romance inside




もう一週間もすれば、私は無垢のまま彼に嫁ぐはずだった。



それなのに彼は、突然に言った。
キッチンからコーヒーを二つ運んで、ソファに座る私に差し出して、「砂糖がいるかい」と訊くような静かな声で、「抱きたい」と。


その目に欲情の焦りは全く無くて、水面のように私を映していた。
なんて不思議な色だろう。
角度や光の加減で、それは冷たいアイスブルー、新緑のようなグリーン、橙の滲む金と自在に変わった。そしてその時の色は、私がいちばん好きな緑だった。欲望ではなく情愛が宿って見えたが、今にして思えばそれは、彼の感情というよりも私が彼へ向けていた思いだったのかもしれない。それすら映し返すほどに澄んだ色をしていた。



私がどう返事をしたのかは、よく憶えていない。何も言わなかったのかもしれない。 とにかく手にしたカップをテーブルへ置いて、ぎこちなく立ち上がった。

私は処女ならではの過剰な自意識と、情念を向けられることへの不馴れさに、緊張しきって全身を強張らせていた。どう応じていいか分からない。

突っ立ったままの私に、彼は私の置いた横へ自分のカップも並べてから歩み寄って肩を抱いた。普段、あまり意識しない掌の大きさに鼓動が跳ねた。その手は背中へ回り、ワンピースのファスナーを腰の下まで下げてしまった。そしてついでのように、肩甲骨の間にあるホックを外した。

キスをしながら撫でる手が、ワンピースの肩を片方ずつ順に滑り落とした。その頃、私は髪が長くて、自分の髪が素肌に雪崩れて肌をざわつかせた。シルクのワンピースと胸を覆っていた下着は足元へ落ちた。抱き合ってしまうと顔は見えない。さぞや自分は不安そうな顔をしているだろうと思えば、それだけが救いだった。



不安、というのは破瓜の痛みなどについてでは無く。

度を越した私が、どんな風になってしまうのかが自身で分からないことへの不安だった。どんな顔を彼に晒すのだろう。興醒めだと思われないだろうか。彼がいままで抱いてきた女性より、きっと面白みのない、きっと物慣れない自分。そんなことで私への態度を変える彼ではないのは分かっていても、無意識に、ほんの僅かにでも、落胆されやしないだろうか。




「あ〜…、やっぱりどうしようか」



抱き締められると、彼の乾いたシャツと私の間で胸が柔らかく形を変えた。彼は情けない声を漏らして、私の肩へ額を擦り寄せた。何だか子供じみた仕種が可愛くて、ふと緊張が弛んだ。



「俺、下手クソだけど結婚しないとか言い出さねえでな、グレイシア」



この人も少なからず緊張しているのだ。

そう思うと胸の奥から掻き毟られるような愛おしさが湧いて、私は肩口へ預けられた頭の重みを撫でた。すると私の足先は宙へ浮き、その腕に抱き上げられた。ワンピースの抜殻を残して私達は寝室へ移った。






彼はシーツの上でも始終、私を小さく笑わせた。セックスというものを、笑いながらできるなんて。きっとこの人でなければ教えてくれなかっただろう。私達は子供がじゃれあうみたいに、淫蕩さよりも穏やかな心地よさに浸って、あらゆる肌を重ねあった。


彼は私の海をそっと掻き回し、満ちさせてから、本当はこんなことどうでもいいんだけど、という風に笑って少しずつ入ってきた。触れあうだけで充分に気持ちがいいのに、余分なことをしてごめんねと、そんな目で。私の身体は蕩けきっていて、爪先をどこかに軽くぶつけたほどの痛みしか感じなかった。甘いような軽い疼痛は長く後を引き、ずっと下腹に響いたけれど。


