残像に花束を
初めての外出許可を貰った俺は、慣れない車椅子で病院を出た。
足が動かないというのは本当に不自由だ。一生ベッドから離れられない患者もいるし、病院の中を見回せば命があるだけ幸せだと思える時もある。それでも、こうやって街に出てみると、通りを行き交う人の、それが当たり前のような五体満足さが俺のちいさな幸せを軽く吹き飛ばす。
以前なら、坂だと気付きさえしなかったような緩い傾斜すら、車輪を回す腕を重くする。ろくに動けないのに腕だけは鍛えられた気がする。これで足が戻れば万々歳だが。
なだらかな上り坂が終わると、今度は下りだ。よく晴れて、セントラルの市街が一望できる頂きから、ブレーキを効かせながらゆっくりと下った。坂の梺にはカフェの緑色のテントが見える。坂の途中、路上に鮮やかな色を溢れさせる花屋の店先で車椅子を止めた。白く錆びたバケツに、色とりどりに花が並べられている。薔薇、チューリップ、マーガレット。名前が言えるのはそれぐらいだ。甘い香りに記憶が戻る。
「おや、また薔薇かい、兄さん」
店の奥で花束を作っていた女主人が顔を出す。そんな物を抱えれば、腕が片方塞がってしまう…、が。少し迷ってから、俺は頷いた。
「今日は小さいのでいいや。此処に入れられるぐらいの」
車輪の脇に下がっている、手荷物用の布ポケットを叩いて言うと、恰幅の良い彼女は身体を揺らして笑い「また豪快な痴話喧嘩したもんだねえ」とウインクを寄越して、深紅の薔薇を数本バケツから抜いた。それがハズレとも言えなかったから、俺はちょっと痛い皮肉を言われたような半端な笑顔で頭を掻いた。
作ってくれた小さい花束は「オマケしといたよ、色男」という、今度は少し見当違いな言葉と共にポケットへ入れられた。値段は、この前の五分の一もしなかった。礼を言い、俺はまた坂を下った。
もうすぐ坂を下りきる、そのとき背後からクラクションが二度鳴った。追いこした黒塗りの車が車道に止まり、後部扉が開いて我が上官殿が降りてくる。軍服の裾とコートを靡かせて路上に降り立つ、その姿はまるで芝居のように決まっている。
「何をしてる、バカが」
いきなりバカって言われるのも慣れました。俺は肩を竦めて「散歩です」と返す。一足先に退院した大佐は、もうすっかり職務に戻っている。この身体じゃ病院を抜け出せやしないってのに、俺の顔を疑わしそうに眺めてから運転手に一言告げ、大股に歩み寄ってくる。エンジンを響かせて、車が遠離る。
車椅子に薔薇の花束が差されているのを見ると、いよいよ大佐は眉を寄せ、「何処へ行く気か察しはつくが、あの辺は立ち入り禁止になっている」と言って腕を組んだ。それはそうだろうが、なるべく近くへ行ってみたかった。渋い顔の大佐に、そう言い出しかねて「じゃあ、この先の橋でいいです」と溜息混じりに告げる。
「いいですって何だ。勝手に行け」
「あれ、押してくれるつもりで降りたんじゃないんスか」
大佐はまた一段不機嫌な顔になったが、結局は俺の背後に立つと押しはじめた。セントラルでいちばん長い橋は、カフェを過ぎて徒歩10分。車椅子でも多分それぐらいだろう。押してくれる優しい上官さえいれば。
人に椅子を押されるのは、本当はあまり好きじゃない。「荷物」になってしまったような気がする――物質的にも、精神的にも。頼んでおいた癖に返って落ち着かず、かといって「やっぱり自分で」とも言い難い。思ったより早く目的地が見えてきて、俺はホッとした。
中央の車道を挟んで、両端に歩道を持つ長い橋。歩道には若い女や伝説の巨人などの彫刻が並び、夜にはその像が持つ松明やランプに灯が入れられる名所だ。橋の中程で車を止めて貰うと、眼下を流れる川を見下ろして花束を手に取った。
「お前は本当にバカだな」
大佐の呆れた声。投げた花束は、思ったよりも遠くまで風に運ばれた。パシャンと着水して川面に波紋を広げ、ゆったりと流れに乗り、沈みきらないまま下流へと流れていく。
「あら、綺麗」
