オルフェ
その少年は笑っていました。
誰にもその子ぐらいの子供がいて、進んで殺そうという兵士はいませんでした。
誰も銃剣を突き刺そうとしないので、隊長が怒って「殺せ!」と叫びました。
「許してくれ」私はそう、祈るような気持ちで俯いたまま走っていき、銃剣を少年の脇腹へ刺しました。あまりに柔らかくて手ごたえがなく、これが本当に人を殺すということなのかと信じられない気持ちでした。
しかし銃剣を抜くと、そこから噴水のように血が噴き出しました。
私が刺したとき、彼は生きていたのかどうか。刺したのは私が七人目でしたから。
少年は七ケ所から血を噴き出しながら、静かに死んだのです。
少年を埋めながら、私は不意に覚悟しました。
私も、私の子供も、こうやって殺されてしまうのでしょう。
それが因果というものです。
(太平洋戦争従軍記)
眩い黎明の中。
白い少年が目の前にいて、顔もないのにニヤニヤ笑っていた。
底無しの真理。アカシックレコード。
こんな物だ、神やら世界やら。
別に期待もしていない。
私の役に立てばそれでいい。
「まあ簡単なことだよ、何かを差し出せば何かをあげる。
生き返らせて欲しいんだろ?
でもお前はなんにも持っていないなあ」
無遠慮な視線を感じる。面倒そうな、性別も分からない声。
「君が持ってたのは、マース・ヒューズぐらいだったもんね。
それだって全部じゃあなかったかもしれないけどさ」
あの子供のように、脚とか、腕は。
幼虫の腹のように白いモノは、びき、びき、と粘液が罅割れるような笑い声を立てた。
「いらないよ
そんなもの今更奪ったって、お前は何とも思わないじゃないか。
お前すら価値を認めないものを、どうして俺が欲しがるんだい、馬鹿。
そんなゴミいらないよ」
なら野心も命も塵だろう。
本当に何も無い。
本当に困ってしまった。
「困ったね、手ぶらで来るなんてさ。
そんなに空っぽなのによくここまで辿り着いたよね。
お前はあの兄弟ほど優秀じゃない。随分無い頭を使ったんだろう」
憐れむ声は鋭利に尖っていた。
き、き、と蝙蝠が短く発するような声もやはり笑い声なのだろう。
「可哀想だね、本当に。
世界の本質を知りたい癖に自分のことは何も知らないんだな。
ならこうしようか。
散歩に付き合ってもらおう。何もくれなくていいからさ」
少年は立ち上がって背を向けた。
実体があるのか無いのか。行こうとする先に、白い煙が凝まって脚になるといった歩き方だった。
私はごく簡単に頷いて、その後に続いた。
セフィロトの樹が、目の前で音もなく開いた。
扉が開くと、身体に無数の黒い腕が絡み付いてきた。肉感的な生暖かい闇が蠢いて体を包んだ。例えるならば一方的なセックスだった。身体は熱したが、頭の中は冴え渡って、与えられる全てを静かに認識していた。羊水の中でデータを書き換えられるような。
世界の記憶との昏い交歓。でもそれは、思ったよりもつまらないものだった。
与えられる智慧よりも、自分に絡み付く闇のなかに、あの腕がないかどうかばかりが気に掛かった。
腕は私に与えつくし、吐精した男のように離れていった。これは確かに、あの幼い兄弟には恐ろしかっただろうなと頭の隅で同情した。しかし、もしかすると私に与えられた真理は、彼らが受け取ったものよりずっと希薄なのかもしれない。そう思う程に何も感じなかった。
一本ずつ腕が外れて、視界が白く静まり返った。
せめて死に目にぐらいあえると思っていた。
戦争が終わってから先に死なれるとは思わなかった。
長く戦火を潜り抜けてきた、あれほど慎重だった男が、どうして電話ボックスなんかで死ぬんだろう。
現場保持のテーピングが巻かれたボックスを見て、床に残る赤銅色の血痕を見て、私は未だ尚釈然としなかった。
誰の兇弾に倒れたのかすら分からない。
いっそ自分が殺したのだと言われたほうが納得出来た。
「へーえ、そりゃまた迷惑な御執着で」
意識が飛んでいたのだろうか、口に出したのだろうか。
前を歩く姿の、肩が笑ったような気がした。
上下も分からぬ白い世界を歩くうち、いつの間にか足元が土に変わっていた。
それに気付いて顔をあげると、ずっと見渡す限りの土が露出した平野がひろがっていた。薄紫の空が重く垂れ込めている。
「ねえ、冥界っていうのはさ」
足を止めて、振り返らずに白いものが言った。
「シンの志怪に書いてあるような、死者が現世と同じように楽しく暮しているところなんかじゃないんだよ。
一人ずつ、専用の穴に入っているという風に考えるのが正しい」
言われてみれば、足元から地平の涯てまで、人が膝を抱えて入れるほどの穴が無数に開いている。ちらちらと紅い火がところどころに上がっている。どこか遠い記憶の戦場のようだった。いったい幾つ穴があるのか、数えることも出来ないほど。千、万、いや、もっと――。
「凄いな、お前」
振り返った真理が、歯を剥き出して嘲った。
恐怖が胸に爪を立てて掴んだ。強張った頬が引き攣る。
「こんなに殺した奴はあんまりいない」
風が渡って、なのにしんとして音も無かった。
血の気が足までいきなり落ちて目眩がした。
「頑張って探してみたら?このなかにいるかもしれないよ
お前が欲しいひと」
「だってお前が殺したんだからな」
声は、何故か近くなったり遠離ったりした。
一つだけ分かることは、ここにヒューズはいないということだけだった。
「ねえ、分かったかい、大佐さん。
あんたはもう何度生まれ変わっても償えないぐらい人を殺したんだよ?
