橋の上の娘

カンテラの灯が揺れると、狭い天幕の中の影も揺れる。

ヒューズは胡座を組んで一心にダガーの手入れをしている。その、少し変わった形の得物を。





「古い映画なんだが」



木箱に寄り掛かったまま、口を開いた。ヒューズは顔は上げず、ただ聴いてるよという視線を投げて、また刃物を研ぎ始める。その爪の色、そして細い指の傷。すべてが暖かい灯の揺れに、浮かび上がっては影になる。



「橋の上から身を投げようとした娘と、ナイフ投げの男が出会う」



身体はくたくたに疲れ切っているのに、耳の底にまだ砲音が轟いて眠気が来ない。ふと思い付いた映画の筋でも話していれば、そのうち眠くなるだろうと思った。支給の毛布はゴワついて硬い。




「二人は、曲芸のパートナーになって、各地を巡る。
 男は、女の顔や身体へ刺さるかと思うほど際を狙ってナイフを投げる。
 目隠しされた女は突き刺さるナイフの衝撃に震える。
 恐怖は次第に信頼と愛情に変わっていく」




倒錯的だな、とヒューズは目を上げずに笑った。映画で見た物よりも寸胴で、洒落っ気のない凶器を研ぎながら。俺も黙って笑い返した。


男がナイフを投げる指先に、生と死の境界へその都度追いやられる女。
女を生命ごと支配する男。
女の悲鳴は、舞台を重ねるごとに艶を増す。
二人の曲芸は評判を呼ぶ。



「まるでセックスだな」
「金になるセックスだ」
「金になるモンは何だってそうだろ」



埃っぽい赤土の上で、ヒューズが笑って脚を組み替える。ホルダーにダガーを仕舞うと、もう一本を研ぎ始める。それから?続きを促すということは興味が少しは湧いたのか。



「男と女は深い恍惚を舞台で分け合うようになる。
 それでも決して触れあわない。
 もともとが奔放な娘は、夜を重ねるにつれ辛くなっていく」



そしてきっと、こんな目で。
ナイフを持つ男の指先を、凝っと見ていたんだろう。
お前の指が愛おしげに握る、凶器にすら灼けるような目を。




「そりゃ、仕方ないだろ。絶対当たらねえって分かってたって、寝た女にナイフなんざ投げらえねえよ」




それはお前がロマンチストなんだろうと言ったら、その映画の脚本家と同じぐらいな、と咽を鳴らして笑った。そして研ぎ終えたもう一本をカンテラの灯に翳し見、満足して、腰の後ろへ仕込んだ。明日の朝、静かな光のもとを出ていって、それで誰かを殺すために。





「辛くなって?」


その仕種をただ眺めていた俺は、不意にかけられた声に視線を上げた。


「辛くなって、女は男から離れる」


ヒューズが期待していた筋と違うのか、おや、と眉を軽く上げて俺を見た。


「こんな関係は続かないと言って、衝動的に違う男のところへ行くんだ」



ふうんと静かに、溜息みたいな相槌を打ってから、ヒューズは俺にゆっくり近付いた。近付いて、腹に抱えこんでいた毛布を俺の肩まで引き上げた。


「ナイフを投げられたからって、惚れたりするか?」


逆光になった顔が、少し笑った。フレームの奥の眸が優しく細まって、俺はようやく少し眠くなった。さあ、と曖昧に笑い返して、顎まで安い毛布をずらした。

ヒューズはカンテラの灯を弱めようと立ち上がり、その影が伏せた目の先で長く揺れた。瞼を落とせば眠れるだろう、そう思った時。






背にしていた木箱が大きく震えた。弾薬が爆発したかと目を見開いた先に、少し離れて笑うヒューズが立っていた。片手にダガーを下げて。木箱の端には、今放った刃が突き刺さって震えている。


ヒューズが、俺に、投げた。
そう分かるまでに、三回も瞬いた。
恐怖は無くて、馬鹿げたことにいきなり深い官能があった。
掌ほど外して投げられた白刃は、淡く落としたカンテラの灯を滲ませている。
凍り付いた心臓が、またゆっくり鼓動を打ち始めて、俺は喘ぐような短い息で肩を揺らした。


ヒューズは、続けるか?という目で軽くダガーを己の顔の前に翳した。刃を構えた目は静かで、それでいて強い光をたたえていた。口端をほんの少し上げて笑ってみせる、それだけで猥雑な顔になる。




「もっと近くに」




強請る声は、酷く震えて甘く掠れた。肌の上を、焦れったいような戦きが走って鳥肌が立つ。顔へまで伸びるヒューズの影が揺れたと思うと、右頬を衝撃が掠めて、木板へ突き立った。ぞっとした頬を温い風が撫でた。心臓が縮み上がって、そして蘇生する。一投ごとに殺され、そしてまた新しく生まれるようだ。思わず閉じた眸を開くと、ヒューズは腰へ手を回して三本目を指へ番えていた。そして低く言った。




「目を隠せ」




毛布の端を握って、頭の上まで被った。脳裏に映画のワンシーンが甦った。女の全身にシーツを掛けて、その上へナイフを。ヒューズはあの映画を見たのではないか。シーツよりもずっと身体の線を浮かせない毛布を被って、全てを放念してしまうと、ヒューズのブーツが赤土を一歩、踏む音と匂いだけがした。頭の上へ乗せた両手の、指が震えて毛布の端を握った。


最後の一投は、左腋のすぐ傍へ打ち込まれた。映画の通りに。





足音が近付いて、毛布を剥ぐった。



俺は知らず、何故か泣いていたらしい。怖くなど無かったのに。ヒューズは「よしよし」と子供をあやすような声で言いながら、剥ぐった毛布で手荒く頬を拭った。バツが悪くて視線を外してから、なるべく意地が悪くみえるように笑ってみせた。


「寝た相手に、ナイフは投げられないんじゃなかったのか」

ヒューズは悪怯れずに肩を竦めた。

「女にはな。お前は男だ」

思わず小さく噴き出すと身体が揺れ、ヒューズは慌てて最後に投げたダガーを引き抜いた。






「それで、こんなことで惚れるのか?」


俺は笑って「馬鹿な」と吐き捨てた。
ヒューズも笑って、顔を寄せた。
キスをするならせめて、顔の横の凶器を抜いてからにしろ。
伸ばした両手で衝動に任せて背中を掻き抱くと、微かに驚く気配があって、合わさったままの唇が告げた。







「惚れとけよ」







瞼の裏の暗幕に、映画のラストシーンが流れた。



黒髪の女が笑って囁く。
「こんなことは続かないわ」



モノクロの強いコントラストが、次第に暈やけて白く溶けた。
















(2004.07.28)