プリズム
誰かに呼ばれたような気がして、振り返ったショーウインドウの中に、それはあった。
眼鏡屋らしからぬ重厚な扉を押し開け、手に取った細い銀のフレーム。
似合わない、なんてことは掛けてみる前から薄っすらと分かっていたけれど、横から覗き込んだ店主は大袈裟に眉を上げて、洒落者らしい嫌な笑い方をした。全く似合っていない服を試着した、田舎女を小馬鹿にする顔で。
「お客様は、もう少し丸いフレームの方がお似合いだと思いますがね。
お顔の雰囲気も柔らかいですし…」
そう言いながら返事も待たずに、私が持っているのと大差ない眼鏡を数点取り出すと、ショーケースの上へ並べ始めた。慇懃無礼な態度が勘に触る。一方的にまくしたてる声の、とにかく何か買わせてしまおうという押し付けがましさにうんざりする。
思わず漏らした溜息に、店主はようやく私の不快を感じ取り、取りなし顔で軽薄に笑った。
「勿論、そのフレームがどうしてもいいと仰るならそちらでも宜しいですがね。
長く使っていくうちに、馴染んでくるということもありますからね」
言われてようやく、私はまだ、そのフレームを握っていることに気付いた。
それは見れば見るほど、彼の物と同じなのだ。
だからといって、これを買ってどうするというんだろう。
自問は、深く沈んで胸の奥を掻き乱した。
私は慌てて論点を摺り替えた。
そうよ。
あの人の物と同じフレームが、こんな嫌な店に飾られているのは嫌だ。だから私が引き取らなくては。
「これにします」
レンズを入れますか?と訊かれたけれど、私は黙って首を横へ振った。
ニヤニヤしながら店主が外した正札には、さっと青ざめるような金額が小さく書かれてあった。
執務室へ呼びつけられる間、私は眼鏡と交換に失った、今月の給料のことを悶々と考えていた。家賃より高い眼鏡が胸ポケットに重い。
「この資料を片付けろ」
新しい上司は頬杖をついて、机の上に積み上げたファイルと本を端へ寄せた。無造作な扱いに、資料の山は崩れて床に散らばる。慌てて絨毯に這いつくばって拾い上げると、革張りの椅子に深く腰掛けた新任の男の醒めた一瞥を感じた。
中佐なら。
あの人は本を大事に扱う人だった。決して書き込みなどせず、必要な部分を手帳に書き写した。頁を折らず、付箋を使った。一度、ふたりで資料を探したとき。私がうっかり高い書架から本を落とすと、下で本を受け止めて「お前さんまで落っこちんじゃねえぞ」と笑ってくれた。私の昇っている脚立を支えながら。
拾った資料を大事そうに抱える私を目障りそうに眺め、男は「さっさと行け」と吐き捨てて手を振った。どうしてその席にこんな男が座っているんだろう。頭を下げながら、悔しくて唇を噛んだ。あの人が毎日握ったノブを、静かに押しながら涙が出そうになった。
書庫の鍵を借り、目の前が見えない高さの資料を抱えて廊下を歩く。
「シェースカ!」
よっぽど不機嫌な顔をしていたに違い無い。後ろから追い付いた同僚は、横から顔を覗き込んだ途端ぷっと噴き出した。
「半分持ったげるよ、ほら」
「…大丈夫よ」
「そんな両手いっぱいにして、どうやって鍵開ける気?」
彼女は手を伸ばして、資料のいちばん上に乗せた鍵ごと数冊を引き取ってくれた。
「…ねえ、辞めるとか言い出さないでよね」
云われて、初めて辞めるという選択肢もあるのだと気付いた。でもそんなことをしたら、中佐はきっとがっかりするだろう。役に立たない本の虫に、天職を与えてくれた人。私に居場所を与えてくれた、強引で優しい人攫い。
「辞めないわ」
辞めるわけがない。
あの人が手を引いて、連れてきてくれた場所から逃げ出したりしない。
