彼について知っている二、三の事柄




「新しい上官てどんな人なんでしょうね」


入れ替わりに中央へ帰る准将の本を、書庫で整理しながら、少し期待するような声で曹長が言う。


「さーなあ、イシュヴァールじゃ凄かったらしいが、ココは戦地じゃねえし」


軍事国家というのも妙なもんだ(俺だって一応軍人なんだが)。階級が上の人間が実務能力やら政治手腕があるって訳じゃない。それでも軍功があれば、中央や地方を任されてしまうんだから、まーどっかで破綻もしようってもんだ。戦争屋と政治家、両方出来る人間なんてそうざらには居ない。


「気乗りしない声ですねえ」


フュリーは准将の本を木箱に詰めながら、視線だけ上げてこっちを見た。


「いんや、そういうんじゃないけどさ。俺、准将と気が合ったから」
「気が合うっていうか、ヘビースモーカー同士っていうか」


笑う声に、へへ、と咥えた煙草をピンと上へ向けて見せて、曹長が詰めた箱を縄で結わえる。愛煙家なのはいいが、読書家って奴はやたらに本を持ってるから引っ越しが大変だ。腕に力を込めて担ぎ上げ、外に止まっている車まで運ぶ。






東方司令部は内乱のあったイシュヴァールに近い所為もあって、実戦向きな人間が集められているらしい。フュリーなんかはどうなんだと思うが、あいつの電気系統の知識はそういう場所でも役に立つんだろう。俺は先の戦争を知らない。そりゃ生まれちゃいたが、軍に入ったのは戦後処理もすっかり終わった頃だ。戦争に行った奴らは、俺が入隊した年を知ると、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて必ず言う。


「それはいいときに軍に入ったものだ。
 私は先のイシュヴァールで本当に死ぬような思いを」


へえへえそうですか。他人の惚気と昔話ほど退屈なものは無い。従軍したというだけで、これという軍功のない人間ですらそうな訳で。英雄と呼ばれた男がどれだけ傲岸不遜になるか想像はつく。准将は良かった、ちょっとボケが入ってて昔話もあまりしなかった。







司令部のカビ臭い廊下を箱を抱えて歩きながら、煙草の先で伸びた灰が崩れそうになっているのに気がついた。軽く首を上下して払ってやると、前から此方へ歩いてくる奴がいる。


まだ遠いから小さいのか?と思ったそいつは、近くなっても小さい。見ない顔だ。どっかから赴任してきたか、士官学校を出たばかりか。まだ若い癖に肩からコートを偉そうに着流している。幼い顔にその姿が不釣り合いで、思わず笑いを洩しそうになったとき。横を通りすがりに、その男は頭も下げずに冴えた声で言い放った。


「歩きながら煙草を吸うのは止めたまえ。
 見苦しい」


何だって?
思わず足を止めて、そのコートの裾を翻す後ろ姿を振り返った。
それは廊下の突き当たり、准将の執務室に軽いノックの後入っていった。






「…新しいの見た。いきなり『止めたまえ』だぜ、たまえ」


荷物を置いて、まだ戻って来ると、フュリーは「もう会ったんですか?」と目を輝かせた。また木箱が二つ出来ている。あと何往復すりゃ、この本棚は片付くんだ?思えば煙草は罪のない娯楽だ。楽しんだ後は煙になって消えちまう。そんな愛すべき煙草を……。

顛末を話すとフュリーは感心して大きく頷いた。


「それ正しいですよ。僕も前から歩くときぐらい止めて欲しいと思ってました」
「いや…まあ、それはいいけどよ、『見苦しい』だぜ?」


実際見苦しいですもん、と曹長は愚痴る俺の前で三つ目の箱を作って、さっさと持っていけとでも言う風にポンと叩いた。「何か僕、新しい上官のこと好きになりそうだな」なんて、嬉しそうな笑顔も添えて。まさか司令部全面禁煙とかにはならないでくれよ。俺はすっかり気落ちして箱を抱え上げた。気が滅入ると重い物はより重く感じる……。






もしかしたら違うかもしれない…という期待は、その夕刻に執務室で砕け散った。

「さて、新しい君達の上官だが」

准将の、進んでは戻るメビウスの輪のようなスピーチがようやく終わり(多分喉が嗄れてきたんだろう)、促す手に一歩前に出たのは昼間廊下で擦れ違った顔だった。その後ろには楚々とした女性が控えている。

「ロイ・マスタング大佐だ。大佐のイシュヴァールでの戦功については誰も知るところであるが…」

また延々と始まる話に半眼になりながら、どう見ても俺と年が変わらないような…もしかすると俺より若く見えるようなその顔を不躾に眺めた。彼は俺達全体を眺めてから、一応顔を覚えようとする気はあるのか、ひとりひとりをゆっくりと見た。隣に立つブレダから、俺に視線が向けられる。

