お家に帰るまでが戦争です









セントラルへ戻る列車の中で、俺はふと思い付きを口にした。なあ、どうせ急いで戻ることねえなら俺の家に来るか?学生の頃、何度か連れて帰ったことがある。ロイは地平線の果てまで続く荒れ地を、二度と帰ってこない故郷を見るように目に焼き付けていた。剥き出しの地表を割って、ぽつりぽつりと叢がけなげな緑をそよがせ、やがて夏草が一面に広がって風を渡らせて揺れた。その指先が焼き払った戦場は、最後尾のデッキに立つ俺達の視界からついに失われた。


地平線を焦がすのはロイの焔ではなく、夏の遅い夕暮。天空には昼間の青さが一瞬戻って、まるで今から一日が始まるようだ。それでも朝よりは青が深い風に、前髪を遊ばせてロイは俺を見た。その白い顔にも落ちる蒼い影。それから、ほんの少し目尻を和らげた。了承を受け取って、俺は前髪を撫であげた。彼の面差しを余計に幼く見せる短い髪は、風に煽られて容易く指から逃げた。








戦争。


戦争というよりは一方的な虐殺に近い武力行使が、もう破壊するものを失って終了した日、将軍が俺を呼んで言った。


「明日から一部を除いて武装解除ってことになるんだけど。あの子にも暫く自由をあげるんだけど」


小さい子供に飴をあげるみたいに、目を細めて老人が言う。ロイも任務を解かれると知って、俺は安堵の息が大袈裟にならないように、少し息を詰めなければならなかった。


「君ら、戦争に来たの初めてだからピンと来ないかもしれないけどね。
 終わったら、嬉しいだけじゃないんだよ。
 ぽかーんとした気持ちになっちゃうんだよ。

 特にあの子は錬金術師だから…、天秤が急に傾いてしまうような気持ちになるだろうね」


老将軍は、かつての自分を思うのか視線を遠くへ投げた。寄っ掛かってたものがスポンって抜けちゃったような気になるんだよ。俺は黙って顔を引き締める。


「戦争が終わって暫くしてから自殺しちゃう人もいるんだよ。
 死ななくても軍を抜けたりね。
 それは困るんだ。あの子はもう英雄なんだからね。分かるね?」


この人は、持って回った言い方をしないし、取り繕わないのが好きだ。
嘘がない。それが所詮、人の持ち得る最大の美点だ。



諾の代わりに、戦場で最後の敬礼をした。
将軍は自慢の孫でも見るような目を細めた。そして手にした報告書の束を丸めながら、うんうんと何度も頷いて言った。



「お家に帰るまでが戦争です」












二年ぶりに戻った故郷は、古ぼけた駅からして何も変わっていなかった。

屋根すらない昔ながらのホームに、見ない間に少し老けた父と、やはり少し太った母が出迎えに来ていた。



「マース!」



ホームに降り立った途端、母親の大きな声が響き渡った。抱き締めると「やだね、汗臭い、やだね」と、泣き出すのを堪えるように早口で言ってから、ようやく顔をあげて「お帰り、マース」と顔をくしゃくしゃにして笑った。「ただいま」と笑い返してから、母と、その後ろで仁王立ちの父に、俺の後ろに立つロイを「連れて来た」と言えば、子細も聞かずに揃って頷いた。


「突然すいません、おばさん。お世話になります」

「無事で良かったね、よく頑張った。
 もうずっと此処に居な」


親子揃ってロイの髪を撫でたがるのは遺伝子に何か隠れてるんだろうか。母はその豊かすぎる胸にロイを抱き締め、短い手で素直な髪を撫で回した。俺がやるとときどき煩がる癖に、母には適わないと思っているのか笑って大人しくされるがままになっている。「太ったんじゃねえの」「馬鹿、心配で食い過ぎたんだよ」頭の上で交される俺と母の会話に、撫でやすいように首を傾けたロイが笑う。


「何だァ、ちっせえ癖にウチのマースより出世しやがったらしいじゃねえか」


この野郎、と本気でロイを小突いている父を見るのは何とも恥ずかしかったが、ロイが何の屈託もない顔で笑うから、そんな顔を見るのは久し振りだったから、じわっと暖かいもので包まれたような気持ちになった。


「今日はね、夜に花火も上がるんだよ。前線から旦那や子供が帰ってきたからね」


言われて見回せば、ホームのあちこちで感動の再会が展開されている。祭好きが多いとはいえ、花火とは随分張り込んだものだ。母はようやくロイを解放して、「トリニタ橋の上からよく見えるよ。その臭い荷物は預かってやるから、もう行きな」と、逞しい腕を差し出してくれる。ロイと顔を見合わせていると、父が容赦なく二人の背中を纏めて叩いて急かすので、俺達は恐縮しながら汚れたズタ袋を献上した。








