癖なのかな。



会議はようやく終わったようで、官舎から軍服姿がぱらぱらと吐き出される。俺が待つ上官殿も、長い階段を降りてきた。その少し小さい姿は、前を歩く長身の影に半分隠れている。

いつもは自分の前を歩かれるのを嫌うのに、当たり前のように半歩遅れて。



癖なのかな。

もう一度、口に出して呟いて、護衛兼運転手は窓を下げ、車中に篭る煙草の煙を外へ逃がした。引き出した灰皿に短くなった相棒を押し付ける。


なんであの人と歩くときは、素直に庇われるみたいに歩くんだろう。


白い大理石の階段を降りてくる途中で、大佐は不意に脚を止めた中佐にぶつかりかけた。中佐が振り返って何か大佐に言っているのが見える。何を話しているかまでは分からない。大佐は唇を引き結んで首を否定の方向へ振った。中佐は何度か後ろをちらちらと振り返りながら、歩調を緩めてまた階段を降り始める。大佐もそれに合わせて降りてくる。薄暗闇に溶けた二人のコートの裾が、ひらひらと交互に、官舎の灯に浮かび上がる。



階段はそのまま通りへ面している。俺はクラクションを一度鳴らして居場所を合図した。中佐がいつもの陽気な動作で手を上げ返し、また一度大佐に何か言って車へと歩き出す。この人っていつも少し酒が入ってるみたいに見える。



「あー、長かった堪ンねえわ。待たせて悪ィなあ」



後部座席を開けながら中佐が声を掛けてくる。夜の内密な気配が車内へ流れ込む。馴れた腕が、返事をする前に座席に大佐を押し込む。そして自分は車道へ回り込んで、反対側の後部扉を開ける。大佐は会議で疲れたのか眠いのか、深く座席のスプリングに身を沈ませて、中佐が扉を閉める重い音に、ちらと一度横を見たきりすぐ目を瞑った。



「いいえ、えーと、軍法会議所に寄りますか?
 それとも御自宅へ?」



中佐の家は中央司令部から車で30分ほどの、高官が多く居を構える閑静な住宅地にある。もう日はとうに落ちて風も冷たい。残務が無ければこのまま帰宅しても差し支えのない時間だった。俺はとりあえず大通りへハンドルを切った。


中佐は「うーん、どうしようかなー」と顎を指で挟んで、考えるような声を出した。バックミラーに映る表情は定かでない。細いフレームの眼鏡が車窓を過る外灯の光を反射して、彼の表情は分からない。掴めない人だ。胸に疎外感と苛立ちに似た感情が薄く流れる。「どうしようかな」と言いながら、きっとどうするかなんて決めているのだ。彼の声音のオブラートが胸に閊える。




「…俺のことならいい…」




寝付いたと思っていた大佐が、突然低く唸るように言った。


「でもお前、熱あるって絶対」

「無い」


答えて面倒そうに背凭れから浮かせた背筋を伸ばす。怠そうな顔ではあるが、機嫌の悪いときも眠いときも似たような顔だ。風邪でもひいたんだろうか。中央は東部より冬が早い。俺ももっと厚いジャケットを持ってくれば良かったと後悔した。



「あー…、じゃあこいつのホテル連れてって」

「来んでいい」



行き先が決まらないことには運転手に成す術はない。背後で始まった口論が、司令部の会議並みに長引かないのを祈るばかりだ。どちらに行くにせよ、暫く方向は同じ。あー、煙草でも吸おうかな、っと。


ふと、バックミラーの中で、中佐の姿が動いた。

映る自分のシートの後ろで、不意に晒された喉と顎裏に視線が奪われた。

温厚で穏やかな姿の、少し剽軽さすら漂う彼からは思いも寄らないような鋭さと、手慣れて扱う本能と衝動。何にそれを感じたのか。週末、この身体に跨がって奔放に跳ねた彼女の仰け反った白い顎、あの形だと意識が掴む前に。

