恐喝に参りました

それは酷い雨の夜だった。
私はふと、私邸の前を何度も同じ車が通り過ぎるのに気付いた。


書斎の窓へ寄ってみると、窓を激しく叩く雨の向こう、黒く濡れた石畳の上を、何度も車のサーチライトが照らしては通り過ぎる。通り過ぎては家の角を曲がり、家の敷地を一周してはまた戻ってくるのだ。


東方でまた怪しい動きがあると報告は受けていたが、テロリストにしてはどうにも優柔不断だ。ジャッと水を弾いて行き過ぎる走行音は目立ち過ぎで、警戒心の欠片も感じさせない。


何周目か、ようやく車は門扉の前へ止まった。止まったが暫く、誰も降りてくる気配がない。温くなったコーヒーを飲みながら、暗い外を眺め遣っていると、突然、後部座席の扉が跳ね飛ぶみたいに開いて、夜にパッとピンク色の傘が開いた。おや、来客は女性のようだ。こんな夜にいじらしい。私を油断させる策かもしれないが…。そんな事で油断すると思われているのなら、酷く舐められたものだ。

表から来る人間は陽動だろうか。そんな事を考えながら銃に弾を込めてホルスターへ差す。二階から玄関ロビーへ続く階段を降りていくと、丁度扉がノックされた。住み込みの警備兵が内側から誰何する。


張りのある、歯切れのいい発音が雨夜に響いた。



「エリシアよ!エ リ シ ア・ヒューズ!
 寒いわ、早く開けて!」




テロリストの方が、時間を喰わなかったかもしれない…。






片手に嵌めかけた手袋を丸めてポケットへ戻し、警備兵に目でもういいと合図を送ると、私は扉を開いた。石畳を叩いて跳ね上がる雨。部屋へ水の匂いと冷気が風のように入り込む。

愛らしい刺繍を施した傘の下、愛らしい顔に似合わない不機嫌そうな顔で、緑の眸が私を睨み付けた。白いコートの肩に、珍しく束ねていない金の髪が零れている。コートの下は短いツイードのスカートだ。毎度毎度短すぎる。雨がブーツの爪先に染み込んでいる。


「寒ければもう少し長いスカートを穿きなさい。グレイシアにはちゃんと言ってから来ただろうね?」


渋い顔で扉を開けてやっても、何かを探る眸でじっと私を見たまま其処から動かない。扱い難い年頃だ。そういえば私が士官学校に入った年になったのだったか。止まっていた車が動き出し、今度こそ走り去る。


「…用が無いなら、家に帰りなさい」


車を待たせなかったから、当然家に上がる気なんだろう。返事もしない態度と、何より弾劾するような視線に、私は少し意地悪な気持ちになって、わざとらしい溜息と共に扉を閉じようとした。するとその狭間に綺麗に爪を整えた華奢な指が差し入れられ、思わずぎょっとして閉じる手を止めると、その細腕が強引に扉を引き開けた。


「用ならあるわよ」


エリシアは天井の高いホール一杯に声を響かせて言った。




「大総統を、恐、喝、に参りました!」




すらりと鼻先に突き付けられる一枚の写真。


何だこれは。何でこんな物が存在するんだ。
いや、何故エリシアが持っているんだ?


彼女の声に驚いて、また階段裏の部屋から出てきた兵を慌てて下がらせ、雨に冷えた細い手首を写真ごとひったくって、階段を駆け上がった。







書斎に押し込むと、エリシアはソファに座って、差し出したタオルで黙々と髪を拭いた。私は押収した写真を、苦い気持ちで眺める。


「……、これは確かに私だろうが、何故これが恐喝のネタになる?」


タブロイド紙に売れば、まあそこそこ話題になるかもしれないが、大総統の数十年前の姿など、それが例え寝顔であったとはいえ、…微妙に半裸であったとしても…、スキャンダルとは言い難いだろう。それにしても全く憶えが無い。この、枕を抱え込んで締まりのない顔で惰眠を貪っている姿を、いつ、どこで撮られた?涎が垂れていないだけマシだが、本当に隙だらけだ。私はこんな顔で寝ているのか。よく女性陣から愛想を尽かされなかったものだ。


「どうして分からないの?もうボケちゃったの?ロイ」


手厳しい台詞を吐いてから、エリシアは「ミルクティ」と一言注文した。ここは喫茶店ではないのだが。私は渋々人を呼び、彼女のオーダーを伝えた。やがて、気の短い彼女の為に急いで煎れられた紅茶が運ばれると、一口啜って生意気に満足そうに頷いてから、ようやく種明かしが始まった。



「その写真はね、パパのカメラに入ってたのよ」



どこか窓が開いているのだろうか、さっき扉を開いたときよりも強烈な寒気が、突然私を取り囲んだ。



あの馬鹿
あの馬鹿
あの    馬    鹿 …!!



