ひとりぼっちの二人

もう許してあげようと思うことがある。
この頃、時々そう思うんだ。


「もういいよ」って言ったらどうなるんだろう。


「兄さん、もういいよ。
 僕はこのままでいいんだ。
 兄さんだって、その腕と脚だっていいでしょう?」


そうしたらこの旅は終わるのかな。
兄さんと二人、故郷に帰るんだろうか。
兄さんはきっと、ウインリイと結ばれるだろう。
(さて、そうしたら僕はどこへ行こう?)


時が流れて、そして兄さんはいつか死んで。
からっぽの僕だけが、いつまでも遺跡みたいに残る。
兄さんの腕と脚を抱いて、兄さんのことを知っている人が地上に誰もいなくなっても、時間からも無視されて、ただ、ぽつんと残るんだ。



それは少し寂しい。
痛くて、甘い夢だ。









拾った猫を、また兄さんに見つからないようにそっと鎧のなかへ入れて。
僕は広い中央司令部の中庭で、兄さんの用事が済むのを待った。

南の端にまで足を伸ばしたけれど、結局何も手掛りはなくて。
僕は何だか徒労感を覚えていた。

いっそあのグリードっていうお兄さんと、言われた通りに情報交換してればよかったかな。手ぶらで戻ってくるよりマシだったのかも。呼び出され方にむっとしちゃってこじれちゃったけど、悪い話じゃなかったのかも。僕って時々短気で駄目だ。



司令部の中庭は、国家錬金術師の査定のとき、実技をここで見せたりもするらしい。広々と芝生が敷き詰められ、四隅におおきな樹があって、中央に噴水とささやかな花壇がある。暖かい陽射しに、鎧のなかで猫も眠りだす。


柔らかい光を背中に纏って、少し小柄に見える軍服姿が回廊を曲がって現われた。
素直に風に流れる黒い髪。その下の眸も澄んだ夜の色。


初めて大佐を見たのは夜だった。
雨のなか僕らを訪ねてきた彼は、闇に溶ける色の姿。血の気の薄い白い頬。
歩いてきた冷たい雨を全身に纏い、瞬かない黒い眸で僕らを見た。彼が去ってから、ピナコばーちゃんは「あれは不吉だよ」と吐き捨てるように言った。


次に彼に会ったのは、兄さんが試験を受けに出向いた東方司令部。
大佐はとても毅然としていて、あの夜の印象はどこにもなかった。有能でキレ者で、異例の出世をした国家錬金術師。どっちが本当の彼だろう。どちらも彼だと思ったし、どちらも嘘だと感じた。


ああ、これが本当の彼なんだなあ…と思ったのは一度きり。





背を伸ばし、少し急ぎ足で歩いてきた彼は、僕を見つけて、おや?という顔をしてから、勤務中の堅い表情を緩めた。


「やあ。鋼のと来てるのかい?」


肩から羽織った黒羅紗のコートは、そろそろ暑そうだ。芝生の上に座っている僕に目線を合わせるように少し屈んだ彼が逆光になる。小鳥の囀りが遠くなる。


「ええ、査定を忘れていて…。
 大総統に南部で書類をいただいたんですけど、改めて中央に提出に来たんです」


査定を忘れた!鋼のらしいなあ。

彼は揶揄うネタを見つけたと思ったのか、顎に手を宛ててニヤリと笑った。
子供っぽい。そう、これも彼。
僕も笑った。声を出さずに笑うと、全く相手には伝わらないのだけれど。


「大佐は、今日はセントラルにはお仕事ですか?」


仕事に決まっている。馬鹿なことを聞いてしまったと思うと、彼は髪を揺らして首を振った。


「先日付けで、セントラル勤務になったんだ。
 残念ながら階級はそのままだがね」


こういうとき、大人は「おめでとうございます」って言うのかな。でも東方司令部は家族みたいなあったかい雰囲気でとてもよかったのに。黙った僕の心を察したように、大佐は穏やかな声のまま言葉を継いだ。


「中尉も、他の奴らも一緒だ。
 良かったら会っていくかい?鋼のの用が済むまで、暇潰しにでも」


赴任したばかりじゃお忙しいでしょうから。そう断ると大佐は無理強いはしなかった。本当は、会っても何を話していいか分からない。僕の世界は本当に、数少ない人だけで完結している。




