工具箱

どうして軍人になったんだ?って訊かれることが時々あります。

僕の国は軍事国家ですから、軍で働くことは全く珍しいことではありません。公務員になるようなもの、と言えばすこしお気楽過ぎますか。警察官…それもやはり違いますね。でも、荒事に長けた人ばかりが集まっているわけではないのです。僕の祖父も、通信兵としてイシュヴァールに参戦したんです。


祖父は村でいちばんの技術屋で、戦争に行くなんて言い出したときは家族全員で止めました。店は父に任せるといって、それでも出ていってしまった祖父と、祖父の友達の、旅行にでも行くような楽しそうな後ろ姿を、僕達はとにかく帰ってきてくれと祈って見送りました。驢馬が曳く荷車に乗って、愛用の工具箱と酒瓶を掲げ、祖父は路の向こうに小さくなりながら、何度か笑顔で振り返りました。




祖父が帰ってきたのは、戦争がようやく終わったという噂が村に流れて数日後でした。魂の無い、抜殻になった祖父の身体を、何人もの兵隊が連れて帰ってきたのです。みんな、通信兵や整備兵でした。祖父と一緒に村を出ていった親友も、一緒に祖父の柩を担いでいました。出ていったときと同じ、夕陽が暖かく照らす道を戻ってきたのです。


国家の紋章の刻まれた白木の柩が、家に運び込まれると、父が何度か思い切るように掌を握り締めてからその蓋を開けました。撃たれたという腹に血を黒く吸った包帯が巻かれてはいましたが、その顏はとても穏やかでした。血や死の匂いよりも、香木でもあるその柩の匂いの方を鮮烈に憶えています。


柩を囲むようにしていた兵隊達が、「ジイさん」「ジイさん」と呼んで、顏が見えた途端に泣き始めました。祖父の親友は、少し離れた椅子に座って、膝の上で指を組み、ただただ黙っていました。軍用コートのフードを深く被り、頬まで髭に覆われて俯く、その表情はよく分からなかったのですが、祖父のために祈る神父のような厳粛な佇まいでした。


二十歳ぐらいでしょうか、金髪の若い兵隊が身を乗り出し、柩のなかの祖父の頬を撫でて「ジイさん、ありがとう。本当にありがとう」と、澄んだ涙を幾つも零しました。僕はそれを見た途端、祖父は僕にこれが見せたくて、出征したんじゃないかと、雷に打たれたように震えて感じました。それぐらい彼の涙は綺麗で、次から次へと溢れて、祖父の皺だらけの顏を滑っていきました。


祖父はのんびりと平和に、この村で寿命を全うするよりも、苛烈な場所で、ひとりでも多くに少しでも深く、自分の技術を伝えて死にたかったんじゃないか。いつも優しくしてくれていた祖父の、激しさや強さに初めて触れて、僕はそんな祖父をとても誇らしく思ったんです。


母が離れを掃除して、兵隊達に寝床を作ったので、夜更けにはひとりひとりと別棟に移っていきましたが、その若者と祖父の親友だけは、柩の傍から離れませんでした。

父は隣の部屋で「親父を取られちまった気がするなあ」と苦く笑いながら、それでもやはり、そんな祖父の生き方を羨むような目をして酒を飲んでいました。朝、僕が階下に降りていくと、若者はまだ眠っていましたが、祖父の友人は姿を消していました。自分の家に戻ったのかと思っていたら、そのまま村を出て、また何処かへ行ってしまったようなのです。僕はしばらく、もしかしてあれは幽霊だったんじゃないかと思ってドキドキしたものです。(父も母も彼を見たというので、きっとそんなことは無いのですが)





数年後、僕が軍に入りたいと言ったとき、父親は少し悲しそうな顏をしましたが「そんな事を言い出すんじゃねえかって、覚悟はしてたがなあ」と腰を上げ、手に祖父の遺品である赤い工具箱を下げて戻ってくると「持ってけ」と差し出しました。

ずっしり重いそれを受け取りながら、ふとあの日の、あの金髪の青年が瞼に浮かんで、祖父は本当ならこれをあの人に使って欲しかったんじゃないかとか、錆びた手触りの鉄の箱を撫でながら思いました。名前も知らない彼は、今も軍にいるのだろうかとも。万一出会えたら彼に渡そう。それまでは僕が使おう。そう心に決めて、僕は東方司令部で働き始めたのです。









で、東方司令部です。

二週間前に、僕らの新しい上官がセントラルから赴任しました。ロイ・マスタングというその若い大佐は、軍では知らぬ者の無いイシュヴァールの英雄です。

僕はもっと尊大な人かと想像していましたが、…尊大じゃないとは言いませんが…、思ったより普通の人です。尊大というよりも、何かに無頓着な気配があります。きっとそれは、彼が錬金術師という学者肌だからだと思うのですが。嫌う人には嫌われるでしょうが、放っておけないような風情もあるのです。当たり障りも隙も無い人間より、僕はそういう人のほうが魅力的だと思うのですが。