コールドスリープに入った私を、小気味いいように鼻で笑ってエリシアは続けた。


「パパの愛用のカメラをね、ずっと前からいつか使おうって置いておいたの。
 でも私もママもそういうのが苦手で、放ったらかしにしてたのね。
 少しアンティークで使い方もよく分からなかったし…
 戦時中にパパが譲り受けた物なんですって。あちこち壊れてるの」


それならいっそ、柩に一緒に入れてしまえば良かったじゃないか。形見分けをするとグレイシアが電話してきたとき、どうして私は「何もいらない」などと格好を付けたんだろうか。いやしかし待て、これだけでは全く証拠にならない。落ち着け。

続く話を要約すると、カメラに興味のあるエリシアのボーイフレンドが、彼女の部屋に置いてあった件のカメラに大興奮し、修理してみせるからと預っていって、数週間後、シャッターの軽くなったカメラと一緒に、中に入りっぱなしになっていたフィルムを取り出してくれた。エリシアはそれを現像に出したという訳だ。


「何だかこの写真って…、つまり…どういうこと?
 ロイの前髪撫でてる手って、パパの?」


もし私が女性であれば、言い逃れが出来ないほど妙なムードを匂わす一枚だ。
いや、女性ならもう少し何かがマシかもしれない…。






「……はは、妙な写真が出てきたものだな…」


喋りながら言い訳を考えるのは苦しかったが、沈黙が長いのもまた不利だ。しかし声が妙に裏返っていて、いっそ黙っていた方が良かっただろうかと纏まらない頭で考える。シーツが掛かっていて腰から下は見えないが、とりあえず上半身裸の私を、自然にヒューズが撮影する場面を考えろ。至急思い付け。大丈夫、よくあることだ。士官学校の頃、よく寝てる奴に酷い悪戯をしたりしたじゃないか――。しかし、この写真の自分は、どう見ても学生ではない。



「…まあ、どういう経緯で撮られたのかは知らないが
 夏は何も着ないで寝る事もあるからな。
 出張にでも来ていた奴が、戯けて撮ったんじゃないか?」



よし、あとは呆けよう。エリシアは血の気の色が戻ってきた唇をカップから離して、全く及第に至らないレポートを受け取った教官のような顔で首を振った。


「その写真の前に、私の三歳の誕生日の写真があったの。
 私の誕生日は冬でしょ?裸で寝るには少し寒くないかしら。
 ロイは『夏は』裸で寝る事もあるのよね?冬はそんなことしないからそう言うんでしょ?」


言葉尻を押さえられ、写真を手にする私の頬が強張った。エリシアが三歳の夏、ヒューズはもうこの世には居なかった。









もし、私がこの一件で罪に問われるとすれば、やはり有罪なのだろうか?ひとつ、申し開きをさせて貰えるのであれば、私と奴の行為に深い意味は無く、動物がお互いの毛繕いをするような…、蚤を取るような…、シンプルで本能よりも本能的な…。寒い夜に焚火があれば、誰でも手を翳すだろう?

そういう物があの戦場では必要で、生還してからも続いたのは悪癖ほど止められないという事であり……。議長、申し開きになっていないので撤回します。


脳内裁判に敗訴し、私は開き直った。









「なら冬なんだろうが、全く憶えていないから答えようがないな。残念だが」


「ふうん…」と意味ありげな視線を向けてから、エリシアはソーサーにカップを戻し、立ち上がると私の傍へ歩み寄って手を差し出した。


「じゃあママに見せるから返して」
「なっ」
「ただの可愛いロイの寝顔だっていうなら、ママに見せたって問題ないでしょ?」


(1)こんな顔を人に見られたくないと言って写真を破く
(2)とぼけ切って写真を返す


二択が咄嗟に浮かんだが、エリシアのことだから破けば焼増しするだけだろう。この年頃は大人の嘘を看過しないものだ。「はい、返して?ロイ」と重ねて言い、明らかな作り笑いを浮かべるエリシアに、この陰険さは本当に父親譲りだとつくづく思いながら、私はその世にも恥ずかしい写真を白い手に返した。