にゃあ。


それは鎧の壁に反響してちょっと篭って響く。大佐は目を瞬いてあたりを見回し、何も居ないのに視線を戻して「…君?」と訊いた。僕が鳴き真似でもしたのかと思ったらしい。「ふふ」と声に出して笑って、鎧の胴を剥がした。黒い猫が気怠げにゆっくりと出てくる。


「そういえば大佐、前に兄さんに猫を押し付られそうになったでしょう」


前に東方司令部で、兄さんと大佐が何故か対戦したとき。負けたらペナルティとして、僕が拾った猫を飼えと兄さんは妙な要求をしたらしい。結局猫は通りに捨ててしまったけど。



黒猫はしなやかに芝生へ降りて、大佐の顔をその金色に細めた眸に映す。 それから野良猫には珍しく、その足元へ寄って尻尾を絡ませた。 大佐はそれを暫く見下ろしていたが、思いのほか優しい手で、猫をそっと抱き上げた。


「そうだな、あのときは官舎住まいだったから引き取れなかったが…」


猫は大佐の腕のなかでまあるくなって、馬鹿みたいに無防備に欠伸を洩した。
このひとに飼ってもらうからいいよ。
偉そうな態度だ。可笑しくなるぐらい。飼い猫だったのかな、毛並みもいいし人に馴れてる。


「今は家を借りたんだ」


白い指に顎を撫でられて、猫がふふんと笑うような顔をした。
大佐の伏せた睫が、微笑った目許に柔らかい陰影を落とす。
ああ、あのときと同じ顔だ。
ヒューズさんと廊下で笑いあっていたときの顔。



そういえば、軍法会議所もすぐ近くだ。
兄さんの用事が終わったら、ヒューズさんの顔を見に行こう。
前は兄弟喧嘩の真っ最中なんて恥ずかしいところを見せちゃって、心配させちゃって。ごめんなさいって二人で言わなくちゃ。ありがとう、も。


「一人で住むには少し広すぎてね。よかったら飼わせてくれないか」


まるで、大佐が言ってることが分かるみたいに猫が満足そうに眸を細めた。
渡りに船。僕は有り難く申し出を受けた。


大佐はふと、話し込んでしまったことに気付いて、猫を抱いて背を伸ばす。
少し厚ぼったく見えるコートの裾が揺れた。

「君達はいつまでセントラルにいる予定だ。
 良ければまた、出立前に食事でもしよう」

所用を済ませてくる、また立つ前に顔を見せたまえ。
そう言って踵を返す大佐の背に、僕は咄嗟に立ち上がり、言った。



「ヒューズさんは…」



大佐の足が止まった。
返事をするみたいに、猫が、にゃあ、と鳴いた。


「ヒューズさんは、お元気ですか
 兄さんとお世話になりっぱなしで…、お礼を言いに行きたくて」


大佐はゆっくり振り返った。
優しい顔だ。とても大事な人を見るような。それは僕ではないのだけれど。
腕の中の猫がちらりと僕を見た。光の加減で眸は薄い緑にも見えた。



「ヒューズは殉職した」



届いた言葉がよく分からない。
じゅんしょく。音が意味にならなかった。だって殉職って、死んだってことじゃないの?



言葉を失くす僕に、大佐はそれ以上何も言わずに背を向けた。
揺れる長いコートの黒。
葬列の色。
抱かれた猫の尻尾が、手を振るみたいに揺れた。


彼は来たときと同じ足取りで、回廊を反対側へ遠離った。



その猫は駄目だよ大佐。
貴方は本当に何て自虐的なんだろう。
僕以上だ。笑ってしまう。


座ると、がちゃんと重い音がして、ようやく自分が胴の前を外したままなことに気がついた。芝生の上に落ちていたそれを拾うと、なんだかやけに重かった。


死んじゃったのか。
酷いね。
ひとりになっちゃったんだね。


兄さんと訪ねた東方司令部の廊下で、貴方はヒューズさんと内緒話をするように顔を寄せてちいさな声で囁きあっていた。貴方は何度も声を殺して笑った。可笑しくてたまらないという風に肩を震わせて。小突かれたヒューズさんも貴方を軽く蹴った。楽しそう、というより、幸せそう、に見えたんだ。



でも貴方には救いがある。
時間はいつか貴方を、彼を同じ場所へ運ぶだろう。


僕は、兄さんが死んだあとで、僕を壊してくれる人を探すために生きているのかもしれない。 僕より永く生きるなら、貴方がよかったんだけど。


虚ろな身体に鎧の蓋をして、僕はまた兄さんを待った。















(2004.04.24)