明るい青。アクリル絵具をぶちまけたような空だった。
雲も無い空の中で、一点だけの黒いシミ――カサギが高くゆっくりと旋回する。


事の発端は一枚の写真だった。


戦場に来て、はじめて配属された小隊に愛妻家がいた。従軍手帳に挟んだ妻子の写真を誰彼なく自慢して見せる、その陽気な男の名はクロフトといった。


「ポケットか何かに入ってねーのか?」
「無ぇんだ」
「ほんっとに落としたんだろうな?」
「落とした」


前夜の雨でぬかるんだ赤土の小路を辿り、昨日の砲火が焼いた集落を目指す。緩い上り勾配に足を取られる。

今思えば、全く馬鹿なことをした。戦列に加わって、数度の小競り合いを経験して、それで戦場を見切ったような気がしていた。出くわすイシュヴァール兵は、弾薬を惜しむのかパラパラと撃っては引いていく事が多く、何だ、これなら演習の方が辛いとすら思ったほどだ。十五名からなる小隊を早々に引き渡されて、のぼせ上がっていたのかもしれない。



「あそこだ、あの辺で見た」



雨が泥水になって溜まった塹壕を見つけたクロフトが早足になった。写真一枚ぐらいどうでもいいだろうとは言えなかった。妻子の写真はそれ一枚っきりで、奴はそれを弾避けだと信じ、肌身離さなかったから。

弾避けとは言っても、クロフトは臆病な男では無い。腕に酷く引き攣れた傷のある、大柄で精悍な男だった。銃声が飛び交う中、鼻歌を歌いながら弾を詰め替える胆の座った古参兵だ。写真を手帳に挟んで胸ポケットに入れること、それは戦場での生活が長いからこそ芽生えた、奴の唯一のジンクスだった。



集落からの銃撃をやりすごし、突入する前に愛しい写真を確かめ、胸に入れ直したと言う。「キスもして?」と欠伸混じりに返すと、「真剣に探してくれよ、隊長サンよ」と向こう脛を蹴りを入れられた。作戦はあっけなく終了、兵舎に戻ってから写真が無いのに気付いたらしい。「明るくなったら、移動の前に一緒に見に行ってやる」と渋々にでも約束しなければ、一人でも抜け出して行っただろう。





この男は、戦場にカメラを持って来ていた。


「本職は写真屋だ」


暗室があればここで現像も出来るんだがと残念がりながら、その大柄な体格に似合わないアンティークカメラを愛用していた。本来見つかれば没収されたろうが、奴はそれで中隊長を上手に撮ってやり、休暇の度にどこの大将かと思えるほど威厳たっぷりに現像してきたから、目こぼしに合っていた。


クロフトが撮りたがるのは同じ小隊の仲間だ。口を開けた寝顔、尻の傷の湿布を替えてる奴、並んで小便してる馬鹿、片っ端から間抜けなツラを撮られた。それは戦争写真でありながらどこかユーモラスで、隊の誰もが奴の写真を楽しみにしていた。

奴の蘊蓄は長くなりがちで、新任の俺が専ら聞き役だった。カメラの扱い方、被写体の位置、レンズの違い、光の加減。俺は結構いい聞き役なのか、ちょくちょく個人レッスンを受けた。







見えてきた塹壕は、砲弾で崩れかかっていた。もしあのぬかるみの底に写真が沈んでいたとしても無事ではないだろう。それでもクロフトは泥に手を突っ込んで底を浚った。俺も銃床で汚水をかき混ぜ、窪みから水を追い出しにかかった。


「ガキに戻った気分だ」

「まだ充分ガキじゃねえか、ガキらしくもっと熱心にやりやがれ」


全く隊長扱いされていない俺は、へいへいと肩を竦めて隣へしゃがんだ。どこか別の場所で落としたんじゃないかと、浚う手が疲れて言い出したとき、クロフトが急に水を掻く手を速めて「あった、あった」と泥の底から写真を掘り出した。水にふやけて白っぽく変色した写真の中で、まだ3つぐらいの女の子が微笑んでいた。女の子を抱いているはずの細君は泥に覆われて見えない。


汚れを払って喜ぶクロフトに「良かったな」と肩の荷を下ろした気分で言い、手のひらの泥水をズボンに擦り付けた。奴は笑って手帳にそれを挟み、「これでまた当分死なねえ」と満足気に頷いて胸に仕舞った。思ったより時間が掛からなかった。空を仰ぐと、カサギはまだ好き勝手な放物線を描いている。さあさっさと引き上げようと立ち上がり、…そう、何の注意も払わずに立ち上がり、歩いてきた傾斜を見下ろしたとき。