ただ、残念ながら、僕は彼が視察や巡回をするときに、僕がお供として呼ばれることは殆どありませんでした。運転手は少尉がするし、護衛は中尉が。あまり人をぞろぞろ連れるのも好まないようで、ときどき運転手が入れ替わるだけ。人数が増えることは無く、司令部を出る彼の車をいつも敬礼して見送りました。





その日も車庫から出る車を見送って、僕はその傍に立つ低い鉄塔から、壊れたスピーカーを外して直していました。地面に胡座をかいて、膝の上に大きなスピーカーを抱えて格闘していると、ふっと影が差したので顏を上げました。


「よ、曹長」


彼が大佐の友達で、セントラル勤務の中佐であることは知っていました。先日、初めてやってきて、散々大佐をからかっていった人です。一瞬名前が出て来なかったのですが、聞いたときに、何て親しみが湧くんだと思ったはず………。スパナ、レンチ、ドライバー…、いやヒューズ、ヒューズ中佐です。

慌てて立ち上がり、敬礼をすると「おー、邪魔してすまん。暇だから遊んでくれねえか」と、自分も地面に胡座をかいて座ります。きっと大佐を揶揄いに来たのに、留守でガッカリしているんでしょう。僕はそんな彼の仕種を、何だか子供みたいだと可愛らしく思いながら、「今日はもうすぐ帰って来られますよ」と慰めるようなことを言い、もう一度会釈してその前に座り直しました。


「俺の事は気にしねえで続けてくれ。暇だから喋るけど、ラジオだとでも思って聞き流してくれ」


そんな訳にもいきませんが、何度も「ほれほれ」と促されて、スピーカーをまた抱えました。先日の嵐の後、音が出なくなってしまったのです。後ろの螺子から外し始めると、中佐は興味があるのか僕の手許を眺めています。


「年季の入ったドライバーだなあ」


職人の心意気を感じるね。そう感じ入った声で言われて、僕も思わず口が緩みました。


「祖父の物なんです」


中佐はまた感心したみたいに「へえ」と言い、僕の横に置かれた赤い工具箱へ目を向けました。「そっちも?」「こっちもです」赤いペンキが禿げた工具箱を、僕はなんとなく塗り替える気になりませんでした。みずぼらしくも見えるそれを、中佐は「カッコイイな」と言ってくれました。僕はもっと祖父のことをこの人に語りたい気もしたけれど、カッコイイという一言で、もう充分なような気もしました。



螺子を外し、千切れていた配線を直して、元に戻し始めても、中佐はまるで手順を憶えようとするみたいにじっと僕の手許を見ているから、何だか恥ずかしくなってきて、照れ笑いを浮かべながら言いました。

「こんなこと、錬金術師だったら一瞬で出来るんでしょうけど」

だからってまさか、大佐にスピーカーを直させるわけにはいかないけれど。中佐は目を丸くしてから、その目を笑みに細めて、「錬金術より、こういう手仕事のほうが見てて好きだぜ、俺は」と言いました。


「こういうの見てると、何か安心すんだよな。壊れても、人の手で何でも直せるっていうか」と言い足しもしました。


僕は、軍に入ったものの、そこは祖父が身を投じた戦場のような世界ではなく、どこか過ぎるほどに穏やかな組織であることに、少しアテが外れたような気分になることがありました。これなら、家にいて、あの村のために働いていても同じなんじゃないか。日々、修理と雑用に追われて、別に軍にいなくても…と、ふっと思うことも半年に一度ほど。誰かに大袈裟に認められたい訳ではないんです。ただ、存在意義や、自分の居場所というものを青臭く考えてしまうときがあるんです。

だから、そんな一言で、僕は随分心の底が温まりました。彼のように感じてくれる人が、此処にもきっと居てくれるんじゃないかと思えたんです。何かお礼を言いたいけれど、上手い言葉が出てこなくて、ドライバーをぎゅっと握りました。


「医者と食い物屋と修理屋が近くにいりゃあさ、とりあえず安心っつうか」


ここ、器用な奴少なそうで、お前さん大変だろうけど。そう言って脚を組み替える中佐の顏を見て、僕はふっと、あの幽霊…、いや、祖父の親友に、顏は似ていないけれど、髭と眼鏡が似ているのだと思い至りました。あの人みたいに、彼が突然消えたらどうしよう。今思えばそれは予感にも似て、きゅっと胸が痛くなるような連想でした。



修理が終わったスピーカーを鉄塔の先に取り付けて、地上に戻ってきた僕に、中佐は拍手をしてくれました。「テストしようぜ」と言うので、車庫の前に備え付けられているマイクの前へ案内したら、「あ〜〜〜、テステス、あ〜〜〜、もうすぐエリシアちゃんの誕生日〜」なんて言うから、僕は慌ててスイッチを切り、二人で顏を見合わせて笑いました。まるで家族みたいに。



