closed-door session

少し速い靴音が扉を開ける。
そして、手洗いの蛇口を捻る音、――水音、弾ける水。

見る気は無かったが、立ち上がった弾みに視界に入ってしまった。
顔を洗っていたらしい、前より少し痩せた白い顔。


大佐を見るのは、あの葬儀以来だった。
その背中、鏡に映る、以前とは違う何かを漂わせる眸。

彼はもっと、どこか要領のいい、抜け目のない顔をしていた。
それが今は、心の深い底に揺るがないものがひとつ沈んだ眸をしている。
そのひとつのためには、なりふり構わないような。

ひたむきさというには静かで
一途さというには穏やかな。

言うなればそれは覚悟に近い。





何と声を掛ければいいのか、それとも掛けないほうがいいのかと迷う間に、鏡に映った私の姿を見て、彼は鏡越しにほんの少し笑った。僅かに躊躇ってから、結局私はトイレの個室から出た。

軋む扉から出て「どうも」と座りの悪い挨拶をすると、「ああ」と短く返される。大佐は肩に掛けたタオルで、黒い前髪に残る雫を拭き取りながら、隣の鏡に映った私の額へ、ちらりと視線を寄越した。

「ケガをしたのか」

この人は、思ったよりずっと他人に気を配る。
しかし、その気遣いに、私はどこか後ろめたさを感じずにはいられない。

「南で少し、やりましてな」

そういえば、と、出会ったエルリック兄弟のことを話す。
すると、彼はまたエドワードの年を気遣う。
戦争に巻き込まれなければいいと、その顰めた眉に思いが滲む。
私は、この人の、こんな柔らかすぎる部分をずっと陽になり影になり支えてきた人のことをまた思う。



バタン、と騒々しく扉が開いて、肩章を見るに少尉が入ってきた。

私を見て威儀を正して敬礼し、シャツしか羽織っていない大佐を、下官か上官か判別しかねる顔で見た。

「東方司令部から赴任された、マスタング大佐である」

言うと、少し信じ難いように目を瞠いて慌てて最敬礼をした。

大佐はそれに笑って「トイレでまでそんなことをしなくていい」と、もう行けという風に手を振った。個室の扉が遠慮がちに閉じる。

「…どうも、相応に見られんな」

眉を寄せて顎に掌を宛てて鏡を覗き込む姿に、思わず笑ってしまう。

「中佐も…、」

言い直すのは寂しかったが、一呼吸置いて「准将も、」と付け加えた。

「准将も階級相応に見られないと、最初は苦労されておりましたぞ」
「私もこのまま伸ばすかな」
「…その貧相な髭をですかな」
「貧相と言うな」
「威厳ある髭とは、ほれこのような」

個室から、ぷっと噴き出して笑いを噛み殺すのが聞こえた。恐る恐る出てきた彼が、そそくさと手を洗って出て行く。



また扉が閉まると、大佐はふっと微かな吐息を洩した。

「…戦争になれば駆り出される。国家錬金術師のリスクだよ。大人も子供も例外は認められない」

数年前、この人がそうしたように。
あの少年があの焔と瓦礫と血の中に、両手を堅く握って立ち尽くすときが来るだろうか。

「誰もそんな世界は望んでおりません」

きっと貴方も。大佐ははぐらかす笑みを浮かべた口許をタオルで拭う。
略礼し、その場を去ろうと扉のノブを掴むと、少し堅い声が私を引き止めた。

「少佐。兄弟にヒューズの死は知らせたのか?」

ヒューズの死。

その言葉を口にする彼が、白い冷たい洗面台の縁を無意識に強く掴むのを見た。
競り上がる感情を押し殺して、淡々と。
白刃を飲んだような、自分を斬り付けるような声。


ああ、やはり間違いだったのです、中佐。
私達はカードを引き違えた。


ノブを握ったまま動けなくなった私の目の前を、いつかの鮮やかなイルミネーションがよぎった。








「大総統はああ言われたが――」


中佐は、軍の司令部ではなく、休日の遊園地でそう切り出した。
セントラルにやってきた移動遊園地。

夕陽が溜息のように薄れてゆき、夜の蒼さが降りてくるなかで輝き出す電飾。
色とりどりのネオンを点して回るメリーゴーラウンド、観覧車、回転ブランコ。

妻と娘が乗る白い馬が一周して回ってくるたびに大きく手を振っていた中佐が、ふとその雑踏に紛らわせるように声を低めて呟いた。

妹が乗る馬車が緩やかに波を打って目の前を過ぎていくのを見送って、その声に軽く頷いて応じた。彼は遠くなる白馬の尾を眺めたまま言葉を継いだ。

「俺は、どうもキナ臭いことを放っておけねえタチなんだ。
 関係者はどうにかなるってんなら、俺がやる。
 少佐は手を出すな。言われた通りにすっかり忘れちまってくれ」