「グレイシア」


彼は抑えた声で私を呼び、首筋の匂いを嗅いだ。そして彼を深くおさめた下腹を撫でた。彼は私が違和感と痛みに慣れるまでじっとしていてくれたけれど、違和感は消えることはなかったし、痛みは堪え難くもなかった。小説にあるような烈しい快感はまだなかったけれど、嫌悪感も全くなかった。


「…平気よ、マース」


彼の伺うような視線を感じて、私は静かに瞼を上げた。眼鏡を外すと彼の顔は少し幼く見える。いや、年相応に、と言うべきだろうか。鈍痛に堅くした身体を、上手なキスがいっぺんに溶かした。長いキスが私の呼吸を乱し、下肢から意識を散らした。

唇を離して、彼はちいさく笑った。私も応じて笑ったかもしれない。



「思ったほどロマンティックじゃないだろう?」



眉を下げる彼に、私は思わず身体を揺らして笑った。


「ええ、少し滑稽だわ」


彼は短く息を飲んで、「いま、不用意に笑われると困る」と真剣な顔で呟いた。

「どうして?」

「気持ちよくて耐えられない」


私はわざと大袈裟に笑った。やめてくれグレイシア。まるで私が彼を抱いているみたいに、彼は浅く眉を寄せて辛そうに笑い返した。その低く抑えた声と表情は、ぞっとするほどセクシャルだった。身体の奥の制御しきれない部分の掛けがねが外れた。私はついさっきまで処女だったとは思えない大胆さで、彼の逐情を唆すように恣意的に腰を揺らめかせた。私は彼に欲情したのだ。



大抵の女性が目を瞑るだろうに、私はその顔が見ていたくてひたすらに見上げていた。耐えきれずに彼が抽挿をはじめても。


「…余り、見ないでくれ、グレイシア」


息を乱して彼が言った。私はまた「どうして?」と訊いた。彼はまた眉を下げて笑った。


「間抜けな顔してねえ 、か?」



してないわ、すごく…。すごく何といったらいいか分からなくて、私は伸ばした手で熱い彼の頬を包んだ。誰かにそう言われたの?苛められて帰ってきた子供を慰めるような声で言うと、彼は頷いて額を重ねて擦り合わせた。すごく、好きな顔だわ。近すぎて見えなくなってから囁く。照れくさそうに笑う気配がした。おかえりなさい。もうどこにも行かないで。背中を抱くだけじゃ足りなくなって、私は脚を彼の腰に搦めた。







彼は構わないと言ったけれど、脚の間に流れた血が気になってシャワーを浴びた。月のものの走りのような僅かな血。それは私が想像していたよりずっとささやかだった。痛みが薄かったから血も少ししか出なかったのかしら。

水音に尿意を刺激されて、私は行儀の悪さを承知で立ったまま、した。そんな事をしたのは初めてだった。頭の隅に血相を変える母親の顔が浮かんだ。愉快だわ。我知ら
ず頬が弛んだ。


私の父は厳格な軍人で、母は潔癖すぎるくらい真面目な人だった。彼が必要以上に淫靡なセックスをしないでくれたのは、そんな親を知っていたからかもしれない。いつも背を向けあっていた私の両親。もし私が家族を作るのなら、誰よりも温かい家を。そんな小さい頃からの憧れを、彼以上に叶えてくれる人はいないだろう。奇蹟だわ。絶対に離さない。でも無くしてしまいそう。私は身体を震わせて、シャワーに打たれながら少し泣いた。幸せなのか不安なのか、自分でも分からなかった。


バスルームから出て、彼が渡してくれたシャツを羽織った。シャツは洗ってあるのに彼の匂いがした。私はセックス自体より、それが醸し出すだらしない親密さに胸を熱くした。まるで情事を反芻する男みたいに、何度か彼の息遣いと表情を思い出して酔った。ワインが飲みたい。深い赤の。キッチンには白しか無くて少しがっかりした。男の部屋なのに、彼の部屋は割合きちんと片付いている。それでいて神経質さを感じない程度に物が不規則に置かれている。居心地のいい巣だ。彼自身のように。






