かくも長き不在

どうか、あの人の代わりに手を引いてあげて下さいませんか。



美しい筆跡の手紙。

グレイシア・ヒューズ、と署名された、白地に百合の花が型押しされた封書。それはエリシアの結婚式の招待状だ。



私は礼服にするか軍服にするか迷って、結局いつもの服に、髪だけを後ろへ流して出かけた。迎えにきた車の窓に映った自分を見て、いっそあいつの眼鏡も掛けてやろうかと思いついて、ひとり笑った。




それは、ヒューズとグレイシアが20年前に結婚式を挙げた教会だった。あれも春だった。あの日と変わらない陽射し、変わらない教会の鐘。既視感に時間が遡って息が詰まった。


柔らかい芝生のプロムナードを歩く私を見つけて、教会の前で待っていたグレイシアが深く頭を下げた。久し振りに会う彼女は、変わらず美しかった。笑うとほんの少し目尻に皺が浮いた。それがかえって以前より愛くるしく見えた。


「無理なお願いを引き受けてくださって、有難うございます」


私は軽く首を振って、何か上手い言葉が無いものか探した。結局何も出て来ずに、「エリシアのエスコートが出来るなんて光栄ですよ」と言わなくてもいいような台詞を吐いた。


「あんな跳ねっ返りを貰ってくれる人がいて安心しました」


冗談めかして、清々したような口調のグレイシアに、つられて私も笑った。


「賑やかだったからな、エリシアは。寂しくなりますね」


充分な恩給が出て、暮らし向きに不自由はなかっただろうが、女一人、再婚もせずに娘を育て上げ、私には想像も及ばない苦労があったのだろう。そしてその娘も、今日嫁いでしまう。これからどうなさるんですか。そんなことを訊くのは立ち入り過ぎだろうか。聡い彼女は、私の表情に滲んだそんな思いを読み取ったのだろう。


「また一人になります」


ぽつりと、微笑ったまま言った。


「でも、あの人と二人です」





女は本当に逞しい。男はきっと誰も勝てない。





「そろそろ仕度も終わった頃だわ。控え室に居りますので、どうぞ宜しくお願いします」



親族なのだろう、少し面立ちの似た女性がグレイシアを呼びにきて、彼女はもう一度私に深く頭を下げた。私は教会の扉を押し開け、教えられた部屋へ向かった。








控え室は、普段は懺悔室に使われているらしい小さい部屋だった。そこへ今日は鏡台が持ち込まれ、誰かからの贈り物だろうか、色とりどりのブーケや花束がテーブルの上へ乗せられていた。


ノックすると、いつもの明るい声で返事をしたエリシアは、私が扉を開けるや否や抱き着いてきて、白いレースで目の前が見えなくなった。甘い白粉の匂い。たっぷりとレースを使った、華やかだが上品なウエディングドレス。



「エーリシア、せっかくのドレスが皺になる」

「ロイ、ああ、こんなかっこいいパパに手を引いて貰えて私幸せ…!」

「ふ、ヒューズが聞いたら怒るぞ」

「パパは私を怒ったりしないわ」



整えたばかりのベールを跳ね上げて、エリシアは私の頬にキスをした。一度で気が済まないのか、何度も。



「花婿より先に花嫁にキスを貰っていいのか」

「いいの、誓いなんか立てたらもう他に出来ないんだから」



閉店前の大売り出しみたいなことを言って、ヒューズの最愛の娘はようやく少しだけ顔を離して私をじっと見た。悪戯っぽい笑顔。正直、こんなにヒューズに似るとは思わなかった。顔は似ていない、ただ、時折見せる表情がとても。