「こういうさ、技術ってホント凄いよな。電話とか蒸気列車とか、俺にもカラクリが分かって面白い。錬金術も理解るだろってロイは言うけど、俺はどうも分からん。銅が鉄になる必要もねえし、鉄を金にする必要もねえと思っちまうんだよな」



銅は銅の分量だけ仕事があって、鉄は鉄の分量だけ仕事があるんだ。それは錬金術師が村に入ってきたときに、祖父が苦々しく言った言葉でした。何にだってやることがあんのに、元を都合良く組み換えてたら、そのうち罰が当たっちまう。


マイクを戻しながら中佐は言い、少し間を置いてから「いや、錬金術が悪いとか、無駄だとか言うわけじゃねえんだが」と付け足して頭を掻きました。大佐の傍に、こんな人がいるのは本当にいいな、と、僕は微笑ったまま思いました。大佐が無頓着に扱って取りこぼしてしまう大切なことを、この人はよく見ていて、後から拾っていってあげるんだろうなと。


「面白いですね、中佐って」
「ハア?」
「普通で」


簡単すぎて、取り違えられても仕方のないような言葉だったのに、中佐はきちんと受け取ってニヤリと笑い「お前も普通だろ」と僕の額を指でつつきました。その長い指が、僕の眼鏡をひょいと外して攫っていきます。「ぶ厚いレンズだな、お前さん視力は…」



その時、門から一台の黒塗りの車が戻ってきて、僕達の前を通り過ぎました。エンジンが止んで、車庫の中で扉が開く音がします。中佐は「お、帰ってきたぞ」と言いながら、僕に眼鏡を戻してくれました。まだぼやけたような視界に、車から降りて出てきた大佐が見えます。


「よっ、お疲れさん」


ふざけて敬礼してみせる中佐に、大佐は胡散臭そうな一瞥をくれてから、目を丸くして、ぷっと噴き出しました。それから僕の顏を見て堪らないように腹を押え、げらげらと笑い出したのです。何が起きたのかさっぱり分からない僕を、大佐の後ろからひょいと顏を出した少尉が見て「うわっ…、似合わねえ…」とやはり大笑いし、救いを求める目で中尉を見つめれば、彼女も横を向いて笑いを堪えています。


「…な、なんで笑ってるんですか、皆…」


横からそろっと中佐の顏を見上げると、その顏に僕の眼鏡が乗っています。黒い縁の、まあるい…。それはとてもユーモラスに彼の顏に映えて、まるで喜劇役者のようです。もしやと思って自分の顏に触れてみれば、細いスクエアのフレームが乗っています。ちょっと自分の顏が見てみたい気がしながら、僕も中佐の顏に笑い、中佐も僕の顏に笑いました。


「お前は余計に馬鹿に見えるし、曹長は陰険に見えるぞ」


まだ笑いを収め切れない様子で大佐が中佐に歩み寄り、その顏からひょいと僕の眼鏡を取りかえしてくれました。僕の手に丸い眼鏡を返すと、代りに細いフレームを奪っていって、中佐の耳に引っ掛けました。不思議に手慣れたような仕種で。その密やかな親密さは、僕に祖父とあの若い兵隊…祖父とその親友を思わせました。二人は戦場で一緒だったと聞きます。命のやりとりをしないと生まれない絆ってあるんだろうか。それでも僕もいつか、いろんなことを重ねて、そんな絆を持てるようになるんだ。此処で。そう、願うように強く思いました。


「遊びに来たんじゃないんだろう、ついて来い」


眼鏡の蝶番から指を離して、大佐はそう言い捨てると、さっさと官舎へと歩き出しました。そして、二・三歩歩いてから突然振り返り


「曹長には似合っている。曹長は馬鹿には見えんからな」


と言い、また大股に歩いていきました。中佐は掛けてもらった眼鏡のブリッジを軽く指で持ち上げながら「あれ、フォローのつもり」と肩を竦めて僕に笑いかけました。僕は頷いて笑い返し、慣れた眼鏡を掛け、車庫の扉を閉めるために外へ出ました。


「な。ロイも普通だろ?」


中佐は少し声を潜めて僕に囁き、僕も「普通ですね」と、先刻の笑顔を思い浮かべながら言いました。僕の返事に嬉しそうに目を細め、もう少し遠くなった大佐の背中を追いかける、中佐の後ろ姿を見送りながら、いつか、あの人に祖父の話がしたい、聞いて欲しいと思いました。



重い鉄の扉を閉めると、工具箱を拾い上げ、僕も官舎へ戻りました。

僕の大事な場所へ。


















(2004.09.30)