衝撃に押された俺の身体は、背後の土壁に叩き付けられて、跳ね返った。



一瞬浮き上がったように感じてから、視界がぐらりと回って地面に叩き付けられた。どこかを強く殴られたようだった。俺はそれまで撃たれたことが無かった。その時の自分には、銃声さえ聞こえなかった。


塹壕に蹲ったままのクロフトが、「畜生、まだ居やがった」と呻いて応戦し始めた。銃声。それでようやく「撃たれたんだ」と頭の中が繋がった。

撃たれたときはどうする。学校で習った筈だ。敗血病、とか止血、とか、単語だけが頭を巡った。耳元で自分の鼓動が、鼓膜が割れるほどに響いた。


ショックによる空白は、数秒だったと思う。俺はそっと手を動かし、どこを撃たれたのか探った。腹の辺が生暖かくぬめっている。脇腹から出血していた。まだ痛みが来ないのが不思議だった。下手に動くと、そこから全身の血が抜け落ちやしないかとも思ったが、そこまでやられちまったならどうせ運搬されてる間に逝っちまうと迷いを丸めて投げた。じりと腹ばいで塹壕へにじり寄る。途端に目の前に土煙が上がって、弾丸が叩き込まれた。俺は大きく横へ転がってから、いままで泥遊びをしていた塹壕へ飛び込んだ。



「大将、大丈夫だ。そんぐらい虫に刺されたようなもんだ」



クロフトはちらっと俺の腹を見て、荷物から圧定布を出す。そして俺の上着とシャツを引き上げて、傷へしっかりと縛り付けた。転がっている銃を取ると、「怪我してる奴は、じっとしてりゃいい」と、俺の手を手荒く傷口へ宛てさせた。靴の中に汚水がじわじわと浸ってくる。


「しっかり押さえてねえと、血が抜けっちまうぞ」


笑うクロフトの頭の上を、銃弾が掠めて土壁を削った。たいした人数じゃない、これで片付けるさ、と、奴は手榴弾を玩具のように慣れた手で握った。


「…すまん」


俺はそう呟いてから、「正直、眼鏡も吹っ飛んじまって撃っても当たる気がしねえ」と怒濤の情けなさで眉を下げた。クロフトは小さく噴き出して、「役に立たねえ隊長だな」と額を小突いた。


「でもまあ、あんたはよくやってる」


よくやってるよ、ともう一度言って、クロフトは息子を見るような目で俺を見た。嬉しいような気恥ずかしいような、一層立つ瀬の無い気分で、半端な笑いを漏らして項垂れる。本当に俺はまだガキだ。隊長だなんて呼ばれても、皆に助けられてるようじゃどうしようもない。痛みは来ないまま、脇腹は熱くなった。項垂れた俺の頭を、奴のデカい手のひらが雑に撫でて離れた。



「前のよりゃずっといい。
 もう半年も居りゃあ、いい隊長になれるだろうぜ」



銃声に機銃の音が加わった。クロフトは舌打ちしながらじわりと俺から離れて、銃弾の飛んでくる集落の方を窺った。俺は大きくなる戦闘の気配に耳を澄ませながら、感謝の意で蹲ったままひらりと手を揺らした。駆け回る足音、瓦礫に跳ねる弾の乾いた音、どこかで起きる崩落。次第にそれが近くなる。

どうもおかしい、この塹壕への銃撃が減っていると眉を顰めた。此処ではない二ケ所が撃ち合ってる。


銃床をぬかるみに差して杖にし、今度は頭を上げないようにそっと腰を上げた。クロフトは顔を出す場所を変えてはちらちらと戦況を眺め遣っている。俺が動く気配にちらりと視線を流して言った。


「…どうも機銃の奴らは、味方みてえだな」


集落に駐留していた部隊が、銃声を聞き付けて来たのか。安堵に大きく息を吐いた。激しい銃声はやがて散発的になり、止み始めた。


掃討が終わったのか、遮蔽物や砲弾穴から見慣れた軍服が姿を現す。イシュヴァール兵が占拠していた一角へ、銃を構えたままゆっくりと包囲を詰める。


「担架か何か、貰ってくっからよ」


クロフトは過剰に注意深く、まるで俺を揶揄するように何度も頭をちらちらと出して窺ってから、俺に尻を蹴られて塹壕から出た。その後ろ姿を見ながら、銃を支えに身体を起こす。泥まみれの軍服が、拠点を囲む兵に駆け寄って何か話しかけているのが見える。ああ、中隊長に絞られるだろうなと暢気なことを思った俺の目を、閃光が灼いた。



轟音が耳を劈いて、クロフトが…その場を囲む軍服が、まるで人形のように吹き飛ばされた。

爆発は連鎖して何度も地面を揺らした。
熱波が暴風になって、砂礫の粒を纏い地表の全てを襲った。















(2004.09.03)