揃えた髭の顎が大佐の仏頂面に寄せられ、髪を撫でるよりも簡単に唇が重なった。



そうされてすら、大佐の横顔も唇も無防備で、呆気に取られたのか反応出来ないのか身動きひとつしない。中佐の表情など元より読めない。それはほんの一瞬だったのか、それとも案外長かったのかもしれない。


「間違えた」


実にあっさりした声がそう言うと、中佐は僅かに顔を離し、そのまま額を大佐の額へ合わせた。











間違えたんッスか、…ハハ…。ところで俺、今、現世にいる?姿見えてる?おかしいな、煙がやけに目に沁みる……。



中佐は黙って額を押し当てて熱を診ていたが、「やっぱ少しあるぜ」と受持の患者に診断結果を告げた。大佐は本当に熱があって反応が鈍いのか何なのか、鼻の先が触れ合うような近さでそう言われても、まだ呆けたまま親友殿の顔を見返す。


対向車のライトが近くなってくる。あー、何だかいっそ反対車線にきゅっとこのハンドルを…。

車が擦れ違い、強い光が失せて中佐の眼鏡の底が見えた。その目は余りに平然と笑っていて。まるで娘か何かにキスをして、オデコで熱を診ましたが何か?とでも言う風情で。狼狽えている自分の方が疚しいような気分になる。ミラー越しに視線が合って、俺が逸らした。ああ、何だか不条理だ。



「少尉、な訳でホテル先に宜しく」



「な訳」の訳を説明して欲しいような、絶対して欲しくないような複雑怪奇な気持ちを押し殺し、俺はバックミラーに映る中佐の笑顔に「yes,sir」と煙草を咥えたまま不明瞭な声で答えた。げんなりした俺の顔が可笑しいのか、それとも中佐の態度が堪らないのか、信じられないことに隣の大佐の口許は笑いを噛み殺していた。ジーザス。






三方三両損









セントラルの四つ星ホテルは、正門を潜ってからも煙草が半分吸えるほどの前庭と、その背後にも深い森を持つ豪勢な様式の――まだこの国に貴族とかいうのがいた頃の遺産だ。



ようやく見えてきたエントランスに車を止めると、背後で眠っている大佐の顔を中佐が覗き込んで声を掛ける。無遠慮に頬を叩く軽い音。


「起ーきろ、ロイ。着いたぞー」


神様、一晩に二度も男同士のキスシーンを見ないで済みますように。俺はさっさと扉を開けて車から降りると、なるべく後部座席を見ないようにしてトランクを開けた。軍人よりも隙無く制服を着こなしたベルボーイが駆け寄ってきて、俺と大佐の荷物を運び入れる。

大儀そうに車から出てきた大佐は、言われてみれば顔色が悪いような気もしたが、月明りの加減にも思える。俺には結局他人の体調なんて一目で分からないし、分かる必要も無い。少し先を行く中佐の後を大佐が歩く。俺は車のキーをボーイに渡して、その二人から付かず離れずふらふらと歩いた。俺の後ろには煙草の煙がついてくる。

広々としたロビーは軍靴で踏むのが心苦しいほどに豪華な緋色の絨毯が敷き詰められ、一歩ごとに靴は長い毛足に深く沈んだ。



何度か使ったことがあるのかもしれない。中佐はロビーのソファに大佐を座らせると、勝手知った様子で黒大理石の柱の向こうへ消えた。


「…あー、薬とか貰って来ましょうか」


ホテルの雰囲気に気押されて馴染むことも出来ず、何かした方がマシな気がしてそう言うと、「必要無い」と素っ気無い声が返ってきた。焦点が暈けたような眸は、やはり熱があるようにも見えるし、眠いだけにも見える。俺は護衛であってカウンセラーじゃない。大佐が口に出して要求する以上を察する義務も無い。