ソラリスは俺の花束を両手で受け取った。
「有難う。花なんて、もうずっと貰ったこと無かったわ」
彼女の意図が何処にあろうと、俺に向けた微笑みが全て嘘だったとしても、その一言だけは真実だった気がする。艶のある少し低い声。笑うときの、寂しいぐらい完璧な唇の形。いつもは強い光を宿す眸が、不意に、手の届かない何かに憧れ続け、疲れたような物憂げな色に変わる。いっそ焦がれることを止めてしまいたいような。
ホムンクルス。俺も一瞬、ゾッとした。
人間では無いと…大佐はそう言うけれど、俺にはよく分からない。
ただ分かることは、彼女は必死で何かを成そうとしていたという事だ。多分、この国や軍を巻き込む壮大な――。
「自分を刺した女を弔うのか」
物好きな、と呟きながら、大佐も小指の先ほどに小さくなった花束を眺めている。薔薇はようやく波に沈んだ。こぼれた花弁が波間に漂う。
――弔いなんていらないわ。この花束で新しい彼女でも作りなさい。
そんな声が聞こえた気がして、苦く笑って煙草を咥えた。
「病院の中って、どっこも禁煙で辛いんスよね」
「当然だ」
風が強くて、ライターの火も靡く。
「例の死刑囚が、ラストと呼んでいたな、――あの女」
俺の横に並び、欄干に肘を付いて大佐が呟く。
ラスト。もうひとりがエンヴィーだと言うから、色欲という意味になるんだろうか。
その耳慣れない名前は、俺のなかの彼女の残像と重ならなかった。
ソラリス。初めて名を聞いた俺に、唇を軽く引き結んでから告げた名前。
あれは本当は…、本当の彼女の名前じゃないだろうか。そんな風に思うのは、やっぱり甘いんだろうか。
咥えた穂先に火を移し、深く吸い込んだ。流れていく煙が迷惑なのか、横目で軽く睨んでから、また川の流れへ視線を戻して大佐がぽつんと言った。
「いい女だったな」
ああ、本当にいい女だった。
したたかで、鮮やかで、甘い毒だった。
胸のなかで認めてしまうと、ずっと握っていた風船を空へ放したみたいに急に楽になった。「そっスね」と短い返事をして伸びをすると、心にすっと明るい風が吹いて、あんまり簡単に気持ちが軽くなるから可笑しくて笑ってしまった。騙されても仕方ないぐらい、いい女だった。訝しそうな大佐に、そのままの笑顔を向けて首を傾げる。
「大佐もボイン好きでしょ」
「ボインが嫌いな男がいるか」
そんな台詞を威張って言わんで下さい。仏頂面のままの答えにまた笑った。
いい女だったんスよ。ホント。
本当に馬鹿だ。殺されかかった二人が、口を揃えてその女を褒めてるなんて。煙が沁みた目を閉じれば、呆れたような苦笑を浮かべ、肩を竦めて薄れていくソラリスが浮かんだ。
「今頃、あっちで中佐に迫ってますよ」
頭のキレるイイ男、だとか何とか言ってましたからね。面白くなさそうに言うと、大佐はフフンと鼻で笑った。
「どうかな」
「だって中佐もボイン好きでしょ」
大佐は、俺の台詞に何故か渋い顔をして、それから妙に深刻な面持ちで首を振って言った。
「いや、あいつはロリコンだ」
不治の病を告知するみたいな潜めた声に、俺はまた、久々に傷に響くぐらい笑った。
「そろそろ戻れ。ひとりでブラついて、消されても知らんぞ」
止めた車にさっさと乗り込みながら言う、冷たい上官に思わず「押して帰ってくれないんスか」と恨み言を吐けば、「リハビリだと思ってやりたまえ。戻ってくる気があるならな」とニッコリと笑われた。無情にもさっさと閉る扉、車は橋の上をあっという間に走り去る。乗せてくれても、送ってくれてもよかないですか。
「……リハビリ、ねえ…」
まあ、ぼちぼちやりますか。
ソラリスが欲しがっていた物が何か、にも興味はあるし。
下ってきた坂は、今度は手強い上りになって立ちはだかる。
俺は両腕を軽く叩いて気合いを入れ、また車輪を回しはじめた。
(2004.10.13)
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