俺はわざと煙草を咥えていた。
別に怒らせようと思ったわけでもなく、ただ、俺は24時間ずっとこうなんだという意思表示のつもりだった。「歩いて」はいない訳だし、絶対吸うな二度と吸うないついかなるときも吸うなと言うなら田舎に帰って農場でもしてやる。煙草は俺の半身、煙草は俺の愛するベターハーフだ。


彼は見たこともない真っ黒な眸で俺を見て、煙草もちらと見たが特に表情を動かさなかった。それは拍子抜けがするぐらい感想のない視線で、あっさりと俺の上を通り過ぎ、今度はフュリーへと向けられた。


あれ?嫌煙家という訳ではないのかもしれない。フュリーは大胆にも、彼ににこっと笑ってみせた。新しい上官殿は少し戸惑った顔をしてから、その冷たくすら見えていた眸を和らげて少し笑った。何だ、俺も思いきり笑ってやった方が面白かった。肩賺しを喰らった気分で、俺は隣でにこにこしている曹長を見下ろした。






彼の笑顔を見たのはそれっきり。

大佐が他の奴がよくするような手柄話をすることは無かった。まあ、来たばかりでいきなり俺みたいな下官にする話でも無いんだろうが。

仕事ぶりは悪くなかった。手を抜くとこは抜いて、決めるところは決めて。少なくとも前任者の頃よりずいぶんと能率が上がった。まあ前が悪過ぎたのかもしれないが。

まあ、思ったより…第一印象を思えば、随分とマシな人間だ。時折言葉尻がキツくなったり、始終気難しそうな顔をして近寄り難かったりするのを除けばこれといって欠点も無いように見える。まだ此処に慣れてないからだろうか、何となく上官らしい暖かみとか、おおらかさには欠けるんだが。


引き継ぎの雑務と散発する事件に忙殺され、暫くは残業が続いたがそれもようやく落ち着いた某日。渡された決裁の書類を片手にひらひらと揺らしながら、俺は執務室に向かった。

扉の前に立ち、ノックしようとすると、電話中なのか話声が洩れてくる。 出直そうと踵を返しかけて、聞いたこともない馴れた口調に足が止まった。


「大きなお世話だ、上手くやってる。用件はそれだけか、もう切るぞ。俺は忙しいんだ」


苛々した声はいつもとどこか違う。駄々を捏ねる子供のようだ。上手くやってねえぜ、もっと言ってやってくれ、電話の向こうの人。


「だから、ちゃんと普通に喋ってる…、こんな物言いはお前だからしてるんだ。冷たくなんか言ってないぞ。部下には穏やかに優しく、仕事も出来て頼りになる上司だって…苛められてなんかいる訳ないだろ、馬鹿。勿論だ、苛めてもいない」


いやいや、「見苦しい」ですから。昨日は「手が遅いのか?頭がか?」って仰っしゃいましたよねえ、大佐。気に食わない書類は提出した目の前で破かれっし。


「あのな、子供じゃないんだ。お前がわざわざ見に来る必要はない。心配しなくても俺は人望厚い上官としてだな」


子供扱いされてるんスか。ああ、でも何となく分かる気がする。手の掛かりそうな子供だ、同情しますよ、電話の向こうの人。人望はまあ…この書類っくらいッスかね。ぺらぺら。


「だから、来なくてもいい、いや、会いたくないとかそういう…、仕事か、馬鹿、最初からそう言え。いつだ?」


最後は随分優しい声になって電話が切れた。セントラルに恋人でも残して来たのかな。すぐ入ると聞き耳立ててたのがバレるかと思ったが、取り繕うのも面倒で、俺はノックしてさっさと扉を開けた。大佐は机の上、両端に積み上げられた書類の間から、頬杖をついてちょっと呆けた顔を覗かせていた。中尉がその横で、処理の終わった書類を分別している。

「何だ?」

俺が入ってきたのを見ると、途端に険のある目で用件を促す。部下には穏やかに優しく、じゃないんスか。そう言ってやりたいのをとりあえず堪えた。差出す書類を片手で受け取る。英雄だか何だか知らないけど弄り難いんだよなあ。身長に似てやはり少し小さめの手が揺れて、もう行けという風に俺を追い払った。






「大佐に恋人かあ、そりゃ居るかもしれませんねえ」


帰宅ついでに官舎へ送りながら話すと、当然だという風にフュリーは助手席で頷いた。

「そっかあ?何か違和感があんだけどな、あの人にそういうの」
「居ない方が違和感がありますよ、あんな顔だし」

あんな顔ってどんな顔だろう。褪めたような顔しか浮かんで来ないんだが。俺が女だったらああいうのはちょっとなあ…と呟くと、少尉が女だったら大佐もちょっとって言うと思いますと至極理性的な返事が返ってきた。もしかして俺は、少し悪い癖が出てるのかもしれないな。ああいう殻のあるっぽい人を構いたいような。そんで苛々するのかも。でもそういうのって大抵、骨折り損でこれっぽっちの感謝もされないんだよな。思うままにつらつらと喋ると、曹長は真顔で聞いてから噴き出した。