そしてきっと俺がそんな事をしてみせても、彼はきっと今と同じ口調で「必要無い」と言うんだろう。



また大きな動作で手を振って中佐が戻ってくる。片手に二つ、ルームキーをチャラチャラと子供のように振り回して。その片方を俺に渡すと、大佐の腕を無造作に取って立たせた。


「薬貰って来たからな。
 部屋行くぞ」


大佐にはそれが当たり前なんだろう、感謝を口にする訳でもない。ただ頷いて、腕を引かれたままエレベーターホールへ歩き出す。なのになんでだろう、その態度こそが何よりの感謝のように見えるのは。本当に不可解だ。そう思った途端、頭の隅で警報が響く。不可解なままにしておいた方がいいことがある。首を突っ込んだら面倒なだけだ。










最上階の、多分最上級の部屋。

部屋というより、一件のアパートメント分はある。扉を開けると廊下、そしてその左右に一つずつ俺の借りてるとこより広い部屋がある。廊下の奥にまた扉、開ければシャンデリアの下がるリビング、10人は座れるソファに…、先生ー質問でーす!何ですか、ハボック君。グランドピアノって何の為にあるんですか?


中佐はリビングを突っ切ると、その奥に二つある扉の片方を押した。キッチン、ダイニング、バーカウンター、もう質問する気も無くなりました。キッチンを横目に見て、「少尉、水持ってきてくれ」と卒ない声が飛ぶ。


「…まだか、ヒューズ…」


引っ張られながら、半分寝ているようなぐずぐずした声で大佐が言う。グラスを片手に後を追う俺も、心の中でひっそりそのまま復唱した。遠い東の島国にこんな城があるっていうよなあ、ニンジャ城とかいうんだったっけ。



少し小さな間(それだってたっぷり10歩は歩いた)の次の部屋がようやく寝室だった。睡そうに掛かる天蓋を大きく開いて、中佐はベッドの上へ大佐を座らせる。すぐに倒れ込んで、真珠色のシーツに懐く人のブーツを脱がせる武骨な長い指。


「薬飲んでから寝ろ」


上着から紙包を出すと、それから白い錠剤を摘み出す。片手で頬を叩かれて、大佐は億劫そうに細目を開けた。それから微かに笑って、薄く唇を開いた。

中佐は親指と人差し指に薬を摘んだまま、中指と薬指で器用にその唇をこじ開けた。覗いた歯の白さがやけに目に残る。歯も開かせて、指ごと薬を突っ込む。小さな錠剤を嚥下する喉。指を咥えたままの甘えた唇。役目のない小指の爪が、ふらりと揺れて頬を擽った。瞑った瞼の下が、こそばゆさに焦れてぴくりと引き攣る。


神様、キスシーンじゃなきゃいいなんて言ってません。勘弁して下さい。



「少尉、水」



言われて慌てて差出したグラスを、中佐はそのまま大佐の口許に押し付けた。齧っていた指を取り上げられた大佐の不服そうな低い声。「もう飲んだ」「いいから一口だけ飲め」喉仏がもう一度動いてグラスが傾けられる。糸が切れたみたいにそのまま意識を手放してしまった大佐の、飲み切れなかった水が口端から伝うのを中佐の手の甲が拭った。



「…ったく、面倒臭がりでしょーがねえよ」



面  倒  ……? 面、ど……?それちょっと違いませんか?