それなのにちょっと自分の腕やら脚やらと引き換えに
大事な人を一人、生き返らせて欲しいなんて厚かましいと思わないか」
真理は笑っているようだった。呆然と地平を眺めて立ち尽くす私に、その顔は見えない。
「何かをつくれば、何かを壊したことを埋め合わせられるなんて
そんな思い上がった人間が世界を駄目にするんだ。
自分だって薄々分かってるんでしょ?ただの言い訳だって」
今度は声に出して笑った。足元に爆ぜた炎に半身を紅く照らされて、私はゆっくり振り返った。
「ねえ、疲れたよ」
白いものはそう言って、扉の前へ立った。随分歩いてきた気がしたのに、まだ私達は扉の前から動いていなかった。
「もうこんな扉の番に飽きたんだ。
馬鹿な願いばっかり聞くのにも。
それで撃ってくれないか。
そうしたら最後に、ひとつだけ叶えてあげるよ」
それ。言われて自分が銃を握っているのに気がついた。こんなもので、目の前の何かが死ぬとは思えなかった。でももう私にはすべてがどうでもよかった。長く付き合わせた礼に、撃つぐらいしてやってもいい。
実体のないものを撃つ事に、罪悪感は薄かった。照準を額に据えてから、どこでも同じ気がして胸を狙い直した。白く明るかった空間に、青黒い影が落ちてきた。
「ちゃんと狙ってくれよ、“ロイ”。痛いのは厭だろ」
馴れ馴れしい声で真理が言った。疲労と腹立たしさに、全てを終わらせたくなって引き金を引いた。それはやけに軽かった。反動より早く声が届いた。
「ヒューズが」
パン。軽い破裂音。
セフィロトの扉が割れた。
いや、扉ではない。電話ボックスが。街灯に暗緑に照らされた電話ボックスの硝子が砕けて落ちた。
白い姿は崩れるように掻き消えた。
そこは夜の街路だった。ボックスの中で倒れているのは真理ではなく。
青錆色の軍服。
私は銃を投げ捨てた。その硬い残響が消えるより早く走った。これは幻ではないと痛切に感じた。冷えた夜気、遠い車の轍、街灯に纏わりつく羽虫の羽搏きまでが否定しようもなく現実だった。硝子の破片がまた一つ石畳に落ちる音が骨を掴んだ。
ひとつだけ叶えると言った願いがこれか。
恐怖と慄きが濁流になって思考を全て押し流そうとしていた。氷を掴まされたように指先が震える。捻じ曲げられたのだ、何かが。呪いによって。そうとしか思えなかった。冥府で見た無数の穴が、頭蓋へ捩じ込まれる、無数の虫になって。
甦らせに来たのに、殺してしまった。私が。
横たわる男の、弾を撃ち込んだ右胸から、黒く重く血が拡がっていく。
訳の分からないことを喚きながら揺さぶると目を薄く開いた。
俺を何度も不安にさせる、薄すぎる眸の色。
――ああ、可哀想に ロイ
――これは悪い夢だ
そう言って、ヒューズは割れた眼鏡を覚束ない血塗れの指で外した。
――これを掛けたら忘れてしまう
――忘れてしまうんだ 大丈夫
ヒューズの眼鏡は罅割れていて、世界は幾つにもズレて歪んだ。
叫び出したいような絶望と、脳髄を逆流する蟲の蠢きは輪郭を無くした。
――こんな所に来んのは早い ほら目を瞑れ
頬を乱暴に覆うヒューズの手は、水死体のように冷たかった。それが何より痛くて嗚咽した。狂気は去って、ただ痛みだけを感じた。
冷たい
痛い
痛い
遠い
冷たい
痛い
――真理なんざ気にすんな 気が済むようにすりゃあいいんだ
可哀想に、と指がもう一度撫でて、あやすような掠れた笑い声がした。心臓が鼓動を思い出してぎこちなく動き出す。水底から浮かび上がるように次第に世界が明るくなっていった。早く戻れ。声に瞬くともう姿は無かった。意識が途切れる寸前、もう興味を失った素っ気無い声が苦笑混じりに響いた。
「代償に精神でも貰おうと思ったのに。
小賢しいなあ、あの男。
狂いもしないのか、本当につまらないな。
面白くないからもう来るなよ」
練成陣の上で目を覚ました私の手に、砕けた眼鏡のレンズが幾つも刺さっていた。
私は何故か、無事なまま終戦を迎えました。
そして帰還する船が沈むこともなく故郷に帰りました。
故郷には元気な妻子が私を待っていたのです。
私が犯した罪とは何だったんでしょうか。
因果は巡るというのなら、私の因果はどこへいってしまったのでしょうか。
誰かがどこかで肩代わりしてくれたとでも言うのでしょうか。
それともこれから…
(前出)
(2004.04.02)
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