夜は更けて、表は小雨になっていた。

私は車を出すように伝え、エリシアを家まで送り届けるように指示して用意が整うのを待った。玄関の前に着いた車に小悪魔が乗り込むと、嵐をやり過ごした疲労感がどっと押し寄せた。座席の窓が開いて、暗闇でも薄い色の眸が、幾分しおらしく私を見上げた。


「ごめんね、ロイ。私、勘違いしてたみたい」


何だ、突然何の芝居だ。とりあえず鷹揚に頷いた。


「私…、今、士官学校に通ってる人に聞いたの。
 軍隊って男の人が多いから、そういう…ね?」


ね?と言われても非常に困るのだが、まあここで頷いても問題あるまい。


「でもまさかね。
 それにこれ、パパとママのベッドだし」




まさか。



あいつの家に行った事は何度もあるが、何度だろう、いや何度も行ってはいないな、セントラルに行ったときは基本的にホテルを取るから、あいつの家でそんな事は無いだろう、いくら何でも、いくら酒が入ったりしたとしても、悪戯けで済まない、それはいくら何でも、そんな酷い事があれば少しは憶えているはずだろう?!



「ねえ、こんな時間に帰ったらお説教されちゃうわ。
 『私が引き止めたんです』ってママに説明して。お願いロイ」


私は本当にボケてしまっているんだろうか?真っ白になっている間に座席の扉が開いて、私は車内に引っ張り込まれた。エリシアはまるで自分の運転手に言うように「出して」と貫禄たっぷりに告げ、霧のような雨のなかを、車は郊外の家へと向かった。








私が深々と「エリシアを引き止めて申し訳ない」と頭を下げると、グレイシアはぽかんとしてから、「この子がこんな時間に帰ってくるのなんて、いつもの事です」と笑った。揶揄われたのかハメられたのか、そんな事情ならさっさと帰ろうと踵を返すと、せっかくですからお茶でも、と、たおやかな手にリビングへ連行される。もうどうにでもなれ。半ば自棄を起こし、私は見覚えのある部屋へ通された。


「この家に来て下さるの、本当に久し振りですね」


相変わらず美しいグレイシアが、いつか奴が持ってきたのと同じアップルパイと紅茶を勧めてくれる。本当にここは時間が止まっているかのようだ。今にもあの扉から、ヒューズがひょこっと顔を出しそうな…。




今出したら、顔の形が変わるぐらい殴ってやるんだが。




エリシアは一度部屋へ戻り、淡いブルーのワンピースに着替えて降りてきた。沁みるほど優しい微笑みを浮かべ、お忙しいでしょうと私を労ってくれるグレイシア。無沙汰を詫び、当たり障りのない世間話をする私。その両方を交互に眺めて、今にも何か言い出しそうなエリシア。そろそろ帰ってしまおうと紅茶を飲み干したところで、エリシアが口を開いた。


「ロイはあんまり、この家に来なかったの?」


思わず紅茶を噴き出しそうになりながら、私は視線をテーブルへ落とした。


「そうね、何度か…数えるほど、かしら?」


記憶を辿る顔の母親に、エリシアはまた一言訊いた。


「泊まったりしたことは?」


確かに私は嘘をついたが、それは糾弾されたくないからではなく、家族のことを思えばなのであって、こんな窮地に追い込まれるとは…。しかし追い込まれるということは、やはり有罪なのだろうか。私はこれからどういう展開が待っていようと、従容として受け入れる腹を決め、落としたりしないようにカップをテーブルへ戻した。

どうだったかしら…と首を傾げるグレイシアに、さすがに少し迷ってから、エリシアはさっと、あの写真を差し出した。グレイシアは掴み所の無いような駘蕩とした表情のまま、それを手に取って眺めた。



