した。



「可哀想になあ、レイチェル。
 でもそりゃあきっと、もっとレイチェルに似合う奴がいるってこった、な?」


お前も大概陳腐じゃないか…。呆れて振り返った私の胸から、金色の少女はぱっと飛び出して何故かヒューズにぎゅっとしがみついた。懐かれて嬉しそうに笑いながら、奴は床に腰を下ろした。どうせ来るならもっと早く来い。解放されて首を回す。頑張ったところで子供は苦手だ。


「そうなの?」
「そう!そういうなあ、レイチェルも好き、でもローズと結婚、なんて…男は…」


一体どこから立ち聞きしていたんだ。思わず軽く睨むと、少女を膝に抱き上げたヒューズが、調子のいい言葉を途切れさせて恐る恐る私の方を見た。そうだな。本当にそんな男は最低だな、ヒューズ?私はレイチェルの涙が沁み込んだエプロンを払って立ち上がり、自分の台詞が自分に跳ね返って刺さっている哀れな男を微笑んで見下ろした。過ぎるほどに滑りのいい舌が錆び付いた。


「…男は?」
「…あまり…良く、ない…」


急に威勢の弱まるカウンセラーの顔を、無邪気な少女が覗き込む。


「…良くなくてもルイードが好きだから困ってるの」
「……だよな、…そりゃあ困ったな…」


せっかくだから恋愛の達人とやらがどんな模範回答をしてくれるのかをしっかり聞き届けようと、私はダイニングテーブルから椅子を引き出して深く座った。特等席だな。ガタンと椅子の背を引き摺ると、ヒューズの背中が固まるのがよく見える。


「ねえ、レイチェルはじゃあ、どうしたらいいの?」
「…いや、その…、まだ、ルイードとローズが結婚してるわけじゃあねえからな…?
 ルイードはいい奴だし、まあ…諦めずにだなあ」
「さっきはレイチェルもローズも好きな男なんて、って言ったじゃない」
「…それは悪いと思…」
「ヒューズさんがなんで謝るの?」
「……いや、ルイードがきっとそう思って…んじゃねえかな」


今、煙草を吸ったら旨いだろうな。

意地悪い気持ちではなくて、純粋に可笑しくて喉を鳴らして笑うと、背中を向けたままヒューズがカクンと項垂れた。まあ滅多に見れないしどろもどろのお前が見れたから、もういいとしてやろうか。私は椅子から立ち上がると、「こいつはそろそろ家庭教師の時間だから、恋愛相談はまた明日にしてやってくれないか」と適当な助け舟を出した。レイチェルは釈然としない顔で、それでも「はあい」と返事をして奴の膝から降りた。


ぱたぱたと、本当に畑仕事には向かないスカートの白いレースを翻して走っていきながら、レイチェルはくるりと振り返って「また明日ね、ヒューズさん!」と、愛らしい笑顔を見せた。さっきまで泣いていたのは芝居なんだろうかと思うような。女は本当に小さくても女だ。



その小さくなる後ろ姿に、「いやあ…本当にすまねえな…」と呟きながら見送る男の背を、握った箒の柄で軽く小突いて許してやった。



「どういたしまして」




















(2004.11.08)