100万回生きたねこ
パパは本当にいいひとだったってみんな言うの。
だけど、私はあんまり覚えていないの。
しかたないでしょ?だって3つだったんだもん。
3才の誕生日のことなんて、はっきり覚えてるひとがいるかしら。
おおきな熊さんをくれたのは覚えてるわ。
今も私のベッドに座ってる熊のぬいぐるみ。
「おめでとうエリシア」って熊ごと私を抱き上げてくれた。大きな手。優しい声。
だけど顔が思い出せないの。ママが写真を見せてくれると、こんな顔だったような気がするけど。
パパの話をすると、ママがすこし寂しそうにするから。
何も聞けなくて、余計に思い出せないの。
だから、パパの話はロイとするの。
ロイはパパのお友達。偉い人らしいの、でもパパの方が偉いのよ?
ときどき家に来て、ママとお話したり、私と遊んでくれるの。
ロイはパパと同じぐらいの年らしいんだけど、まるで私のお兄ちゃんみたいなの。
あのね。
ロイに言ったら、とっても笑われたんだけどね。
私、もしかしたら本当にお兄ちゃんなんじゃないかって思ってたの。
パパは髪が黒いでしょう?ママと私は金髪で。きっと私にお兄ちゃんがいたら、パパと同じ色の髪だと思ったの。だから、ロイがお兄ちゃんだったらいいなって思ってたの。こんな大きなお兄ちゃんがいたら、私、自慢なんだけどなあって。でも違うんだって。残念。
ロイはいつも、お仕事で通りかかったりすると家に寄ってくれるの。その日はママが
いなくて退屈してたから、嬉しくて、読んでた本を持ったまま、ロイの手を引っ張って庭に出たの。ママはちゃんと靴を履きなさいって言うけど、ロイはうるさいこと言わないわ。芝生が気持ちいいんだもん、ロイだってそんな重たそうな靴、脱げばいいのに。
私がぺたんと芝生の上に座ると、ロイも笑って隣に座ってくれた。
ロイの髪は真っ黒なのに、触ると柔らかいの。それが風に靡いてるのを見ると、何だか大人なのにかわいいの。
「本読んでたのかい、エリシア」
言われてようやく、自分がまだ本を持ったままなのに気がついて。これは3つの誕生日に貰った本。貰ったときは読めなかった。やっと読めるようになったけど、よくわからなくて何度も読んでしまうの。
「もう読めるのか、偉いな、エリシア」
ロイが片手を差出すから、本を渡したわ。読めるけど、ロイに読んで欲しくなって「まだ読めない」って嘘をついたの。ロイは「じゃあ読んであげよう」って言って得意げに本を開いた。本の虫のお姉ちゃんがくれた本を。
「えーと…、その昔100万回死んでも死なない猫がいました」
猫はいろんな人に愛されるけど、ちっとも誰も好きじゃないの。
ロイの声は少し低くて、でも絵本を読んでるせいか少し優しくて。
その声を聞きながら、私はもう何度も読んだ本のお話について考える。
「猫は、自分が一番好きでした」
100万回愛されても泣かなかった猫が、たった一匹の白い猫と会うの。
「猫は一匹ではなくなりました
野良猫は自分が一番好きではなくなりました
猫は優しいこの猫が大好きでした」
ロイの声は優しくて、睫が目許に淡い影を蒼く落として、私は本よりロイを見てしまう。その絵本は綺麗な絵がいっぱいあって、いつもは見蕩れるんだけれど。
猫は白い猫を好きになって、その猫が死んじゃったときに初めて泣くの。そして。
「ねこは」
ロイが少し言葉を切って、黒い眸を細くした。ロイに読めない字があるなんて。だってそんなのおかしいわ、私にだって読めるのに。
ロイは私がじっと見上げるのに気付いて、綺麗に笑って最後の文章を読んだの。
「猫はもう生き返りませんでした」
おしまい。そう言って、ロイはそっと本を閉じた。ロイに読んでもらっても、やっぱり私にはよくわからない。
「よくわかんない」
ロイの膝に座りなおして、少し膨れて言う。ロイは本を膝に置いたまま、片手で私の髪を撫でてくれる。
「どうしてもう生き返らなくなっちゃうの?
