ブランコを揺らす手

セントラルへ出発する列車の時刻を、中尉はもう一度手帳を広げて確かめた。


「まだ二時間程あるけれど、そろそろ準備していただかないと」


大佐の姿が執務室に無いので、庭にでも出られたのかと窓から探してみるが見当たらない。中尉の手には最後の引き継ぎの書類が束になっている。


「資料室かしら…。探して来るわ」
「じゃあ、中庭でも見て来ます」
「ありがとう、ファルマン准尉」


少し煤けた、見慣れた長い廊下。この廊下も歩き納めだろう。配属されたときはずいぶん古びたこの司令部に驚いたが、今では木製の手摺や窓枠が旧友のように思える。すれ違う幾人かが微笑んで手を差し出してくれる。握手、短いけれど温かい挨拶。あまり言葉は上手くないけれど、そんなことは相手も知っている。肩を叩いて励ましてくれる上官、そして廊下の向こうで大きく手を振ってくれる同期。


螺旋状になった階段を降りて中庭に出る。雨が降りそうだ。灰色の雲の流れが早い。


中庭の中央には裏門へ続く路が真直ぐに伸び、その右手が練兵場と武器庫、左手は鬱蒼としたちいさな森になっている。昼休みに此処の芝生に寝転がる者も多い。森のなかには小道に沿っていくつかベンチも置かれている。

天気がいいときは賑やかな一角だが、こんな日には人気がない。多分ここではないだろうと練兵場へ向かいかけて、背中に犬の鳴き声を聞いた。


「…ブラハか?」


司令部の飼い犬といったら一匹しかいない。踵を返して木立のなかへ入っていくと、遊歩道を少し離れた樹のそばに、大佐とブラハの姿を見つけた。ブラハは何かにじゃれついている。ああ、あのブランコだ。思い出した私は、大佐を呼ぼうとした声を飲み込んだ。







「なあなあ、俺才能あると思うんだわー。エリシアちゃん大喜びでよお」


大佐が研修から戻ってきて半月後。例によって突然顔を出した中佐は、フュリー曹長を掴まえて何の説明もせずに執務室を出ていった。後に残された大佐は「…何かは知らんが、とりあえず曹長には尊い犠牲になって貰おう」と言い、皆も同意して黙々と仕事をこなしたが、日が傾きかける頃になって誰もが落ち着きを無くし、結局全員で二人を探すことになった。

二人はあの樹の下で、ロープを枝から吊り、ブランコを作っていた。


「ヒューズ。ここは幼稚園ではないんだがな」


地割れを起こすような大佐の低い声に、中佐と曹長はいい仕事をしたと言わんばかりの眩しい笑顔で振り返った。


「おー、いいところに来たな。乗っていいぞ、ロイ」
「誰が乗るか」
「お前、上に立つ者がこういうときはな、率先して安全を確かめてこそ…」
「安全性を確認するなら、ブレダが適任だろうが」

「…大佐が俺をどう思ってらっしゃるのか、よぉく分かりました」


二人の力作に、結局大佐は乗らなかったが、大佐を除く皆が面白がって漕いでみた。ブランコはこの休息地の名物になり、ときどき将軍が暇そうに揺れているのを、女性陣が可愛いと騒いでこっそり見物したりしていた。







ブラハがじゃれているのは、片方の縄が切れ落ちて傾いているブランコの座板だった。


「…准尉か」


気配に気付いて、大佐は静かに振り返った。


「雨で縄が弱ってしまったんだろうな、まあ、こんな場所にブランコなど端から不要なんだが」


まだ枝に繋がれている縄を握って、大佐は軽くブランコを揺らした。板が湿った芝生の上を滑り、ブラハはそれを面白がって飛びつく。


「雨の所為もありますが、皆よく乗っていましたから」
「全く、子供ばかりか、この司令部は」
「ハボック少尉なども休憩中によく」
「…あの図体で…」


うんざりした顔をしてみせてから、大佐の口許は薄く、何かに耐えるように笑った。まるで今日の天気みたいだ、と思った。降るなら降ればいいのに。


「ディラック少佐、大佐の後任です。今年38才、着任後中佐に昇進予定」


私は軍靴の踵を鳴らし、敬礼してそう言った。大佐はきょとんとして私の方を見る。


「…そうだ、それがどうした」

「少佐には10才になるお嬢さんと8才の息子さんがいます。
 司令部に遊びに来られたとき、それが直っていればきっと喜ばれるかと」


大佐はまた目を丸くしてから、握った縄に縋るようにして笑いだした。


「後任への餞けにブランコか、安い物だな」
「それと、中尉が探しておられました。あと二時間で出発ですので、最後の引き継ぎを」
「分かった」


大佐は錬成陣をそれで描くのか、芝生の上から枝を拾い上げた。それから敬礼を解かずにいる私を見て、少し困ったような顔をし、咳払いしてから言った。


「あー…、修理後、安全性を確認するのに十分ほど掛かる。
 准尉は先に戻っているように」


私はその神妙な顔つきに思わず噴き出しそうになるのを堪え、ぐっと口を引き締め、再度敬礼して遊歩道へ戻った。小道を抜けて森が終わろうとする頃、蒼い錬成の光が走った。きっと丈夫に修理されただろうそれが、いつまでもここの名物であればいいと、振り返りその残光を見ながら思った。優しく懐かしい、思い出の場所。中佐の笑顔はもう無いけれど、せめて。これから先、誰も欠けないで欲しいという祈りも込めて。



十分どころか三十分は遊んでいた大佐が、いつものように中尉に急かされながら書類を処理し、私達は何とか予定の列車でセントラルへ向かった。



















(2004.11.07)