春昼後刻

軍法会議所の昼休憩は、各々適宜に一時間取るようになっている。


よく晴れたいい日になった。
私は朝から小さな予定を抱いて家を出てきた。


仕事が一段落つくと、そろそろ時計の針は正午に近い。


「シェスカー!お昼食べない?」


朝から資料室に篭っている私を、同僚が呼びにきてくれる。


「ごめん、今日は外で約束があるの」

「ふーん、デート?」


私は困った顔で笑ってみせる。


「だったらいいんだけど」


明るくて、それでいてどこかきちんとした同僚はそれ以上は踏み込まずに「天気いいしね、いってらっしゃい」と優しく笑って扉を閉めた。彼女を見送ると机の上を整えて、堅い椅子から立ち上がる。ここから軍の共同墓地まで、車を使えば20分とかからない。









あの寒かった冬の日。

あれから一度もこの場所に来れなかった。

私は車に待ってもらって、満開の火炎樹の緋色のアーチを潜った。そして見えてくる、どこまでも石碑と十字架の連なる小高い丘。それが共同墓地。遠くから見れば白い波のようなその数は、この国に捧げられた命の多さを嫌でも痛感させられる。


重厚な門の手前に設えられた、絶やされることのない手向けの焔が、暖かくなりはじめた陽射しに陽炎を巻き上げている。平日とあって墓参の姿は少ない。







ヒューズ中佐の…いや、准将の墓は、一際大きくて目を引いた。
大理石がまだ新しい艶をたたえて白く光っている。


その前に立つと、まだ声が聞こえるようだった。


――シェスカ。


友達を呼ぶように、部下の私を呼ぶ声。


――……とか、いんの?


ふと思い出す、優しい午後。










「この写真は見せたっけな、シェスカー」



言われて顔を上げても、その目の前は殆ど本が積み上げられているばかりだ。書類と本の狭間に、向かい合う机に、ちらちらと娘の写真を自慢げに揺らしている私の上司が見える。階級に似つかわしく無い砕けた口調。細いフレーム越しの明るい緑の眸。


軍法会議所の資料室は、年季の入った黒い梁と少し煤けた壁の、良く言えばアンティークな、悪く言えばそろそろ建て替えた方がいいような一室で。それでも彼は、不思議にその部屋と似合っていた。



「子供はいいよー、癒される!天使だー。シェスカも早く結婚してー…っと。
 ロイの野郎に言う癖でな、いかんな。
 女の人にこんなこと言うと今はセクハラで訴えられちまう」



軍法会議所の職員が訴えられたら締まらないよなと頭を掻く。
憎めなくて思わず笑ってしまう。


「シェスカは誰か好きな奴とかいんの?とか聞くのもセクハラか、んー」


真面目に腕を組んで考える姿が、年上なのに何故か可愛らしいと思ってしまう。


「そういえば明日、お嬢さんのお誕生日でしたよね」

「おっ!覚えてくれてたのかあ、さっすがだなあ。
 そんな訳で明日は早退だ。お前さんもな」



ええ。プレゼントも買ってありますよ。そう言うと本当に嬉しそうに相好を崩した。
こんなに笑う人を知らない。人の幸せをいつも願っている人を知らない。



「てな訳でー、今日は明日の分もやっつけちまわねえとな!」


ぶ厚い本をまた一冊デスクに積み上げて笑いながら出ていく彼を、何度机の上にぐったりと伏せながら見送っただろう。







いつも大股に入ってきては、書架の端から端までぎっしり詰まっている本の背表紙を一瞥して的確に資料を揃えていく。きっと資料室の本は全て把握している。本当は私なんて要らないんじゃないかと思ってしまうぐらいに。

それでいて、人に頼むのが上手で。誰も何だか断れなくて。

休憩時間の長電話や、愛娘の自慢や。時折、お茶の時間に配る奥様のパイ。

皆が家族のような職場だった。とても忙しかったけれど、殺伐としなかったのはきっと彼がいたからだろう。

泊まり込みになると、資料の山になった執務室。








案外散らかさない人で。床に本を置いたりしない人で。ソファに毛布も掛けずに寝ているのを見たことがある。傍の低いテーブルの上にはタイプライター。インクリボンの匂い。紙と本の、私の好きな匂いがする彼の執務室。

支給品のゴワついた毛布をそっと掛けると、ズレた眼鏡の向こうで眠気に貼付いた瞼を薄く開けた。


「…、よお」


私の顔、というよりは、軍服の胸元を見て。とても眠そうなのに大きな手を伸ばして頭を撫でた。


「…お前ー…、…ちゃんと、やってる、な…」


誰かと間違えているんだと分かったけれど、その手が余りに優しいから。
私は掌の下で黙って二度頷いた。
彼はとても満足したように、また瞼を伏せた――。










お嬢さんの誕生日に持っていった本を見て、「ああ、この本すごくいい話だよな。ありがとう」とぱらぱらと捲って笑った。


私が選んだのは、少し子供の本にしては繊細過ぎるタッチの絵本だったけれど。あまり知られていないと思っていた本を、彼が知っているのが少し嬉しくて。嬉しくて、少し苦しくて。


「ありがとうシェスカ。お前の誕生日も皆で祝おうな。いつだっけ?」














「こんにちは、中佐」



白い石に、私の短い影が落ちる。



「今日は私の誕生日なんです。祝ってください」










声だけでもいい。

もう一度聞かせてくれませんか。

私の名前をもう一度呼んで。







レンズ越しの世界がゆっくりぼやけた。
伝った涙が、顎で雫になって、白い墓石に落ちる。



私の好きなひとは、あなたです。ヒューズ中佐。
最初からどうしようもない恋だった。


初めての。
不器用な。
書類を提出するとき、あなたが私を頼もしそうに見てくれるのが何より嬉しくて。
あの眸が優しく細められるのが何より見たくて、私は。





「もし奥様がいらっしゃらなくても、私は部下にしか見えなかったでしょうけど」





恨み節は笑って言えた。随分鼻に掛かった声だったけれど。



眼鏡を外して目を拭うと、遠く、黒衣の一団が葬列を成していた。

今日も誰かが土に還る。

そして生きている人間に人生が永遠に続かないことを教えてくれる。






今日を最後に泣かないなんて、そんなことは言えないけれど。

あなたに笑って会えるように私は。私の出来ることを。

私の最高の上司に、胸を張って会えるように。







教会の鐘が、時間を告げた。


私は濡れた眼鏡を丁寧に拭いて掛け直し、風に薄いトレンチコートの裾を翻して、私の職場へと歩きはじめた。


















(2004.04.09)