「まあ…」



針の筵とはこのことだ。私はただ息を詰めて、彼女の言葉を待った。すると、グレイシアが小さく、くすっと笑うのが聞こえて耳を疑った。



「懐かしいわ、クリスマスに貴方にプレゼントを持ってきて下さったときに」




クリスマス。そんな家族団欒に、私が紛れ込んだことがあっただろうか。いや、あった気もする。何かのパーティーがこの家であったとき、何度か顔を出したような…。



「ワインをあの人と開け過ぎて、シャツもシャンパンでびしょびしょに濡らしてしまって」



シャツを。顔を上げると、グレイシアは写真を見たまま言葉を継いだ。



「酔い潰れてしまわれたから、二人で苦労してシャツを脱がせて、ベッドに運びました」





まさに、曇天が割れて一条の光が差し込んだ思いだった。言われてみれば、そんなクリスマスがあったような気がする。





「あんまり可愛らしいお顔で寝てらしたから…、あの人が部屋にあったカメラで撮ったんです。本当に申し訳ありません」





いえ、と、私はグレイシアの笑顔に頭を下げた。「あの人、『こんな子供みてえな顔してっけど、こいつは絶対大総統になる』って言って、嬉しそうに貴方の寝顔をいつまでも見てたわ」その静かな声音に、彼女の芯の強さを感じ入った。奴が居なくなった頃は、何かを思い出す度に辛かっただろうに。もう、突然呼び起こされる記憶にも、乱れること無くこうやって穏やかでいられるのだな思うと、ほっとすると同時にどこか寂しくもある。年月というものは優しくて残酷だ。神のように。


容疑が晴れた私は、緩む気持ちをなるべく顔に出さないように気を引き締めつつ「ああ、そうだったかもしれない…、すっかり忘れていました。その節は御迷惑をお掛けして申し訳なかった」と卒なく言った。目を丸くして聞いていたエリシアは、「ええ〜…?」と気が抜けたような声を出して、ソファにだらしなく脱力し、「つまんなあい」と唇を尖らせた。つまんない?つまんないだと?先刻まで、私の家で酷く傷付いたような顔をしていたのは一体どこの誰だ。何を期待して車を飛ばして来たんだ。近頃の若い娘は…。





「明日も学校でしょう、そろそろ休みなさい」


そう言われて、エリシアは「はーい」と素直に返事をして立ち上がり、母親と私の頬におやすみのキスをした。私の頬に触れた唇が、もう一度「つまんない…がっかり」と意味の分からぬ事を呟いた。よっぽどその頭をはたいてやろうかと思ったが、ひらひらとスカートの裾を揺らして廊下へ逃げてしまった。


「変な子…。あ、こんな時間になって、あの…こんな家ですが、宜しければ泊まっていかれますか?」


グレイシアが娘の後ろ姿を見送ってから、少し慌てて言うのに、私は笑って手を振った。


「いや、車も待たせてますので結構です。
 それでは夜分突然に訪問して失礼しました」



美しい未亡人は、私を玄関まで送ってくれた。雨は上がり、薄くなった雲の間から細い月が覗いている。コートの襟を正して敬礼すると、彼女はにっこりと笑って「久し振りにお会いできて嬉しかったです。あの人の話が出来る方なんて、もうあまり居なくて…」と、後半はやや寂しげに言った。忙殺されているとはいえ、滅多に顔を出さないなんて、私は薄情だっただろうか。手を降ろし、少し迷ってから口を開いた。


「私こそ、本当に楽しかったです。忘れていた事も思い出せましたし…。
 また、是非寄らせていただきます」


するとグレイシアは腕を組み、悪戯っぽく笑って言った。





「本当に、そんな事があったとお思いですか?」





えっ…、あ…あったんじゃない…のか…?
まさかあれは思い付きなのか?
愕然とする私のコートのポケットに、彼女の手がするりと例の写真を押し込んだ。問い正そうとする私の唇の端に、掠めるようなキスが触れて言葉を封じた。






「冗談ですわ。おやすみなさい、私達の大総統」





完璧な微笑というものがあるのなら、今まさに、私の目の前にある彼女の笑みだろう。扉が静かに閉じてから、冗談というのはいったいどっちのことだと、呼び鈴を鳴らしてでも訊きたい衝動にかられた。が、彼女はきっと、はぐらかして答えてくれないような気がする。



とりあえず、今夜のところは、彼女がくれたキスの優しさを信じて寝よう。


唇の端を撫でながら、私は己の影を踏んで車へ戻った。

















ロイは大総統にならないと思いますけども…。(2004.10.08)