「損だから止めるとか、出来る性格じゃないじゃないですか、少尉は」


そうかな。そうでもねえんだけど。俺は本当は悪い男だぜ。顎を撫でてニヤリと笑うと、片手で運転しない!と横から叩かれた。運転手を叩く方が危険だぜ、曹長。






執務室に集められ、昨日起きた小規模なテロの始末について話していると、出し抜けに扉が、それも両方とも威勢よく開いた。


「よーう、ロイ、何だその渋い顔は!」


取次ぎもなく開いた扉、軍服、肩章は中佐、だ。司令部の執務室に、子供が忘れた弁当を届けにきた父親のような陽気さで。そして多分、その子供にあたる…ロイというのは、大佐、だよな。全員がその堂々とした闖入者を見て、それからその顔色を伺うようにそうっと大佐の方を見た。


案の定、大佐の握りしめられた拳は小刻みに震えていたりする。もう仕事を与えられ終わった奴らは、大佐が爆発するのを予知し、蜘蛛の子を散らすように部屋を飛び出していった。こういうときだけ機敏なブレダが先頭だ。俺も飛び出したい。飛び出したいが、また仕事を割り宛てられる前だった。

ファルマンが耳元で「【巻き添え】他人の事件・悪事に巻き込まれて、罪に問われたり損害を受けること」と囁いて出ていく。お前は本気でよく分からねえ…!


闖入者は解散して出ていく皆に、「おう御苦労!」といちいち労う声を掛ける。そういうのはこの人がすべきじゃないのか。この人とこの髭中佐を足して割ればちょうど良くなる。そして部屋には俺と、大佐と、中尉と、…何故か逃げ遅れた曹長と、髭中佐。


「午後から来ると聞いていたんだが」


睨みつけられても全く平気そうに、髭中佐は笑って肩を竦めた。この人、マゾかもしれない。それかよっぽど鈍いのか。慣れ?長いおつき合いって奴?


「いや〜、早く来たくって。丁度よかったなあ、会議も終わったとこに来て」


おっさんおっさん、まだ終わってない。心の中で突っ込みを入れて、俺はこの場を去るべきか、それとも待つべきかと曹長にちらっと視線を向けた。案外神経の図太い曹長は、事の成り行きを楽しそうに眺めている。


「終わってない!変更があるなら電報でも打て。昨日は午後から行くと言ってたろう、此方にも仕事の段取りがある」


昨日?

あの電話の相手はこの人か。曹長も同じことを思ったのか、俺を横目に見た。恋人じゃないのか、なんだ。俺は気が抜けて、どうせ怒ってるならいいだろうと訳の分からない理屈で咥えていた煙草に火を付けた。


「吸うな、少尉。まだ会議は…」


ペースを乱されて苛々する大佐に、髭中佐はまた歩み寄っていきなり頬をひっぱった。むくれた童顔が、びよんと伸びた。


「何だ!もうお前は…、」
「なんでそんな無愛想なのお前。いつもみたいに可愛くにっこり笑ってみ?」
「私がいつそんな笑い方をしたか…!」
「いつもしてるじゃん、はいチーズ」


何て一方的な攻撃。そして大佐はほとんどノーガード。いや一応ガードはしているがまったく防ぎきれてない。いつも澄ましてて間合いがつかめない上司は、ただの小動物と化していた。きいきい怒って頬をひっぱる手を払い除けると、今度は頭を撫でられる。払い、撫で、払い、撫で。昔どっかの芝居小屋でこんな喜劇見たことあるな。あっ、ついに蹴りが入った。

ぽかんとして見てると、隣で曹長が笑い出した。

「まるで子供を心配して見に来た母親みたいですよね」

はあ。成る程ね。
俺は気を取られているうちに足元の絨毯の上に落ちてしまった煙草の灰を、靴先で踏んでそっと散らした。
俺が気を揉まなくても、もう保護者が居る訳だ。


「こいつ、正直どう?上手くやってるって言いやがんだけど」



振り返った中佐が眼鏡の奥で悪戯気に緑の目を細めた。
俺は短くなった煙草を口から外して、敬礼して答えた。



「穏やかで部下に優しく、人望厚い上官であります。仕事も出来て頼りになります。ちなみに苛めても苛められてもいません」



「…聞いてたな…」




悔し気にギリギリと歯噛みする大佐が可笑しくて、中尉がぷっと噴き出したのを皮切りに全員が笑い崩れた。曹長は笑い泣きで眼鏡を外して目を擦り、中尉は失礼だと思っているのか壁を向いて肩が笑いに震えるのを必死に押し殺した。最悪なのは中佐で、床に膝をついて絨毯を叩いて笑った。大佐が怒ったような泣きそうな顔で発火布をポケットから抜き出し、それを見つけた俺が騒いで、俺達は一斉に廊下に飛び出した。



背中に迫る熱気を感じてマジかよ!!と悲鳴を上げながら思った。

新しい上官も案外悪くない。











(2004.04.29)