大佐が噛んだ濡れた指先を、「痛エなあ」とぼやいて舐めた。それもちょっと違うような…。ワザとズラしてんのかな、この人。いや、俺に照れるような神経は無い筈だ。バックミラー越しに見たシーンが脳裏に甦ってうんざりする。中佐は履いたままのもう片方の軍靴も脱がせてやると床へ転がして立ち上がった。



「お疲れサン、酒でも飲むか?」



正直もう一人になりたいです。俺の気が乗らないのなんか、この人はすぐ気付きそうなものなのに。断る口実を探す間にクローゼットの上から毛布を出して大佐に掛けると、鼻唄と一緒に寝室を出ていった。下官には拒否権もありゃしない。










階下のバーにでも行くのかと思ったら、中佐は部屋のダイニングの隣にあるバーカウンターの酒棚を開けた。そうだよな、護衛でした。目当ての酒があったのか、軽い猫背から鼻唄が聞こえる。何だっけ、この曲。昔の映画で流れてた。


「お前さんは何飲む?」


ビール、と言いかけて慌てて自分もカウンターを潜った。上官に酒を取らせちゃ駄目だ、寝呆けてんじゃないぞ、俺。ずらりと並んだ棚に、俺が好きな安いビールなんか無い。俺の小さな失望を横目に見て笑って、「俺と一緒にしとけよ」とカウンターにグラスを二つ並べる手。大きな手だ。ペンだこがある。指先の噛み痕はもう薄い。


氷まであるなと感心して、中佐はグラスに綺麗に丸い氷をひとつずつ放り込んだ。またカウンターを潜って、所在ない身体をスツールに引っ掛ける。ウイスキーをグラスへ注ぐ音に被せて、また鼻唄の続き。



「それ、何て曲でしたっけ」



映画で聞いたような気がするなあと言うと、「お前さんが生まれる前の映画さ」とヒントにもならないことを上機嫌に言う。この人だって、そう年が離れてる訳じゃないのに。俺の前に置かれるグラスに頭を下げる。上等なグラスのなかで氷が遊ぶ涼しい響き。



この人の印象は最初、実に単純明快に「陽気なオッサン」だった。


目の前でグラスを口に運ぶ男を、頭を下げたまま上目遣いに見る。


眼鏡越しの瞳の色。ヒスイみたいに汚れてると思う。ヒスイなんて綴りも出てこないのに。




「あー、そういやこの前なー、エリシアがクリスマスツリーの飾り付けしててそれが可愛くてなー」



胸ポケットから緩んだ顔で取り出す一枚の写真。家族の写真を取り出すのと全く同じ動作で、この人がダガーを引き出すのを知ってる。表情だってそんなに変わらないかもしれない。得体が知れない。それが今の印象。


写真には、ツリーの前に座って絡まった金色のモールを解こうと必死な女の子と、それを笑って見ている優しげな御自慢の妻。暖炉の暖かい照り返し。絵に描いたような幸せの構図。相好を崩して撮っている中佐の顔さえ目に浮かぶ。


「可愛らしいですね」


追従でも何でもなく自然に口に出た。中佐は「やらんぞ」と笑いながら言い、「俺の宝だ」と酔ったように呟いた。


「じゃあ、あの人は何です?」


あなたの指を噛んで寝ちまったあの人は。グラスを両手に、視線だけを寝室に続く扉へ向けた。聞いてから少し後悔したが、酔ったふりでもすればいい。中佐は片眉を上げて見せたが、薄く笑ったまま、別に動揺している風でもない。そーだなあとのんびりした声で考えると、グラスを持ったまま、反対の手で脇腹を摩った。



「俺、ここに傷があんだわ」



話を逸らされたわけじゃないと分かったから、俺は黙って頷いた。目が据わっていたかもしれない。中佐は苦笑して俺を見て、「そんな感じだ」と続けた。まるで仙人と喋ってるみたいだ。でも何となく理解した。妻子は他者で傷は自己だ。血の繋がらない人間をそんな風に思えるなんて、俺には想像もつかない。自慢じゃないけど女とだって半年以上続いたことがない。(ホントに自慢じゃねーな、それ) 羨ましくも無い。自分の一部のように切り捨てられない関係。そんな物、きっと息苦しくて堪らないだろう――俺には。


