鬼火


軍が徴収した、元は学校だったらしい施設。
乱暴に掲示が剥ぎ取られたボード、その教室に並べられる簡易ベッド。
居場所のない軽傷の男達が座り込む廊下は至極歩き難い。



教えられた教室…いや、病室に、ベッドは二十床近く並べらえていた。それぞれを仕切るカーテンもない。二床をくっつけて三人押し込まれているベッドもある。膿と血と、戦場にはどこにでもある塵の匂い。

ベッドの上には包帯だらけの男達が、呻く力もなく横たわっている。包帯の下は虚なのか、眼窩が不自然に落ち窪んだ顔。膝から下の無い脚。包帯に茶色く沁みでる血。窓から差し込む真昼の陽射しは中世の絵のように優しく、それだけがこの地獄に酷く不釣り合いだった。



「あそこだ」


ヒューズが端から二番目のベッドを目で示して歩き出した。
俺には分からなかった。そいつの顔の半分は包帯で覆われていたから。


ヒューズはそのベッドへ足音を殺して近付くと、その男の名を優しく呼んだ。男は包帯から覗く片目をゆっくりと開いて、信じられないようにヒューズを見、言葉にならない安堵と懐かしさを目尻から涙にして零した。


「弱気になるなよ、次の列車で後方に帰れる」


包帯から覗く金の髪を、ヒューズの指がそっと撫でる。長い、節の目立つ、器用な指。その指の下で、声も無く、まるで懺悔でもするように涙を流す血の気の失せた白い顔。「今日か明日」ここへ来る前に訪ねた軍医の言葉は、残念ながらその通りなのだろう。

男は士官学校で、一時期ヒューズと同室だった。明るい男で、ヒューズともよく気が合っていた。演習ではよく目立った。恵まれた体躯と運動神経。軍人らしい精悍な容貌。当たり前のように前線に送られ、耳と、片腕を肩から吹き飛ばされた。


「……ス、」


男はヒューズをファーストネームで呼んだ。ヒューズは椅子を引っぱり出して腰を掛け、顔を近くして男の無傷な片手を握った。


「何か欲しいか?…ああ、ほら、ロイも来たぞ。
 覚えてるだろ、ロイ・マスタング」


男は言われて初めて俺の存在に気付き、のろりと視線を寄越した。覚えていないという意味か、どうでもいいという意味か、緩慢に一度、首を横へ振った。ヒューズはちらと俺を見て謝るように笑った。「座れよ、お前も」そう促されて、俺も何故か首を横へ振った。


「…マース、…俺は死ぬんだな」


時折、唇が凍えるように震えた。ヒューズは前髪を梳いていた手で、その唇を端から端まで撫でた。そんなことを言うな、という風に。空に似て蒼い眸が、歪んで笑った。


「お前に看取られるなんてな、…どうせなら…」


男は長い溜息に混ぜて恋人の名前を呼んだ。「すぐに会えるさ」とヒューズは静かに笑って言った。安心したのか、喋ることすら疲れるのか、男はそれきり、暫く黙って目を伏せた。眠りに落ちたのではない。ヒューズの手を握る手が、何度も確かめるように組み変えられるのを、俺は突っ立ったまま見下ろしていた。


「なあ、マース……」


目を瞑ったまま、嗄れた声で男が口を開いた。唇の端に、黄色い目脂のようなものがこびり着いていた。彼は確か、軍人を輩出するいい家柄だったように記憶していた。それがこんな急拵えの野戦病院で、家族にすら知らされずに死んでいく。死は平等だ。残酷なまでに。


「…死んだら、どうなるのかって、そればかりを…考える…」


ヒューズはただ黙って、握った手をもう片手で上から撫でた。男は焦点の合い難いような目を向けて「…お前は、どう思う」と呼吸が苦しいのか胸を喘がせて訊いた。ヒューズは椅子に座り直し、少し考える顔をしてから、慰撫するような優しい声で言葉を落とした。


「死んだらそれっきりさ」


男は天井へ向けていた目を瞠って、それから気負いが抜けたように笑って全身から力を抜いた。「はは…、…普通、…神の国に召される、とか言うんだぜ…?死にそうな、奴の前、じゃ…」切れ切れに言う口許は、赦しを授けられたような笑みを浮かべている。


「俺の人生って何だったんだろうな…
 生まれて、気がついたら軍人になってて、
 初陣で腕吹き飛ばされて…、出世もしねえで、親より先に死んでよ。
 いいことなんて、これっぽっちも…」