彼は落とした照明の柔らかい光に包まれて眠っていた。私の場所をきっちり空けて。滑り込むと起こしてしまいそうで、ただ黙ってその静かな顔を見ていた。

貴方の事を、あまり知らないわ。

いつも友達や同僚や、彼の周囲の人の話を嬉しそうにする唇。
私の他愛のない話を、優しく聞いてくれる眸。

いつも私ばかり話しているのかしら。恥ずかしくて耳が熱くなる。


気配に目を開いて、彼は「おいで」と腕を伸ばした。腕よりも先に、声に手巻かれた。ベッドの軋みと彼の温み。



「貴方のことを、何か話して」


とろんと眠そうな頬をつつくと、目を瞑ったまま笑って「何がいい?」と訊いた。




「例えば、どうして軍に入ったの?」

「国の為」

「国って?」

「俺を育ててくれた人と土地」



眠そうな癖に、声の響きは柔らかいのに、答えはいちいち真摯だった。少し気恥ずかしいような台詞も、その分真剣に答えてくれていると感じる。


「じゃあ、いちばん大切なものは?」


彼は少し考えてから、「友人」と答えた。それから悪戯っぽく眸を開けて「君って言うべきだったかなぁ」と笑った。私がふざけて叩く彼の肩には銃創がある。そして背中には火傷の痕がある。ざらつく硬い膚を撫でて、これはどうして?と訊きたかった。私の唇が躊躇ってから何も言わずに閉じるのに笑って、彼は静かに答えた。



「戦争で」



「…人を殺した?」

「たくさん」


言葉が詰まり、代わりに涙が溢れた。それは彼が奪った命への哀悼ではなくて、死地から彼を還してくれた神への感謝だった。愛してるわ。彼は私を抱き締めて、濡れた頬に頬を擦り付けた。閉じた瞼の裏に、不意に小さい少女が浮かんだ。彼に抱かれて笑っている、愛くるしい私達の娘。そして見たこともないイシュヴァールの赤い道。彼が殺した少年。この背中を灼いた蒼い焔。地平線に落ちる夕陽。ピンクから紫に遷る空。


私だって人を殺せるわ。貴方のためなら。











挙式の日の空は、高く晴れ渡っていた。式を終え、教会の扉を開けた私達に、外で待ち受けていた人達が白い花を雨のように降らせた。

彼の親戚と友達は誰もが陽気で、新郎の白いスーツ姿を見ては冷やかしたり笑って背中をこづいたりした。私の両親の代わりに出席してくれた、五年ぶりに会う叔父夫婦は、騒々しさに眉を顰めて座っていた。あとは両手に余る親友と同僚。彼女らは私を取り巻いて、私のドレスの繊細さと近くで笑う彼を交互に見て、しきりに羨んだ。


彼はふと視線を巡らせてから私の手を取った。


「ロイ!」


紹介するよ、さっきスピーチしてくれたロイ・マスタング。彼は耳打ちしながら私の手を握って、すこし離れて佇む人の傍へ歩み寄った。私は何度か、その人の写真を見せられたことがあった。溢れる白い光が彼の輪郭を溶かして、写真よりずっと華奢に見せた。


黒い素直な髪を撫で付けて、彼は静かに微笑っていた。睫が目元に落とす蒼い影。それがとても綺麗で、綺麗すぎて寂しくなった。微笑っているのに、彼は何かに耐えているようで。


「初めまして、貴女のことはもう耳にタコができるほど」


こいつから聞いてます。想像以上にお美しい。そつなく差し出される白い手。思ったより低い彼の声がそう告げて、マースは慌てて「見るな、減る」と割って入った。ポンポンと、威勢のいい言葉の応酬。一瞬触れた彼の指は、春だというのに酷く冷たかった。私の持つ薔薇のブーケをその冷たい手に押し付け、遠くからかかった声に忙しい新郎は「ちょっと挨拶して来る」と言い置いて歩き出した。