赤、緑、青。
光の筋が色の残滓の尾を引いて流れていく。

「どちらか、ということならば、我輩が調べた方がよくはありませんかな」

また、愛らしい母娘が一角獣に乗って巡ってきた。
彼には家庭があり、そしてこれからも支えていかねばならない人がいる。

キャスリンの馬車が見えてくる。
素直な長い金髪が、心地よい初夏の夜風に流れている。
私を見つけて嬉しそうに手を振る。私と同じ色の薄い青の眸。

軽く手を上げ返すのを、中佐は横目に見て笑ってから首を横に振った。

「いいや、俺でいい。調べモンは俺の方が得意だし、それに…」

ロイにも関わる、と。
だから俺がやるんだと言った。

そう言われては、私の出る幕は無かった。

中佐が銜えた煙草を見て、内ポケットにライターを探る。
いつもこの二人に庇われているような気がする。情けなくて泣きたいのと、暖かいのが入り交じった思いで差し出した赤い火に、中佐は煙草の穂先を近付けた。

「もし、俺に何かあって」

薄い煙が、揺れながら夜空へ昇る。誰かの手を離れてしまった赤い風船が、それを追ってゆらりと浮き上がっていく。

「ロイに問いただされても、絶対に何も喋るな」

あいつの数少ない理解者なんだから、宜しく頼むよ。
君まで消えないでやってくれよ。

理解者というのなら、貴方ほどの理解者はいないのに。
頷きながら、涙脆い常で熱くなる目頭を片手で押さえると、「おいおい、まだ何かあるって決まったわけじゃねえのによ」と、自分より大きな私をあやすように背中を軽く叩いた。ちいさな子供にするようなその仕草が、滑稽で、暖かくて、余計に泣けてしまった。

「…それでも、貴方に何かあれば、御自身でお調べになるでしょう」

そう言うと、少し困った顔で笑った。

「そうなったら少佐、気をつけて見てやってくれるだろ?」

頼むよ、と下官に小さく頭を下げた。



「パーパ!」

いつの間にか止まっていたメリーゴーラウンドから、コットンの白いワンピースを着たエリシア嬢が走ってきた。中佐は静かに微笑んで、まだ長い煙草を灰皿へ押し付けた。アコーディオンのセンチメンタルな音色が風に乗って届く。誰もが知っている童謡も、その古びた楽器にかかればやけに物悲しく響く。

「パーパ、次はねえ、あーれ!」

指差す先は、夜空に電飾の枝を大きく伸ばす観覧車だ。
ちいさな娘に引っ張られて前を歩く中佐の背に、どうか何も起こりませんようにと心から祈った。

どうか、この優しい人と、その家族を守ってください と。







「…いえ、言い出せませんでした」
「いつかは知らされることだぞ」

彼の横顔を過る苦渋は、その一報を耳にしたときの衝撃を思い出しているからなのだろう。

私も信じたくなかった。
慎重にも慎重な人だったのに、一体どんな闇に飲み込まれてしまったのか。
そして、結局こうなってしまったのだと慟哭した。


無理矢理頼み込んで5人で乗った観覧車は、私の座った側が大きく傾いて皆で笑った。膝の上の娘がバランスを崩さないように抱き締めて、眼下に拡がる広場のイルミネーションから、大総統府や中央司令部、軍法会議所まで伸びるガス灯の明りを指差す父親の指。

あそこがパパのお仕事してるところだよ。
わあ、エリシアもいっしょにいく!
ああ、それいいなあ。はやく大きくなって一緒にお仕事しよう。

パパと少佐と、ロイと。一緒にお仕事しよう、エリシア。

それが、私が見た中佐の、最後で最高の笑顔で。







大佐はもう、独力でかなりのところまで調べたようだった。
パイプに掛けた上着と銀時計を手にしながら、私の知っている少ないキーワードの殆どを羅列した。第五研究所、賢者の石、その材料。

「もう一息だ」

私が教えることは無いようですよ、中佐。
頷いてから、彼に伝えなかったことを大佐に言いたくなって口を開いた。

「我輩は、あの方が好きでした。良い方でした」

大佐は上着に袖を通しながら、少し虚を突かれたようにきょとんとした。
そんな子供みたいな顔を見せるから、年相応に見られないのだ。思わず口許が笑ってしまう。

大佐は、目を瞬いてから、まるで自分が褒められたように、照れ混じりに柔らかく微笑った。見たことのない甘い表情だった。唇はくすぐったげに解けて、私は秘事を見てしまったように鼓動が乱れた。


「あいつは、本当はそんなにいい奴じゃないんだ」


なあ、こんなだからさ。気を付けて見てやってくれよ。
耳朶に中佐の声が甦って苦笑した。

貴方ほど出来るとは到底思えませんよ。
我輩の出来うる限りは、とお約束します。

そう、胸の内で返しながら、大佐に目を細めて頷いた。

「気を付けてください。どこで誰が聴いているか分かりませんので」

廊下に出て、私達は背中を向けて別れた。
瞼の下に、あの鮮やかな夜景がもう一度浮かんで、ゆっくりと薄れた。











(2004.04.22)