私は唇を引き結んで、力強く宣言した。
「何年だって居座って…
あのボケが座ってる椅子に、私が座ってみせるわ」
並べた肩を震わせながら、彼女は抱えた本を抱き締めて笑った。
私も、自分の途方もない思い付きに少し悦に入った。
彼女は鍵を開けると「手伝いたいけど、シェスカが一人でやった方が早いよね」と笑って仕事に戻った。薄暗い書庫に満ちる、古い紙と埃の匂い。黴臭くて苦手だという人も居るけれど、私はここの空気を吸うとすっと落ち着く。背表紙が私に語りかけてくる。寡黙な本もあれば、お喋りな本もある。すこしお高くとまった学術書、人懐っこい流行小説。地図は博識なお爺さんのようだ。本はどれも人生の断片で、どれも愛おしくてたまらない。
ファイルと本を分ける。裁判記録と事件簿、調書、年表。中佐が関わっていた事件の資料だ。手が届く本から棚に戻す。一冊一冊、背表紙を撫でて。資料の他に、北の国の詩集が紛れていた。厳しい気候の、ほんの一瞬の春を謳う鋭い幻想。昔、読んだことがあったけれど、もう一度読みたくなって借りる事にした。
どんな本が好きなのかなんて、そんな会話を交す間も無かった。私にとって、ドラクマの春より短い彼の存在。カウンターに詩集を置き、最後の一冊の分類コードを調べる。
最後に残った本は、見覚えがあった。
書架のいちばん上列にあった分厚い本。
私が脚立から転げ落ちながら取った本だ。
そう、中佐に支えて貰ったというのに、私は落ちる本に腕を伸ばし過ぎてバランスを崩した。天地が入れ替わったと思うと、膝を脚立のどこかに強くぶつけた。痛みに呻く間もなく、傾いだ脚立と一緒に床に叩き付けられる――筈だったが、強く目を瞑った私は、何かに抱き止められ、板張りの上を転がって倒れ掛かってくる脚立から逃れた。
「は〜〜、あっぶねえ〜」
脚立が床に倒れる激しい音に身を竦ませた。私を床へ押し付けた中佐がそろりと離れる。書架と書架の間、そう広くはないスペース一杯に脚立が横たわり、私はその硬い爪にどこも抉られなかったことに思わず深い安堵の溜息を漏らした。
「どっか痛くねえか?…あー…、やっちまったな」
まだぼうっと放心していた私は、脚の痛みを感じる前に抱き上げられて狼狽した。
「やっ、ややや、止めて下さい、降ろして」
「歩くと痛えだろ」
「痛くなんかありませんっ、歩、歩けますから…っ!」
中佐は器用に足で扉を開けて、ジタバタする私に閉口しながら医務室へ歩きだした。廊下に出た途端、すれ違う何人かが目を丸くしてから道を開けて敬礼する。
「ちょっ、も、大きな声出しますよ…!」
「もう出てる、抱え難いから動くな」
ここから医務室ってどれぐらいあっただろう。混乱してすぐに思い出せない。こんなとき、どこを見ていたらいいんだろう。前を向けば大袈裟に道を開ける人達と目が合うし、まさか中佐の顔なんて見れやしない。私はスカートの上でぎゅっと握った、自分の手をひたすらに見詰めた。
中佐から、薄い、トワレだかコロンだかが香った。奥様から移ったのかと思ったけれど、女性がつけるにはごくごくあっさりした香りだった。少し気のきいた女なら、香水の匂いを言い当てられたりもするだろうに。私が出来るのは、本のタイトルを聞いて、それがどこの棚の何段目辺に収納されているかを当てるぐらいだ。
私は身体を硬くしたまま運ばれながら、まるで深海に沈められていくようだと思った。小説では、好きな人に抱き上げられたりしたら、雲の上をいくような気持ちになるっていうのが定番なのに…、口を開いたら、そこからぼこぼこと空気が逃げて、息が出来なくて死んでしまいそうだ。早く降ろして欲しい、だいたい私はそんなに軽くないし…。
え?
