春の嵐

毎年、春になると私のもとへちいさな嵐がやってくる。
年毎にその勢いを増して。




冬枯れていた枝に新緑が揃い、足元の芝が柔らかく生えはじめる頃。いつからか少女は、ある休日を私と過ごすためにやってくるようになった。この年頃の少女は、すこし見ない間に目を見張るような成長を遂げる。朝早く、ドアベルの音で目覚めた私が玄関に見たのは、昔の柔らかい輪郭を残しつつも、もう充分過ぎるほどに魅力的な女性だった。

すらりと伸びた腕と豊かな胸元を露にし、白い、切り替えが幾重にも重なる、ふわりとしたスカート、そして華奢な足首にはスカートの裾と同じレースの靴紐。片手には旅行用のバスケット。


「ロイ、久しぶり…凄い寝癖!」


足元に鞄を放り出して、私にしがみついてくるしなやかな身体。長い金髪が私の視界を蜂蜜色に覆う。寝起きのぼけた身体を玄関に押し倒されそうになって、思わず片手でドアに縋った。


「…来るなら来ると連絡しなさい、エリシア…」


空いた片手で背中を支えてやると、指が素肌に触れてぎょっとした。胸も見えそうだし、背中も開き過ぎだ。スカートの生地を上着に少し回すべきだ。去年から寄宿舎付きのお嬢様学校に入った筈だが、いったいどんな教育を受けているのやら…。


玄関への長いアプローチの向こう、門の前を通りかかった近所の老夫婦が、私とエリシアをじっと見ている。ハッと気付いて視線を向けると、細君はバツ悪げに視線を逸らせ、主人は何故か私を励ますようにぐっと親指を立てて見せ、それから連れだってそっと立ち去った。違う、違うんだこれは…。ああ、時々焼き過ぎたパイを持ってきてくれるいい御夫婦だったのに。



「エリシア、玄関口では何だ。中に入りなさい」


そしてそんなに胸を擦り付けるのは止めなさい。育ったのは分かったから。天国でヒューズが泣いてしまうよ。金網に絡み付く蔦のように離れないエリシアを何とか引き剥がすと、彼女は仕方なさそうに離れて鞄を拾った。


「入らないわ、さっさと仕度して。ロイ」


そう言いながら、拾った鞄を私に押し付ける。これは入れておけということだろうか。


「せっかくいい天気だから、先にパパに会いに行きましょう」


まずその髪を梳かして、着替えて、車を呼んで頂戴。

ちいさな女王様はそう命令すると、薔薇の蕾が付きはじめた庭をふわふわと散歩しはじめた。父親が甘やかし過ぎたから、世界中の男は自分の言いなりだと思っているぞ、ヒューズ。私は溜息をつきながら苦笑して、鞄を手に一旦部屋へ戻った。









教会から墓地へ続く並木にも、陽射しに透けるような若葉が茂り始めていた。教会の前へリムジンを止め、緑の影が落ちる路を、踊るような足取りで歩くエリシアの後をついて行く。学校は思ったより厳しくなくて楽しいわ。友達もたくさん出来たの。寮の食事にはちょっぴり飽きちゃったけど。寮母さんが寝ちゃったら、こっそり抜け出したり。そんなことを話しながら、ときどきくるりと私の方を向いて笑う。木漏れ日、翻る白いスカート、微笑みに細くなる緑の眸。そうだな、私も楽しかったよ。士官学校とは趣きが違うだろうが。そう答えながら、まるで自分が学生時代に戻ってヒューズと話しているような気になった。



ふと、前を行くエリシアが横道に逸れてしゃがみこんだ。 足を挫きでもしたかと駆け寄ると、彼女は産毛も生え揃わない小鳥の雛をそおっと両手に掬い上げて私を見上げた。

「巣から落ちたのかしら、…あ、動いた、大丈夫」

エリシアの手のひらのなかで雛はぴくりと動き、ちい、と細く鳴いた。頭上に茂る樹を見上げると、そう高くはない梢に巣が見える。親鳥の留守中に落ちたらしい。エリシアは、私の視線の先に木の枝をくしゃっと纏めたような巣を見つけ、立ち上がると胸のシャーリングを伸ばして雛を入れ、足首のレースを解いてサンダルを脱いだ。

「私が行こう」
「ロイが昇ったら枝が折れちゃうわ」

返事をする前に、彼女は慣れた様子で、樹の瘤を足場にするすると昇っていった。長いスカートの裾が太股まで捲れあがって、私は二重の意味で冷や冷やしながら見守った。

「覗かないでよ、ロイ!」

突然、ぴたりと昇る脚を止めて、エリシアが揶揄うように笑って私を見下ろした。

「乳臭い子供のスカートの中に、興味は無いから安心したまえ」

すこし本気でむっと膨れる彼女に、余裕の笑みを送って手を振ってやる。木登りを再開したエリシアは、やがて巣に辿り着いて、雛を大事そうにそこへ戻した。礼を言うように、もう一度雛が囀るのが聞こえた。





彼女はまたするすると枝伝いに降りてきて、いちばん低い枝に脚を揃えて座ると私を手招いた。随分慣れているな、しょっちゅう寮から抜け出しているんだろう。ヒューズもよく窓から抜け出して酒だの何だの持ち込んで……。思いながら彼女の真下に立つと、エリシアはちょっと心配そうに眉を下げた。