すきな猫が死んじゃったから悲しいの?」
間近でロイの前髪がさらさら揺れる。白い顔。私より白いんじゃないかしら。
「満足したからだよ」
まるで猫の気持ちがわかるみたいにロイが微笑って言う。少し寂しそうに。
「まんぞく?」
「もう誰も好きにならなくていい、って思ったんだよ」
そんなのつまんない。私はもう一度「よくわかんない」と言った。ロイは困ったみたいに笑った。
「パパは?」
ロイの笑顔が、また少し寂しそうになる。
「パパは生き返る?」
私は聞いたことがあるの。ロイは錬金術師なんだって。すごい錬金術師は、人を生き返らせたりできるんだって。でもロイは出来ないの。きっとまだまだ修行が足りないのね。
ロイは何だか辛そうな顔になって、でもちいさく息を吐いてから優しい顔をした。
「生き返らないだろうね」
「ママを好きになって満足したから?」
ロイは「そうだよ」と笑った。突風がロイの髪をくしゃくしゃに撫でていった。
「ロイは?」
「私?」
「ロイは泣いたことがあるの?」
ロイは今度はちょっぴりしんみりした顔になって、「うん」って子供みたいな返事をしたわ。ロイって時々かわいいの。お兄さんなのに、弟みたいになるときがあるの。
「一度だけ?」
「うん」
「…ふーん。じゃあもう生まれて来なくていいの?」
ロイは、まるで神様に聞かれてるみたいに真面目な顔になって。黒い眸が揺れて、それから静かに私を見て言ったの。
「うん、いいかな。……もう終わりでいい」
風みたいにさっぱりと言うから、私はとても悲しくなった。
「わかんない」
ロイは笑って「今日は三度目だ」と私のおでこを指で軽くつついた。何故か、急に泣きそうになって、ロイの顔が見れなくて、膨れたまま俯いたわ。
「ロイはけっこんしてないのに、そんなのヘンよ」
上目でちらっと見ると、ロイはぐっと返事に詰まってから「大人にはね、子供にはわからない事情がいろいろあるんだ、エリシア」と、取って付けたような笑顔で言った。ロイだってきっとまだ子供だわ。きっとすぐ、私に追い抜かれてしまうのよ。
ロイは本の表紙を撫でて「いい本だな」って、ちょっと笑った。
「パパもそう言ってたって。本の虫のお姉ちゃんに『いい本だな、ありがとう』って言ったんだって」
ロイは緩く頷いて、優しい手で表紙の猫の絵を撫でた。細い指。こんな指で何が出来るのかしら。パパは何でロイを放ったらかして死んじゃったのかしら。ロイはきっとお友達があんまりいないんだわ。エリシアしかいないのかも。だからいつも、こんなひとりぼっちみたいな目をしてるの、きっと。
ロイは絵本を私に返そうと差出した。
「ありがとう。私も買おうかな」
私はロイの手の温みが仄かに残る本を抱き締めて寂しくなった。
ロイの寂しいのが移ったんだと思った。
私は膝から降りてロイの前に立つと、胸の本をロイへ突き出した。
「この本はきらい。
一度だいすきな猫に会えたぐらいで満足するなんてバカだわ。
生まれ変わったら、今度はもっと好きな猫に会えるかもしれないのに」
ロイは私を見上げて。
黒い眸に、私の眸が映っていた。
私の緑が、ロイの眸の上を滑った。
ロイの眸には私が映っているのに。
ロイが見てるのはどこか違うところで。
どこか遠くで。
頬にゆっくり浮いた微笑みが、あんまり幸せそうで、私は酷く混乱した。そして仕方のない自分を、憐れむような嘲るような、愛おしむような声で言った。
「そうだね。バカな猫だ」
ロイは誰をそんなに好きなの?
「あげる」と、その胸に本を叩き付けて、私は家へ走って帰った。
それは私がはじめて、人を好きになった瞬間だった。
(2004.05.31)
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