ちょっと待って私。
好きな人って
頭が白くなった私に、中佐は「腫れそうだな」と心配そうに呟いてから、コホンと咳払いをひとつして、まるで娘に言うみたいに優しい声で「痛いの痛いの、飛んでけ〜」とまじないをかけた。
私が思わず小さく笑うと、「エリシアが転んだら、グレイシアが走っていって言うんだ」とどこか誇らしげに言ってから、また繰り返した。
その声を聞いていると、不意に切なさがこみ上げて泣きそうになったのを
思い出しただけで胸が灼けついた。
どうか、そんなに優しくしないで。
私は人に愛されたことがないから、すぐ勘違いをしてしまう。
何でも受け入れてくれるような目をして見ないで。
私はそんな目を、私だけを見てくれる人だけに許したい。
黙り込んで俯いた私に、「もうちょっとだからな」と励まして、中佐は歩調を速めた。
あのときの傷は。
私は追憶の鮮やかさに負けて、床へ座り込んだ。スカートの裾を捲ってみる。
膝下に、もうほんの薄い痕が残っていた。
キスマークならきっと色っぽい話にもなるだろうに、怪我の痕で偲ぶなんて。
私らしい間抜けさに、思わず気の抜けた笑いが漏れた。
私はあの人と一緒にいるのが楽しかった。
部下であることが誇らしかった。
それでいて、少し怖かった。
野暮ったい丸い眼鏡を外して、胸から細いフレームを取り出す。
レンズの入っていない眼鏡を掛ければ、世界は程よく暈けた。
私はあの日から、自分の気持ちを暈すのに精一杯だった。
足を投げ出して、カウンターに凭れて、静まった書庫をぼんやりと眺める。
あの書架と書架の間から、中佐がひょこっと顔を出しそうで。
幻を見るのも怖くて、天井を向いた途端に涙が零れた。
扉が開いたのは、その時だった。
まっすぐ差し込んだ光が、私の顔を正面から照らした。
眩しさに眉を寄せ、逆光に立つ人の姿に弱い目を凝らした。
後ろ手に扉を閉め、硬い床に靴音を響かせて一歩ずつ近付く姿。伸びた背筋。沈澱した書庫の空気が、ピンと張り詰めるような澄んだ存在感。
その顔がはっきりと見える前に、私は確信した。
ヒューズ中佐が見せてくれた写真のなかに、何度か写っていた東部の親友。
移動者のリストで中央に配属になったのは知っていた。
しかし突然すぎて、不格好に座り込んだまま立ち上がることも出来ない。
「シェスカ、だな?」
私はその低い声に弾かれ、投げだしたままの足を引っ込めて何度も頷いた。彼は満足そうに笑って私を見下ろした。中佐は彼に、自分の部署の写真も見せたんだろうか。新入りの私を、何といって紹介したんだろう。
「私は誰だか、分かるか?」
その問いにも、ただ頷いた。そしてネジの足りないゼンマイ仕掛けのようにぎこちなく立ち上がって敬礼した。
「なら話が早くていい。揃えて貰いたい資料がある」
有無を言わせない口調だった。まるで以前から私の上司みたいに。また頷きそうになってから、ハッと我に返って「申請が必要になります」と答えた。彼…、マスタング大佐は眉を軽く寄せて「適当に書いておけ」と命じた。私が当惑して返答に詰まっていると、「なら書庫の鍵を渡すだけでもいい」と重ねて言う。
「鍵は、…、書庫の、鍵は、関係者以外、には…」
しどろもどろになって答えると、埒があかないとばかりに溜息を吐かれる。私はあからさまに落胆されて辛くなった。何の融通もきかせられない、自分の立場が切ない。
針の筵に座らされた心地で俯いていると、大佐が少し、笑う気配がした。
「分かった、じゃあ賄賂といこう」
驚いて顔をあげると、大佐はゆっくりと胸から何かを取り出そうとしていた。「困ります、何を頂いても私…!」慌てて言う私の顔の前へ、白い指が一枚の写真を突き付けた。写っているのは白いワンピースの、愛くるしい少女の姿。
「どうだ。エリシアの写真をやる」
自慢げに口端を持ち上げて、中佐を真似て笑う彼。
私はぽかんとしてから、耐え切れずに身体を折って笑った。全然似ていないから、余計に可笑しいのだ。大佐は私をひとしきり笑わせてから、満足そうにその写真を差し出した。「…私も持ってます…」笑いにまだ震える声で打ち明けると、彼は「あいつは何枚バラまいたんだ」と苦笑して胸へ戻した。この人も、中佐の写真責めにあっていたんだ。そう思うと、感じていた威圧感は薄れて近しく思えた。
緊張が解けた私に、彼は静かな声で言った。中佐が何で殺されたのか、軍で何が起きているのか調べたいのだと。そんなことを、初めて会う私にきちんと説明してくれるのはきっと、中佐が私のことを信頼に足ると彼に話していてくれたからだろう。ならば私は、出来うる限りの協力を惜しまない。惜しんではならないと思った。私が使っていることにして、彼が書庫に入れば。そう提案すると、思いがけない素直さで「感謝する」と頬を緩めて笑った。差し出された片手を、加減も分からず、そっと握り返した。