中佐は写真を胸に戻しながら、もう一度「やらんぞ」と微かに笑って呟いた。それは娘のことのようでもあり、大佐のことのようでもあった。「遠慮しときます」どっちにしろ遠慮しますよ。俺はグラスの底に残っていた最後の一口を飲み干した。こんな高級な酒は口に合わない。







中佐は酒が好きというよりも、会話と会話の合間の余韻を酒と一緒に楽しむというような穏やかな飲み方をした。暫く黙ってグラスを揺らしているときは、次は何を言ってやろうかと酔わない頭で考えている。


「東部は楽しいか?」


不意に投げられた問いに、こっちは少し酔った鈍い頭で考えた。最初に配属されたのが東部で、内乱後の燠のようなテロが散発はするものの、その騒がしさも慣れてしまった。「事件は多いッスけど、性に合ってますね」中佐は俺の答えを酒に溶かして咀嚼するようにゆっくり飲み干した。それから満足気に目を細めて、「結構」と一言だけ言った。

この人と言葉を交す度に感じる、何かに絡め取られていくような感覚は何だろう。自分が酷く青二才に思える。苛立ち、無力感、焦り。そうやって俺が自分を叱咤することは、結局彼や大佐の思う壷なんだろうと思う。それでいいんだ。それは構わない。なのに何かが引っ掛かる。柔らかい棘のように。



お、これもいいじゃんと酒棚へ向けた目で何かを見つけて、中佐はもう一本ウイスキーの瓶をカウンターへ置いた。その金属の封が堅くて、中佐は暫く格闘していたが、諦めた溜息を吐くと、腕を軽く揺らして指先へダガーを滑り落とした。

近くでじっと見るのはそれが初めてで、俺は思わず見入ってしまった。冴えた、少し厚い刃。刃身に刻まれた細かい切込みが、さらに殺傷力を上げている。骨ばった長い指が慣れた手付きでそれを握り、そう力を込めてもいない一撫でで封を切った。


「飲む?」


手許をじっと見ていた俺は、その声でハッとして顔を上げた。


「…いいえ、…凄いなと思って」


中佐は俺が見ていた物に気付いて、ああ、と手の中の刃をカウンターへ置いた。


「使うならやるぞ」


俺はそれを手に取らずに首を振った。「銃の方で頑張りますんで」そう言うと中佐は曖昧に笑って見せた。


「まあな、銃よか予備動作が大きいしなあ。
 でも慣れたらそう狙わなくてもいいんだぜ。あ、それは銃も一緒か?」


狙わなくても当たるような境地にいない俺も、仕方ないので曖昧に笑い返した。中尉ならカンで当てたりするのかもしれないが。



「それ、験がいいんだ。
 外したこと無えんだよ。
 気が向いたら使え。やるよ」




それ、験がいいって言いますか?
これ、一体何人の血とか吸ってますか?


やっぱりこの人物騒だよな。こういう人、敵に回したら本気で嫌だな。


俺は一応「そんな物なら余計に中佐が持ってたらいいじゃないですか」と言ってはみたが、下官の言い分なんか通らないのだ。「持っとけ」とシンプルに却下されて、俺は仕方なくそれを受け取った。思ったより重く、俺の手のなかで金色の光を弾いた。













「よーお、元気か」


東部に戻って数日後。交換手が席を外したときにたまたま前を通りかかって、俺が取った外線の相手はいつも通りの陽気な声だ。「何電話取ってんの?交換手になったの?」と面白そうに聞いてくるから、声のトーンを1オクターブは下げて「どなだにづなぎまじょうか」と呪いを掛けるように言ってやった。