踵を返して三歩。


彼は突然振り返って、忘れ物をしたような顔を私へ寄せてキスを掠めた。笑ってキスを返すと、今度はふざけて隣の親友にもキスをしようとして、棘を持つブーケで容赦無く頬を叩かれた。深紅の花びらが喜劇芝居さながらに舞い散る。


「殴らなくてもいいじゃねぇか、ロイ…」


ブツブツ言いながら顔を摩って歩き去る彼を、私と友人代表は肩を揺らして笑いながら見送った。歩く彼の肩から落ちた花びらが舞う。私の脚にあの夜、伝った黒い赤。




「間抜けな顔だな…」




棘が刺さったのはマースなのに。
その台詞に聞き覚えがあって、私の胸がちくんと痛んだ。


「…っと、失礼。新婦の前で新郎を」


どんな気持ちがする?彼にとっていちばん大切な「友人」が、もしかしたら彼のあんな顔を見たことがあるかもしれないなんて。そっと胸から抜いた棘は、私にそう囁いた。


飛躍してるわ、そんな。


涼やかな目許で笑う、幼いような容貌の彼の親友。彼を殴りつけたときの薔薇の花びらが、そのスーツの胸元へ一枚。紅い花が何て似合うのかしら。私のブーケは何て貴方に似合うのかしら。優しい声で「赤がいい」と言ったのは誰だったかしら。彼が見せた切れ切れのイメージ。蒼い焔。彼の背中を灼いたのはきっと戦争ではなくて


「花は赤がいちばん好きだ」


ドレスもブーケも君の好きにするといいよ。そう言った癖にあの人は







「どうかなさいましたか」


いいえ、と微笑って首を振った。首を振ってもとりとめのない思念は靄のように纏わりついた。肩にひょいとブーケを乗せて首を傾げる姿。軍人というよりは学者のような線の細さ。端正な顔。整った、というよりはどこか危うい。私だって放っておけない気がするのに、あの面倒見のいい人はきっとどんなに。


学友に囲まれたあの人が、大きな声で私と彼を呼んだ。白いスーツの胸に私が差した薔薇。ブーケを揺らす彼。また、ふわりと舞う深紅。


「ブーケっていうのは、女性が受け取る物なんですよね」


困った顔で笑う眸には当惑とくすぐったさが浮かんでいた。
はにかむような、甘い。


あからさまだわ。
馬鹿みたいに。


私はもう少しで噴き出しそうになった。
パーツの欠けたパズルを組み合わせなくても、直感が私に告げた。




彼はあの人を愛してる。
なんて可愛らしいのかしら。




「貴方とお揃いでいたいんだわ、マスタング少佐」


遠くで手を振っている彼に、ちいさく振り返してから白いレースに包まれた手を差し出した。彼は目を瞠ってから、ブーケを持ち替えて私の手を握った。



どうせ男なんて単純な生き物なんだから。
少しぐらいややこしい方が飽きないわ。



「宜しく、グレイシア・ヒューズです」



私達が握手を交しているのを、目敏く見つけて騒ぐ大きな声がした。「うわっ、盗まれてんぞ、マース」「ちが、そんなこと無えよ、馬鹿」「早く行けよ、もう夫婦の危機〜?」押し出されて頭を掻きながら、色鮮やかな芝生に短い影を落として彼が戻ってくる。ほんの少し拗ねた目でちらりと此方を窺う。


心配しなくても大丈夫よ、マース。

人だって殺せるぐらい愛してるのに。
こんなちいさな妬心ぐらい殺せないはず無いのよ。



友人に揶揄われて、子供みたいに唇を突き出して。
それでも、私達に一歩近付くごとに、幸せでたまらないように頬を緩める。





「本当に間抜けな顔ね」

「全くだ」





早く式なんて終わればいいわ。
ウエディングドレスの裾から入らせてあげる。
















こんな寛大な嫁もどうか…(2004.07.16)