シングルモルト

女性を誘うには些か武骨過ぎたかもしれない。
薄暗いカウンターと、テーブルはほんの数席しかない地下の酒場。
煙草でくすんだ煉瓦の壁にダーツの的。
まだ私が東部へ行く前、東部に赴任してからも、中央に来ればヒューズと来た。

「いつも此処で飲んでいたからな、他にいい場所を知らない」

中央に戻ったばかりでまだ店を探す余裕もないからな。早くデートに使える店を開拓しなければ。 私のそんな軽口を、中尉は笑って聞いてカウンターのスツールを引く。
スツールの革シートは端が破れていたが、彼女は気にせずその上に仕立てのいいスーツの腰を降ろした。

飴色に磨き上げられたカウンター。
前に此処へ来たのは何時だったろう。
強か酔っぱらって、あいつにホテルまで引き摺って行かせた、それは覚えている。



わざと酔っ払ったのに馬鹿め。
かいがいしく水を持ってくるヒューズに、放り出されたベッドの上でそう言ってやったら、そんなこったろうと思ったよと頭から水を掛けられた。

貼り付く濡れた髪を、あいつは自分のシャツを脱いで大雑把に拭った。



どうしてこの店に彼女を連れてきたんだろう。
一人で来れば、きっといろんなことを思い出してしまいそうで。
でもとても懐かしくて。

マスターが私達の前でグラスを拭きながら、無言で注文を待つ。
メニューなどない店だ。酒は大概揃っている。
ウイスキーを。いつも頼んでいた…あれは何ていう酒だったんだろう。
マスターは私を見て「前に来られたときのと同じで?」と目で笑った。

「よく、いらっしゃってたんですか」

中尉はアイリッシュコーヒーを注文し、カウンターの奥にずらっと並んだボトルを見渡して、あれ、と並んだボトルのなかの一本を指差した。

「中佐のですね」

ボトルの薄茶色のラベルにMaes Hughesと右上がりの大きな字。
字すら戯けている。
そうだ、私が早々に潰れたから、ヒューズはその晩飲むつもりの酒を次に回したのだ。


私と中尉の会話を聞いて、マスターはヒューズのボトルを私達の前へ置いた。

「こっそり飲んじまいますか」

優しいカーブを持つボトルを手に取ると、琥珀色の酒がその中で揺れた。
本当に一杯分しか減っていない。



――いい酒が入ったんだ、マスターが俺にとっといてくれるってよ!

わざわざ電話してきてそれか、と話しているときは思ったが。

――お前が来たら飲むからな、今度はいつ来るんだ?

私が行くまで飲まないのか。そんなに楽しみにしている酒を。
電話を切ってからそう気付いて、情けないことに頬が緩んだ。




これを飲みたい、とも思ったし、絶対に開けたくないとも思った。
ぽってりとしたボトルの冷たさが手のひらに馴染むころ、私はようやく告げた。

「勝手に飲んだら怒られるからな。やめておくよ」

マスターは、「あの人怒ったりするんですか」と笑ってボトルをまた棚へ戻した。
怒るときもあるな。
本当に時々だけど。
思いきり殴られたこともある。あれは何のときだったか。

今は思い出さずにいた方がいいと浮かびかける記憶を押し込めて、私は中尉と話し始めた。自分の気持ちが濡れた紙みたいに脆くなっていて手に負えない。セントラルで有能な人物、司令部の組織図。こんなこと、お前がいれば私はしなくて良かったのに。結局私の思いはヒューズへ戻ってくる。この店に来るには早すぎた。

目の前に置かれた、いつものウイスキー。
ずっとストレートで飲んでいた私に、チェイサーは絶対いるんだぞと蘊蓄ぶって教えたのもお前だった。 煩い、酒ぐらい好きに飲ませろと言っても、いつもチェイサーを二つと先にオーダーされるようになって、そのうちその飲み方に慣れてしまった。


「やっぱり、そのボトル飲みます」

出し抜けに凛と声がして、私は驚いて隣を見た。

「…は、はい?これかい?」

マスターも目を丸くして、煤けた棚から、ヒューズのボトルの首を掴んだ。中尉は頷いて言葉を続けた。

「彼は亡くなりました」

そんなことをどうして告げる必要がある。
私は訳が分からなくて、間抜けた顔でただ彼女を見ていた。

「だから、二人で飲んでしまいます。全部」

マスターは黙って奥から繊やかな切り子細工の入った、いかにも上質なグラスを三個持ってきた。 そして私と中尉に注ぎ、もう一つにもほんの少し注いで、私達のグラスの前へ置いた。

「あんなに楽しみにしてたのに全部飲んじまうのは、ちょっとあの人に悪いやな。
 これぐらいは飲ませてあげなよ」

グラスの底に、ワンフィンガー程のウイスキー。
大好きだった酒を、これだけしか飲めなくなるなんて。


――ああ、下手な酔っ払いに騙されなきゃもっと飲めたのになあ

きっとそうボヤいてるだろう。
悪かったな、ヒューズ。御馳走様。
でもあの晩は、お互いこんな酒より愉しめたと思うが。


お前のことで辛いのに、その辛さを慰めるのもお前の記憶だなんてまるで手に負えないアル中だ。 シングル・モルトの辛さが、甘く喉を焼いて胸に落ちた。




その後、マスターが実に面白い話をしてくれて、私達は三人でヒューズの酒を飲み切ってしまった。愉快な酔客、痛快な痴話喧嘩、酒場とは随分楽しい舞台らしい。

店を出る頃には、月はもう真上にきていた。
「また是非来てくれ」と言うマスターに笑って手を振り、私達は車を拾うために大通りまでを歩いた。

「…泣くかと思いました」

中尉がちらりと私を横目に見て言う。

「何でだね」
「いいえ…。少し残念です」
「何がだ」
「貴方の泣き顔が好きなんです」

真顔で言われて石畳に蹴躓きそうになった。
彼女だけは敵に回したくない。心から。


シンと冷えた細い路地を抜け、外灯が並ぶ通りに抜けると、こんな時間でもちらほら車が通っている。私は手を上げて一台を止める。彼女が後部座席に乗り込む。

「おやすみ。今日は悪かったね、少しムードの無い店に連れていってしまった」

窓を開けた彼女にそう言うと、中尉は私を苛めるときの極上の笑顔でこう言った。

「ムードが無いのはあの店じゃなくて
 女性を隣に置いて、他の人のことばかり考えている貴方です」

私が気の利いた台詞を思い付く前に、彼女は運転手に家の場所を告げてさっさと窓を上げてしまった。通りに残された私は、走り去る車に手を振るのが精一杯。

ああ、明日からまた頭が上がらない。










(2004.04.25)