中佐はげらげら笑って「ロイいる?」と気軽く聞いた。大佐は午前中一杯出ている筈だったが、時計を見ればそろそろ正午。戻ってきたか、それとも未だかという辺だった。


そのまま執務室に回せば良かったのに、雲が陽射しを弱めるみたいに何かが揺らいで、俺は実にいい加減な返事をした。



「本日は終日、帰って来ないかもしれませんが」



あー、何言ってんの俺。
仲のいい同士をさ、相合い傘とか書いて黒板に貼り出す系の陰湿な…ああ。


「あ、そうだっけか。なら……まあいっかぁ」


明るいままの声音が、俺の自己嫌悪を針で突く。俺は片手で髪を掻いてから、すうっと息を吸い直して、たった今気付いたような声を出した。


「ああ、すいません。スケジュール間違ってました。
 もしかしたら今日は午前中かも…、回します」


中佐の返事を聞く前に転送した。2コール目に大佐が出た。その素っ気無い声に何故か酷く安心して、ほっと肩を落として受話器を置いた。そんな内心の出捲った背中を、耳慣れた、甘くて冷たい声が斬り付けた。



「……軍人ってどうしてホモばっかりなのかしら」



ひっくり返る勢いで振り向くと、そこにはほとほと呆れた目の中尉が立っていた。


「ち、違います、俺は女の子が好きですよ、女の子の、こう、柔らかくって、ふかふかの…!」


必死に自己弁護するあまり、前に突き出した両手で胸を揉むアクションを付けてしまった。中尉の持っていたファイルが風を切って、俺の頬を横から殴り付けた。



「セクハラ」



燃えるような熱い頬を抑えて、俺は足音高く廊下を去っていく大本命を見送った。最悪だ。ジャン・ハボック、一生の不覚……。













後から思えばそれが、中佐から大佐へ掛かってきた、最後から二番目の電話になった。













葬儀の間、大佐の表情はずっと堅かった。悲しんでいるというよりただ機嫌が悪いような。

中佐との仲の深さを思えば、冷静過ぎるように見えた。



自分の脚を吹き飛ばされても、暫くはショックで痛みが無い。

そんな、誰かから聞いた戦時中の話を思い出した。



この人はこれからぐずぐず壊れていくんだろうか。それとも傷は塞がるんだろうか。

皆が戻りはじめても墓石の前に立ち尽くす大佐に、中尉が寄り添っていた。それは細部までが緻密に計算しつくされた、悲しくて美しい眺めだった。きっとこの風景を、空の上の薄情な男は満足そうに見下ろしてるんだろう。










「これを」


葬儀から一週間後、俺達は大佐と共に中央に着任した。

執務室に呼びつけられ、雑務の指示を受けてから、俺は大佐の机へ件のダガーを置いた。


大佐はさすがに一瞬表情を変えたが、それを手に取らずに、押し黙った。説明しろ。睨むような上目遣いがそう言った。



「以前、中佐から譲って頂きました。
 興味があるなら使ってみろと。
 でも、俺が中佐だったら大佐に持っていて貰った方が――」



黙って聞いていた大佐が、最後の台詞に目を眇めて、嘲るような笑みを口端に佩いた。





「お前がヒューズだったら、だと?」





鼻で笑う声にさすがにムッとしたが、俺は上手く言い替えることも出来ずに突っ立った。



「ヒューズは、私に持っていて欲しい物なら直接私に手渡す」



何の介入も、他人の如何なる解釈も許さないような声だった。お前に奴のことが理解るのか?そんな目。ああ理解りません、分りませんよ、だけど。


そういう意味じゃない。
それは今、単なる一振りの武器ではない。
彼の遺品だ、だから。


頭のなかではそう言い返しても、まるで言葉が通じないような無力感が俺を黙らせた。別に涙を流して感謝されようとは思っていなかったが、こんな木で鼻を括ったような言葉を投げ付けられるとも思わなかった。