幌の無い馬車に乗った両親を見送って、身軽になった脚は伸びやかに石畳を踏んで川のある方へと向かった。


「軍靴も脱いじまいてえな」


口に出してから随分子供じみた台詞に恥ずかしくなった。久し振りに見た親の顔に、ガキに戻った心地でもしたのかと。隣を歩くロイが目を丸くして見るから、半開きのままの口を引き攣らせて笑うと、小柄な身体が屈んで自分のブーツを脱ぎ捨てた。夕陽の橙を映す白い石畳の上を、それよりも白い踵が蹴って走った。思わず呼び止めると、「お前が言い出したんだろう」と笑って振り向いて、肩に星がひとつ止まっている軍服まで路に脱ぎ捨てた。


白いシャツとズボンだけになって、長い影を揺らして橋へ走っていくロイの背中。シャツにも暖かい夕陽の色が粉をまぶしたみたいに光っていて、その色があんまり優しくて、どこかで見た宗教画のようだと思った。思ってしまってから、随分と自分の思考は末期だと自嘲に眉を下げて笑い、路上にとっ散らかったブーツと軍服を拾い上げて後を追った。




ああ神様。
愛し子に与える以上の祝福を、あの人間兵器に賜りますよう。











二本の橋脚に三つの優美なアーチを持つ石造の橋。

ロイはその上へ駆け上がり、オーバースカートの裾を翻して、もたもたと両手にブーツと軍服を抱えて追う滑稽な俺を笑った。「お前も脱げばいいのに」脱いで二人分抱えて来いってのか、この暴君め。

丸く撓められた橋の中央、石の欄干に腰を下ろすとロイは、川の左右に並ぶ家の灯を眺めた。一軒一軒、少しずつ色の違う土壁。それでも窓から漏れる灯りの暖かさはどこも変わらない。遠くから風に乗って、子供が弾いているオルガンの音がする。きっと父親でも帰ってきたんだろう、もう少し手前の家からは笑い声が絶えない。夕陽は西の森を焦がして地平に吸い込まれる。息を殺すみたいにそっと夜が始まる。


追い付いた俺は、忌々しそうに抱えてきた邪魔なブーツを、大袈裟な動作で橋の上へ「フン」と投げだした。その仕種にロイがまた笑った。川の上を、夏の夜の風が涼しく渡って、少し短い前髪を揺らした。


その宙に浮いた足下へ座って、黙ってその踝を握る。驚いて引っ込めようとするのに構わずに足の裏を返して見る。白い土埃がついているだけで、別に怪我も傷もない。パンパンと手のひらで払ってやると、ロイは「…お前って…」と何か言いかけて目を細め、もう片足の裏を向けてきた。「お前って何だ」もう片方も叩いてやると、ロイはその足先で俺の額をつついた。


「お前って、本当に――」


その時、川の下流から夜気を揺すぶる火薬の破裂音が響いて、ロイの背後に大きな光の輪が広がった。さあっと四方に光を散らして落ちていく。川面の波濤が金色に浮き上がって、溜息のように小さくなった火の粉を受け止める。一発。また一発。家々から上がる歓声。


どおん、と夜を震わす音。サーチライトより眩しい光。


一瞬、戦場へ引き戻された気がして。広がる花火の華やかさに、苦笑して緊張を解いた。



「ロイ、見てみろよ。豪勢なこった…」



逆光になったその顔はよく見えなくて。眼鏡に受け続けた眩しさがキツくて、外してしまえば余計にぼやけて。



「ロイ?」



身動きもしないのに、立ち上がって肩を揺すった。強張った頬が、ぎこちなく、情けなく笑った。「…ああ、驚いた」驚いただけだ。そう言う唇は夜目にも白かった。唇も声も小さく震えていた。欄干を握る指先も。


ああ、ごめんな。
俺が思い出したのに、お前がしねえワケねえな。


隣に座ると、花火の照り返しに顔の半分を闇に浮かべて俯く。
響く轟音を遠ざけてやりたくて、殆ど無意識に耳を片手で覆ってやると、俯いた口元が仄かに笑う。俺の仕種を半分、俺に甘える自分を許容することを半分笑って、首を傾いで手のひらへ重みを乗せた。




「なあ、ロイ」




高く、また花火が上がった。照明弾のように。続けて。
黄味を帯びた白い光に曝された顔は、幼い癖に酷く疲れて見えた。
風に舞い上がる前髪に指を梳き入れると、赤ん坊みたいに首が仰向いて。