中佐がいなくなっても、私はあの人に関れるのだ。此処に私が居る意味は在る。押し潰されそうになっていた温かい感情が、胸の奥に灯った。何だか不思議だ。中佐はまるで、彼が私を頼ってくることを知っていたような気がする。彼の辿る道筋を知っていて、其処此処にきちんと仕掛けを残しておいたような…。
まずはこの書庫へ戻した資料を揃えることにした。
最後に片付けた本をまた降ろすために、脚立を引っ張ってきて昇ると、不安定な脚の揺れが不意に止まった。大佐は隣の書架を興味深そうに眺めながら、片手で脚を支えてくれていた。
噂に聞く東部の出世頭は、尊大で、口が悪くて、抜け目が無くて、イシュヴァールでは誰よりも活躍した英雄で…。写真を見せられたとき、その幼いような顔に驚いてそう言うと、中佐は苦笑した。
「そんなんじゃねえよ、抜けてるし、放っといたら部屋も片付けられねえし…
まあ、仕事は出来るだろうがな。
女誑しィ?まあそりゃ…否定はしねえがな…」
ぼけっとしてっから世話好きな女が寄ってくんだろ。そう言ってから、俺もか、と情けなく笑って頭を掻いた。本当にその通りです、中佐。上から見る旋毛が無防備で、私ですら少し可愛いと思ってしまう。
本を抱えて床へ降り礼を言うと、支えていたことすら忘れていたように「ああ」と脚立から手を離した。飾らない人なのだ。それが誤解されたりもするのだろうけれど。中佐がこの人のことを始終気にかけていた理由が、朧げに分かる。重い本を手渡し、知らず微笑んだ私を、彼はじっと見て首を傾げた。
「レンズの入っていない伊達眼鏡は初めて見る」
掛けっぱなしにしていたのだ。私は慌てて「ち、違います、これ…は…」と眼鏡を外しながら、言い訳を探して唇を噛んだ。きっと赤くなったり青くなったりしている私を、彼は面白そうな笑みで見遣った。彼が無造作に一歩近付いた。何かを思い出しそうになる。何だろう。彼は気付いただろうか。このフレームが中佐の…。
「あれが好きだったのか?」
単刀直入すぎて、私は目を丸くすることしか出来なかった。言い訳の出来ない長い間のあと、ようやく消え入りそうな声で「…尊敬、しています…、上司として…」と返すのが精一杯だった。大佐はまだ少し笑うような目で見ている。そりゃあ、あんな綺麗な奥様のいる人を、私が好きだなんて可笑しいでしょうけど…。前言撤回、やっぱり可愛くなんかない。
「私も好きだった」
顔をあげると、彼はもう渡した本を読み始めていた。視線を上げないままに「揃えておいてくれ、会議に出てから戻る」と言い置いて背を向けた。
何だろう、この人は。
出鱈目に率直で、なのに複雑怪奇。
一歩先の言動がさっぱり読めない。
全く習慣が違う国の人みたいだ。
何でこんなに印象がバラバラなんだろう。
その不規則な乱反射が鮮烈で、胸を掴まれて目を逸らせない。
「その本は…、持ち出し禁止ですっ」
慌てて前へまわって止めると、「ヒューズも書庫で読んでいたのか?」と眉を顰める。
「中佐は特別です」
「あれが許可されて私がされないということがあるか」
「所属が違います…、付箋を貼っておられた頁に、また貼り直しておきますから…!」
そう言うと、口端を上げてようやく本を返した。駄々っ子をあやした気もするし、逆に自分がハメられた気もする。本当に掴み所がない。
「先刻の眼鏡だが」
すれ違いながら、笑いを含んで呟く。
ふわりと、薄く彼が纏う香りに、ようやく思い出しかけていたものが何かに気付く。
憶えがある筈だ、この…コロンだかトワレだかの香りは。
「いつもの丸い奴のほうが、君には似合ってると思うが」
終始、彼のペースで引っ掻き回されて、一矢報いたかったのかもしれない。あの憎たらしい眼鏡屋と同じ台詞に、思わず私は言い返してしまった。
「貴方のコロンだって」
口にしてから、自分に驚いて口許を押さえた。
扉に手を掛けていた大佐が、肩越しに振り返って、おや、という顔をして見せてから微笑った。
「これは元々、私がつけていた物だ」
本を抱えたまま、扉があっさり閉じるのを毒気を抜かれてただ見詰めた。
何かとんでもないことを聞いてしまったような気がするのは…気の所為だろうか。
気の所為だ。気の所為だ。
世界は少し、暈やけている方がいい。
私は雑念を払って、返却した本を揃え出した。
コミックス派の方には何のことやらさっぱりですいません…。(2004.08.20)