沈黙の中、俺は暫く、不条理に親に叱られて膨れるガキのように動かなかったが、自分がこの場を出ていけば、大佐は結局、それを受け取るだろうと思った。


耳の下を掻いてから徐に敬礼し、踵を返して扉へ向かう。

年季の入った、鈍く光る金色のノブを掴んだ途端だった。



開けかけた扉が、ダン、と砕けたような音を立てて激しく震えた。
それは俺の首筋すれすれで。
思わず俺は反射的に首へ手を遣った。




息を飲んで硬直した俺が見たのは、マホガニーの扉を抉って深く突き刺さる中佐の凶器。





「やはり苦手だ」





自嘲混じりの声に振り返れば、手首を軽く振る悪怯れない姿。
目眩がする。
何なんだ、コレは。この傲慢は。





「ヒューズがお前に渡した物だろう。
 私はこの通り、こんな道具に慣れていないのでね。
 どこへ飛んでいくか分からない」





お前が要らないなら、そこへ刺さったままにでもしておこうか。そう言う大佐の声は相変わらず俺を小馬鹿にした響きで。余り腹が立つと、返って少し冷静になる物だと初めて知った。容赦も加減も無く投げ付けられたダガーを見て、俺はようやく気付いた。大佐には遺品など必要が無いのだ。遺品を後生大事に取っておく趣味も無い。記憶を暖め直して追憶に縋る事もない。


思い起こす必要が無いのだ。
存在が消えないのだから。




――俺、ココに傷があんだわ。




中佐の台詞を、ホテルの薄茶けた壁の色と一緒に思い出した。


ならば、これは本当に、ただの武器だ。彼は些か不得手とする類いの。



「…分かりました」



渋い声で振り向くと、大佐はいつもの仕草で、机の上で肘を付き、指を組み合わせてその上に顎を乗せて俺を見ていた。


「でも俺はまだ受け取りません。
 使いこなせないのに持ってていい物じゃないから」


何だか屁理屈だ。自分でもそう思ったが、大佐にはただの物でも、俺にはまだそんな風には思えない。大佐はそのままの姿勢で、口端だけ吊り上げて笑った。



「確かにお前には不似合いかもしれんな」



不相応と言われなかっただけ感謝するべきなんだろうか。ああ、もう面倒臭い。言ってしまおうか。言ってしまおう、本音を。溜りに溜った、このもやもやした気持ちを。溜息を吐き出すと、最後の息に乗せて口に出した。



「あんたらにはついてけません

 俺はどうせ戦後入隊の、詰めの甘い、覚悟の浅い、屍体の山だって見た事も無いし、その山を築いても成し遂げたい野望も無い――。あんたらみたいな結びつきの強さは、理解の範疇外だ。知りたくもないし、もっと言えば気味が悪い。こんなモン渡されても、あの人みたいになんかなれる訳ない」



淡々と言うつもりだったのに、途中から噛み付くような語勢になって止められなかった。

今日は何日だったかな。今日クビになったら給料は何日分出るんだろうな。
清々した気分の裏で、そんなことを姑息に計算し始めた俺を、大佐は目を瞠って見てから一笑した。



「誰がお前にそんな大層な期待をするか」



この人がもし、もっと厳めしい顔だったら、俺はとっくにキレて部屋を出ているだろう。吐き出す毒舌に相応の姿だったら。なのに嵌め殺しの窓から溢れる光を背に受けて、余計に削れて小さい肩。皮肉気に歪めた口許は子供みたいで。アンバランス過ぎて毒気を抜かれる。



「付いて来れないなりに、どんなに遅れてもみっともなく付いて来るのが貴様の仕事だ、少尉」



ああ、クソ。


そう言って笑う顔は、面差しは少しも似ていないのにやけに中佐を思い出させる。あの喰えない顔を。 俺はもしかすると、不条理な気持ちのまま一生この人にコキ使われて死ぬのかもしれない…。網に掛かった魚のような諦めと覚悟を込めて、踵を鈍く鳴らし、気怠い敬礼を返した。



「宜しい、下がりたまえ」



上機嫌に俺を追い払う声。


つくづく損な籤を引いたと痛感して、俺はダガーが突き刺さったままの扉を出た。





















(2004.05.25)