火鼠

「撤退!!」


その声に、俺は一歩前に出る。今まで立っていた場所を、機銃掃射が舐めて土を跳ね上げる。爆風が裾を翻す。





イシュヴァールの猛勢に一角に追い込まれ、不様な撤退を余儀無くされて、動ける兵士は散り散りに下がりはじめた。物陰から物陰へ、路地から路地へ。地の利のあるイシュヴァール人は、瓦礫になった建物の上から、じりじりと逃げ落ちようとする敗残兵を正確に狙撃する。血飛沫が煉瓦塀にこびり付き、倒れた兵士の銃をイシュヴァールが奪っていく。



「マスタング」



いち早く、ジープの荷台へ乗り込んだ将軍が枯れた声で俺を呼ぶ。


言われなくともやることは分かっている。発火布を手に嵌め、行け、と軽く手を振ってやると、いたく自尊心を刺激されたか濁った目を剥く。お前にもう媚びへつらう必要はない。そんな目立つジープで、この死線を逃げきれると思っているのか。


轍の音が背中を遠ざかっていく。俺は崩れた壁の影から、どこが練成に適した場所だろうかと目をうろつかせる。小さな爆発なら簡単に起こせるが、ブロックごと噴き消すのには前振りがいる。詠唱する間を狙われては防ぎ様が無い。




パララ、と軽快な音が響いて、足元を抉ったと思ったら肩章を掠った。振り向きざまに指を鳴らす。塔の上の少年兵。引き攣った顔が爆煙に見えなくなった。俺のなかで、何かが少し削れる。塔から黒焦げの人だった物が落ちる。遠くで地響きを立てて何かが爆発した。将軍のジープだろう。口許が知らず、嘲う。


逃げるジープを追ったのか、銃撃の音が疎らになる。狙撃兵が居ないのを確かめて、尖塔の瓦礫を背にゆっくり息を吐いて両手を合わせる。足元の空気がピリと震える。意識が拡散し、大気を撫でて拡がっていく。




正直な話、錬金術を使うのは愉悦に近い。

術の干渉下にブロック全体を包み込んで、俺が薄く開く眸には忘我が滲んでいるだろう。大気の構成を変換し始めると、青白くプラズマが飛ぶ。足元に空気が凝縮されて集まり、そこから津波のように拡がっていく。風圧が不安定な瓦礫を崩し、塵芥を天高く巻き上げる。


火を放つ一瞬だけ、俺は意識を此処ではない場所へ飛ばす。
その方が術の疾りがいいからだ。


此処は練兵場だ。


何度も失敗して、ようやく焔を飼い馴らしたあの日のことを思う。


瞼の下のイメージに笑って、俺は指を擦り合わせる。熱線が世界を蕩かす。










火焔が爆ぜ返るなか、退路の大気を薄めて炎を押さえ込みながら進む。

横殴りの火柱が突然噴き出して、注意が逸れればそれだけ大気の結界は薄くなる。汗は滴る前に蒸発する。自分で練成しておいてうんざりする。もう消してしまってもいいだろうか。何でもいい、早く抜け出してしまいたい。火の粉が目の前をチラつく。


帰りたがっている自分に気付く。

帰らないと…。

腰ポケットに入れた、自分の煙草の箱を上から確かめる。

帰らないと、ジンクスをくれたヒューズがきっとがっかりするから。あいつは煩い、面倒臭い。怪我をしても怒る、ほんの小さな傷でも大袈裟に眉を顰める。だから。






「凄えなあ」

凄くなんてない、まだ火勢を制御できない。


「凄え、綺麗だったぜ、もっかい見せてくれよ」

そんなに何発も出来るか、馬鹿。






ようやく焔が途切れ始める。壊れた井戸から噴水のように斜に水が迸っている。冷気に誘われるままに近付き、灼けた髪を冷えた水に突っ込んで全身から熱を追い払う。濡れた髪を振い、疲弊して飛びかけた意識を励まして、また本営へ歩き出す。









途中、帰営途上のジープに拾い上げられて司令部に戻った。もう夜が降りていた。

兵舎にヒューズの姿が無かった。

聞いて回るのも億劫だった。こういう時に何かを尋ねる程度の知り合いがいないと不便なのかもしれない。後方部隊に損害は出なかった。ならまだ残務でも処理しているんだろうか。