グレイシアからその美しい金髪を、ヒューズからあの緑の眸を。




「エリシアは私が貰いたかったのだが」


言葉が先に零れ落ちて、それを僅かに遅れて柔らかい笑みで包んだ。

エリシアは、愛しい子供の駄々を宥めるような、ヒューズが私によくしてみせたのと寸分変わらない少し困ったときの笑みで、私の頬を両手で撫でた。



「どうしてもっと早くそう言ってくれなかったの?
 私ずっとロイが大好きだったのに」



ちょっと咎めるような、それでいて優しい微笑み。

だって、ヒューズを思い出すから君が好きだなんて、そんな失礼な話は無い。
君の明るさも、私の名を呼ぶ声も、表情も、眸の色も。
どうしても重ねてしまう、きっと一生。

白い、しなやかな手の平に頬を包まれて、私は怒られた子供のように俯いて黙ってしまった。もうすぐ指輪が嵌められるだろう細い指が、愛おしむように頬を撫でた。ほら、そんな仕草にすら、私は。目を強く閉じる。






「ねえ、ロイ。
 パパのことを愛してた?」






いつもなら、前髪が表情を隠してくれたろう。なのに今日は、丁寧に上げて撫で付けてしまった。きっと一瞬、とても無防備に瞠目してしまっただろう。

ゆっくりと心もとない顔をあげると、エリシアは私の頬から手を滑らせて、掴まえるように両手を握った。私は、なるべく平坦な声で答えた。



「そうだな、あいつは誰にだって愛されてたよ」

「違ーう。そういう意味じゃないわ」



エリシアはちょっと膨れて私を睨んだ。
一体彼女は何を知っているんだろう。僅かに三歳だったはずだ。カマでも掛けられているんだろうか。不意に可笑しくなって笑いを噛んだ。ヒューズがそんな事を言う筈がない。グレイシアもきっと。なら、この訊問は証拠不十分で被疑者はじきに釈放されるだろう。



「お誂え向きに懺悔室よ。白状しなさい、ロイ」



ただ、笑って何も答えなければいい筈だった。
白状することなど何も無いと流せば良かった。

これから神の前で誓いを立てるあの眸を譲り受けた花嫁。
ヒューズとこれからも生きていくと言える美しい未亡人。

なら、せめて私は。
何も無い私にも
これぐらいは赦されても。







「…懺悔はしないよ」







エリシアの顔から、笑みが消えた。
私はどんな顔をしているのだろう。
微笑っているつもりの唇から、静かに言葉を放った。







「悪いことだと思っていないから」







花嫁は、目を丸くして。

それから、握ったままの私の手を下へ強く引いた。

その唐突な力を訝しむ私に、エリシアは見たことのない憎むような強い眸とぞっとするほど艶やかな顔を見せて、戸惑う私の吐息をも飲み干すように深く口付けた。

薄く開いたままの唇へ、強引に捩じ込まれる舌先。そこから滲む甘い痺れ。


これは、エリシアなんだろうか?

私を逃がさないように強く抱き締めて、意識が飛ぶほどに貪るのは。


交わる優しい温度、焦れったいように何度も角度を変えて重ねられる柔らかい唇。擦り合わされる熱、吸い立てたかと思うと私に流し入れてくる。息を乱す口端へ伝う筋。嚥下。目眩がする。衝動だけになる。キスの仕方なんて、どうやって父親に似るんだ、一体。エリシアは、お互いの顔が分からないほど近い侭ほんの少しだけ唇を浮かせて、自嘲混じりの声を洩した。





「恋敵がパパなんて最低」





嫌いにもなれやしないわ。私、パパが大好きなの。もう一度、触れるだけのキスをしながら囁かれる。私もだよと言いかけて、さすがにそれは止まった。

ノックの音がして、外から「そろそろお時間です」と声が掛かった。エリシアはゆっくりと顔を引き、二人の唇の間を伝う糸を指に絡める。その指で乱れた唇の紅を拭って、まるで戦場にでも出るように顔を引き締めた。そうして、まだ取り残されている私に、鮮やかに笑って片手を差し出した。




「さあ、罪滅ぼしに私をエスコートして。パパの大事な人」




白いレースの手袋に包まれた指が、軽く抓ってから私の手のひらの上へ添えられた。















エリロイって一体…。(2004.04.23)