男は笑ったまま泣いていた。そこだけ奇蹟のように怪我のない頬を、涙が幾筋も伝ってシーツへ落ちた。何故だか、少し元気を取り戻したかのように見える。



「俺に会えたろ?」


ヒューズは笑って、男の頬を拭ってやった。「馬鹿言え…」男はくしゃくしゃの顔で笑った。この男は本当にヒューズが好きだったんだなと思った。ヒューズより先に死ねるこいつは幸せだ。とりとめなく、酷い事を思った。



「故郷でちょいとのんびりしとけ。会いに行くから」ヒューズが耳元へ顔を寄せてそう言うと、男は何度も頷いて「ああ、待ってる」と満足そうに目を閉じた。まるで牧師だ。ヒューズは眠りにつく子供にするように、色の抜けたような金髪を指に巻いて撫でた。


男は深く寝入ったように見えたが、突然口から泡を吹いて、酷い鼾のような音を立て始めた。ヒューズはそっと握っていた手を外し「医者を呼んでくる」と椅子から立ち上がった。早足に彼が去ってしまうと、取り残された俺は成す術もなく、臨終の苦しみにもがく男の傍へ立った。


突然、男の腕が伸びて、俺の手を掴んだ。骨が折れてしまいそうな強い力で。


「…ス、…マース、……俺、…の…、」


男が一瞬、意識を取り戻していた。かなり混濁してはいるようだが。違う、俺は、と言い返しかけて、きっとヒューズは間に合わないと思った。腕に食い込むような指を、宥めるように上からそっと撫でて頷いた。


「…俺の、…ナイフを…使ってくれ、…まだ、支給、された……
 お前の、は…、ボロ…ボ……、だ…」


俺の胸に突然、激しい感情がこみ上げて溢れた。こんなに苦しいときに、俺はこんなことが言えるだろうか。ヒューズの代わりに何度も頷いた。彼の濁り始めた目に、俺がヒューズに映るといい。彼の名をヒューズのように呼んでやりたい。でもそれは冒涜のような気がして、喉に絡んで呼べなかった。


彼は、俺が頷くのを見て指先から力を抜いた。
シーツに落ちた指の先が細かく痙攣し始めた。
彼が少しでも苦しまずに逝ければいいのに。俺はどうしようもなく無力で、ただその指先を、きっとヒューズがいればそうするように握るしかなかった。
痙攣は次第に大きくなり、身体を震わせ、喉の奥から全身の空気を押し出すような拉げた声を上げて、彼はそれきり動かなくなった。


ヒューズが戻ってくるまで、俺はその指を握っていた。
圧倒的に少ない医者をどうにか掴まえたヒューズは、彼がもうこと切れてしまったのを見て、その蒼い眸を指でそっと伏せさせた。「お疲れさん」とその死に顔に呟く横顔は、優しく微笑んでいた。


俺のこの眸も、あんな風に伏せられるといい。永遠に。





連れてきた医者は、患者がもう死んでしまったのを近付きもせずに確認し、屯ろしている衛生兵に何ごとか囁いた。申し訳なさそうにベッドに近付いた数人が、「…手続きを、遺体をどこへ送ればいいか分かりますか?」とヒューズに訊ねた。ヒューズは差出されたメモに彼の名前と覚えている限りの住所を書いて渡した。さっさとベッドを空けて次の患者を入れたいんだろう、衛生兵は毛布に彼の遺体を包んで担ぎ上げた。


「ヒューズ、…ナイフを、」


彼の遺言を伝えると、ヒューズは衛生兵に断って彼の雑納から真新しいナイフを取り出した。「丁度良かった。刃が欠けて困ってた」ヒューズはまるでそれを俺から貰ったように感謝の滲む柔らかい目で俺を見上げた。俺は堪らなくなって、彼の代わりにヒューズの頭を両腕に抱き締めた。

何て脆い場所に俺達はいるんだろう。死に馴れたような気になっていたけれど、一度気付いてしまうと恐ろしくて竦み上がるようだ。


「…怖いのか、大丈夫だぞ」


ヒューズが片腕を伸ばして、俺の背をおおらかに撫でた。



お前が居るから怖いんだ。
お前を失うのが怖いんだ。


あんな風に、砂時計の砂が落ち切るのを見守るように
お前を目の前で徐々に失ったら、俺はどうなるんだろう。

想うのすら怖くて、目を強く瞑って意識を暈した。













(2004.05.06)