ヒューズが寝起きする一角、天幕に仕切られた仮拵えのベッドに腰を降ろす。煙草の薄い匂いがした。帰ってきた安堵にようやく力が抜ける。靴を脱ぐのももどかしく、麻袋のような荒いシーツの上に倒れ込む。煙草の匂いに抱かれて目を瞑る。煙草の匂いは嫌いだ。お前が吸うと何故か余り気にならないが。



小さな音で目を覚ますのは癖で。

どれほど寝ていたのか、天幕の向こうで床板を踏む音に身構えてそろそろと上体を起こす。



「…ヒューズ?」



硬い布が跳ね上げられて、煤けてボロボロの男が入ってきた。塹壕でも掘らされたのか?士官学校の卒業生が。俺を見て、崩れるように床に膝をついた。呆気に取られていると、黒く汚れた掌が、確かめるように頬を包む。手を洗ってからにして欲しいんだが、まあそんなに疲れているなら勘弁してやる。ヒューズの掌から灰と錆びた鉄の匂いがする。前線の匂いだ。



「無事だったのか」



無事に決まっているだろう。誰に向かって言っている。頬を軽く擦り付けて頷く。



「ケツを任されたと聞いた」



一人残される方が気楽なんだ。軍を巻き込まずに殲滅できる。そうだ、最初から戦場の真ん中に放り込んでくれた方がいいんじゃないか?きっとそのうちそうなるだろう、今、錬金術師は試用期間だからな。




「俺はそんなのは嫌だ」




嫌ならお前が大総統になれ。何故今更そんなことを言い出すのか分からない。ここは戦場で、俺達はチェス盤の上の駒だ。眼鏡の下で目を伏せるヒューズは、何故か酷く傷付いてみえた。まるでそれは、俺の代わりに傷付いているような。少し手触りの硬い髪に、細かい灰塵が積もっている。指で払ってやろうとすると、さらに細かく砕けて髪の間に入り込んだ。


大丈夫だよ、心配しなくていい。
俺はお前が思っているほど弱くないよ。


少し癖のある髪を分けて、塵を払ってやりながら思う。


街ごと人を灼き払っても、もう吐いたりしないし。
銃で撃ち殺したことだってある。
戦争なんだ、お前だって人を殺しただろう?
そんなにいちいち優しくしなくていい、そんな物はいらないよ。



俺はもう、何の罪悪感も無いのだから。

臨界点にまで深めた空気中に、火花を指先から迸る一瞬すら。





水のいらない草に、そんなに水を注いでも何も咲かないよ、ヒューズ。





水がないと枯れてしまう弱い草にはなれない。
お前が軽い気持ちで与える愛情なんかに依存したくはない。
お前だっていつ消えてしまうかもしれないのに。





「俺、決めたことがある」



肩へ額を預けてヒューズが言う。息がかかって少し擽ったいが、その声がいつもより低くて深いのに身動きせずにじっとする。


「お前より先に死なないわ」


「お前が泣くから、絶対先に死なない」



そんな約束は。

そんな約束はいらないよ、ヒューズ。

お前なんかいらない。

チラつかせるな、欲しくなるから。




自惚れるな、と言い返して。指をヒューズの髪に縋らせる。欲しくないと言っているのに、指が勝手にその頭を引き寄せて抱き締める。




劫火を放つ前にいつも。

はじめて成功したあの練兵場で、自慢げに笑って駆け寄ってきたお前を思う。
耐火フェンスを乗り越え走ってきて、興奮気味に「凄えな」と繰り返したあの子供のような笑顔を。


手にした力への畏怖に強張る俺を、その笑顔がどんなに容易く解いたか。







「なあ、返って来たなら、煙草返してくれよ」







そんな優しい火なら、幾らでも。
笑うとヒューズが満足そうに柔らかい色の眸を上げた。


俺はいつまで、手を伸ばさずにいられるだろう。











ロイヒュくさ…!!と思ったけど全然そんなことないと言われました…。(2004.03.25)