「もう、そう辛い事もねえさ」




もう二度とあんなことは。
あんな酷い戦争と痛みは。
お前にもう、あんな顔を。

その為に俺達は、何人も殺して戻ってきたんだから。




「俺も居るしさ」




仰向いて薄く開いた唇が、キスするしかないような形だったけど。
俺は頬を撫でた指で、唇の端を持ち上げてやった。
無理に笑わされたロイは、眸を開いてゆっくりと本当に笑った。

あんまり一生懸命笑うから、顔を寄せて額を合わせた。弱いような眸が逸れて、感情を抑え込みながらそうっと戻った。



「…それとも、やめちまうか?」



囁く声に、眸を見開く。頭の隅で将軍が「困るなあ、君…」と眉を下げて苦笑した。やめちまってもいい。別にいい。全然いい。誰にもお前を責めさせない。ロイは一瞬、泣きそうな顔をしてからまた無理に笑った。笑って首を横に振って、ほんの少し上擦った、それでももうしっかりした声で言った。


「お前こそ、里心がつくなよ…」


泣いたりした方が可愛いのに。いつまでも頑張って笑っているのが可哀想で、俺はその丸い頭を軍服の肩に伏せさせた。暫くじっとしてからロイは、「臭い」「汗臭い」と文句を言い、それでもそのまま動かなかった。



「…お前は本当に」

肩に額が強く押し当てられて、多分、先刻途切れた台詞が続いた。

「俺を甘やかし過ぎだ」



腐る、と小さく呟くのが聞こえた。

俺は苦笑混じりの溜息を漏らして、手のひらにもう馴染んだような丸い頭をぽんぽんと撫でた。





メンテナンスに馬鹿みたいに手間が掛かって
本当に掛かって
きっと気が付いたら、一生費やしちまってるんだろうな。

でも時々先刻みたいに、裸足で走ってった時みたいに笑ってくれんならそれでいい。


そんで

お前のメンテナンスが出来るのが
お前がこんな顔で笑うのが

お前を傷つけられるのが

俺だけだったらもっといい。



多分、綺麗な感情じゃねえけど
それで汚えことをしちまっても
それは別に悪いことじゃねえだろ?





花火はフィナーレなのか、一つが消えきらないうちに二つ、残光が瞬いているうちに三つと打ち上げられた。ロイはようやく顔をあげてそれを見上げた。空に華やかな光が舞うたびに川辺の家々の窓から歓声が聞こえた。お前の焔が。あの家に主人を返したのかもしれない。そう思えよ、英雄。家の灯を見るロイの眸が、愛おし気に細められた。どんな戦争も無意味で、どんな戦争にもちっぽけな正義がある。


「嬉しい物なんだろうな…家族が戻ってくるっていうのは」


セントラルに戻っても、こいつを迎える家族は居ない。ホームに居並ぶ喜びに溢れた眸が、ロイを見つけて輝くことはない。ならそんな場所に戻ることはない。出迎えの人波が引くまで、ここでのんびりして行けばいい。最後の花火が大きく夜空を染めて、風が火薬の臭いと薄靄をたなびかせた。それは俺を、士官学校の休暇が始まる前みたいな不思議に開放的な気持ちにさせた。





「帰ろうか」


俺の声に頷いて、ロイは欄干から降りて軍靴を履いた。俺が肩へ担いだロイの上着の中を堅いものが滑って、ああ、銀時計だなと思った。家路を辿りながら、俺達は他愛のない話をした。戦争の話以外の。学生の頃此処へ来て、ロイが俺の家を手伝ったものの殆ど役に立たなかったこととか、俺の妹がロイに惚れて大変だったこととか。川がときどき、ふっと光った。花火の名残に見えたそれは螢だ。

一匹がゆらりと飛んできて、息を殺したロイの肩に止まって光ると、また森へ飛び去った。「肩に星がひとつ増えたな」「縁起がいい」笑いあって路を行くと、俺の家の灯りが見えてきた。「懐かしいな」と零れる声に、俺は足を止めて静かに言った。





「おかえり」




お家に帰るまでが戦争なら。

ロイも足を止めた。
そして気恥ずかしそうな顔をしてから、唇を一度引き結んで。
低い癖に甘い声で呟いた。



「ただいま」





俺達を見つけた妹が窓から大声で名前を呼んだ。
先にロイを呼ぶなんて正直な奴だ。
目配せ合って笑って、俺達はまた歩き出した。










(2004.06.25)Photo by (c)Tomo.Yun