「親鳥、ちゃんと戻って来るかな?」

私は軽く笑って、そこから飛び下りそうな体勢の彼女を受け止めようと両手を差し伸べた。

「餌を取りにいってるだけだろう、すぐ戻ってくるよ」

エリシアは眉を緩めて微笑み、「靴を拾ってから向こうを向いて」と言った。よく意が汲めないまま、脱ぎ捨てられたサンダルを片手に背中を向けると、肩の上に爪先がそうっと触れて、それから頭を抱きかかえられ、首を太腿に挟まれた。


「エリーシア!」
「ロイに肩車して貰うの何年ぶりかなあ!」
「目の前が見えん、そのバサバサした…」
「あら、ごめんなさい」
「除ければいいって物じゃない、降りなさい!」
「嫌よ、ヒューズ准将の命令よ。パパのところまで乗せてって」
「……階級はもう、私の方が上なんだが、ヒューズ准将」


断固として降りてくれそうにないエリシアに、人目が無いうちに墓前まで連れて行った方が早いと観念して歩き出す。正直重いぞ、エリシア。腕と脚は細いのに、大人の女と変わらないじゃないか…。

黙って歩き出した私に、エリシアも暫く黙って私の髪を掴んだり撫でたりしていたが、例によって突然、突拍子のないことを言い出した。



「ママとロイが結婚すればいいのに」



思わず膝から脱力しそうになったのを、肩に乗っているエリシアも感じて笑い出した。

「そんなにビックリしなくてもいいじゃない。
 だってロイはずっとひとりだし、ママもパパがいなくなってひとりだもん。
 私もロイがパパならいいわ。マスタングってちょっと厳めしい名前で可愛くないけど…」

黙っていたら明日にも日取りを決められてしまいそうだ。私はとりあえず当たり障りなく、やんわりとした声で返事をする。

「ひとり同士だから丁度いいなんて言ってたら、誰だっていいじゃないか。
 エリシアにはまだ分からないかもしれないが、人はそれぞれ伴侶に求めるものが…」

何か考えながら膝から下をぶらぶらさせるのは、椅子に座っているときによく見たヒューズの癖だ。

「だってママはパパが好きだったのよ?」

白い脛を揺らしながら、私の撫で付けた髪を好きに乱してエリシアが言う。だろうね、そんなことは知ってる。



「で、ロイもパパが好きでしょう?」






それとこれとは少し違ってね……。
そう答えるまでに10歩も歩いてしまった。





墓標の白い波が見えはじめる頃、どこからか鳥の囀りが聞こえた。肩の上でエリシアが振り返る気配に足を止めると、エリシアは伸び上がるようにして梢を見詰め、「あ、親鳥戻ってきた!」と嬉しそうに身体を揺すった。良かったな、エリシア。それなりに肉感的な太股が首を挟み込んで本当にいろいろと複雑だが良かった。話も逸れて本当に良かった。私は黙って何度も頷いた。





墓地の門を潜ると、一面に芝生が植えられている。そろそろ彼女を降ろそうと屈みかけたが、「だーめ、もうちょっと」と肩の上で跳ねられた。渋々また腰を伸ばし、少し小高い場所にあるヒューズの墓標へ歩き出す。


「ねえ、ロイはママが嫌いなの?」


しばらく黙ってたと思ったら、また話が戻ってしまった。
もう何とかしてくれ、ヒューズ。
手に負えないから頼むから生き返れ。


「嫌いなわけないだろう。むしろ好きだ」


開き直ってやや堂々と言うと「じゃあどうして駄目なの?」とまた髪を引っ張る。エリシアはどうしても私を誰かと結婚させたい(もしくはグレイシアを再婚させたい)らしい。父親がいないことで、寂しい思いをしてるんだろうか。学校で何か言われてるとか。身体はやたらに育っても、心はさっきの雛のように不安なのかもしれない。悪ふざけだと決めつけて聞き流してはいけないんじゃないか。私は真面目に答えることにした。


「エリシア、君は親友の彼氏と付き合えるかい?」
「二人が別れてるなら平気よ」
「別れてるというのとはまた違うだろう。グレイシアはヒューズが嫌いになった訳じゃない」


ふうん。そう言いながら、エリシアは私の頭を抱いて、逆しまに顔を覗き込んだ。いきなりすぐ間近にあの緑の目。バランスを崩し、前に倒れそうになる私の慌てた顔を、エリシアの両手が包み込んで鼻の頭にちょこんと控えめなキスが触れた。


「嫌いになった訳じゃない…のは誰かしら」


言葉の意味が分かる前に、重さを支え切れず前へのめった。両手を付くと私の頭を跳び箱のように飛び越して、ようやくエリシアが肩から降りた。芝生の上に転がった私の目に、腰の上まで捲れ上がった白いスカートと、今まで私の首を挟んでいた白い脚、それから指の幅しかない細い紐のような――両脇にスカートと揃いのレースの付いた――下着が見えた。私は思わず目を瞑った。ばさっと裾を押さえる音がして、頭上から盛大な溜息と呆れ果てたような声が降ってきた。


「やっぱりママと結婚しなくていいわ。
 ママまだ若いのに、ロイみたいに枯れた人と結婚したら可哀想!」


そろそろと薄目を開けると、肩で風を切ってヒューズの墓へ歩いていくエリシアの後ろ姿が見える。何故。なんで私は怒られてるんだ。何故と言いつつ理由は怖くて聞きたくない気がする。

子供は天使で無邪気なんて、一体誰が言ったんだ?
女だというだけで厄介なのに、その上子供!

私は絶対に欲しくない。
父親代行だけで精一杯だ。



私は溜息をついて立ち上がり、袖についた枯れ草を払い落として、小さな嵐の後を追った。

















(2004.05.19)